アダルトチルドレンと少女漫画(荷宮和子、廣済堂出版 1600円)

 ここで語られるアダルトチルドレンとは、「子供時代にいわれのない黙殺を受け、その傷を直す機会を得ることができないまま大人になった存在」として説明されている。、筆者はその原因を他者に共感できない、自分たちだけの価値観しかかえり見ようとしない男たちに求め、「この社会に生きる女性はすべてアダルトチルドレンと呼ばれるべき」と断言する。だからこそ、女たちによって紡ぎ出されてきた少女漫画の中にこそ、傷つけられた女の気持と癒しが潜んでいるのだ、と。

 筆者は男のありがちな価値観を徹底的に暴いていく。その手法は大胆で直接的である。例えば「桜の園」の映画版を取り上げれば、「いかにも男の目で眺めた同性愛風の関係に描写されてしまった。男のクリエイターはエキセントリックな女以外には興味がないことがよくわかる事例だ」と、いう具合だ。最後の章では、アダルトチルドレンアニメとして評価の高い新世紀エヴァンゲリオンも取り上げ、オタク男も俎上に乗せている。

 筆者のその怒りを込めた筆致を見ると、神戸で起きた殺人事件を取り巻く波紋を思い出す。「僕は透明な存在である」と語った14才の犯人と、その「透明な存在」という言葉に共感する同世代たち。新聞で読んだ少女はいかに自分の心境が、その言葉に象徴されてしまったかを、とうとうと語っていた。
 おそらく「透明な存在」という言葉が、「周囲になじまなくてはいけないのに、そうはできずに傷ついている」人々の心を刺激したのであろう。アダルトチルドレンという言葉が適切かどうかは知らないが、「自分は傷ついている」と感じている層が現代のこの国にははっきりと存在しているのは間違いのないことである。そして、筆者は犯罪にすらある種の共感を覚えてしまうような、自分を持て余している女の子たちの代表として、「それはあなたが悪いのではない。悪いのは男性的価値観である」と、声を張り上げているのだ。
 そういう意味からも、単に各個人の心の問題としてではなく、ここでいう「アダルトチルドレン」と現代社会との関係を今後突き詰めていくことは大切なことであろう。
 
 ただ、この本にもし疑問を差し挟むのなら、男の側の価値観がそれほど画一的であろうか、という点だ。女性には女性の不幸があるように、男には男の不幸があるだろう。筆者の言葉をそのまま借りるなら「男であるはずの私が最も不幸を実感してきたからだ」と、いう反論で事足りるような気もする。作者の男性感覚批判に飽き足らなかった読者は橋本治の「シンデレラボーイ・シンデレラガール」を読むのがいいだろう。そこにはなぜ人が傷つくのかが社会の問題として説明されている。
 力のこもった一冊ではあったが、筆者のやり残したこともまた多い。   

(97/7/25)


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