ガメラ 大怪獣空中決戦

 何故、怪獣映画が人々の心を捉えるのだろうか?それは怪獣が登場することで、我々の日常が異化されるからだ。普段見慣れた風景に怪獣を置くだけで、わずかに生じる「ズレ」の感覚こそが、怪獣映画の「映画」たるゆえんだろう。
しかし、始めは目新しい「比喩」として日常を彩った怪獣も、やがて観客にとっては見慣れたものとなりその異化効果は薄れてくる。そういう意味で、ゴジラシリーズやテレビの「ウルトラマンシリーズ」が続けば続くほど、ビジュアルで面である種の行き詰まりに陥っているように見えたのは当然のことかもしれない。(これらのシリーズは、長期化の過程で怪獣やウルトラマンに積極的に人格を与えたり、あるいはマクガフィンのように利用することで、別の物語の方法論を探るのだが、それはまた別の話である)。
 ガメラはこの怪獣映画が持っていた、原初的な「異化効果」を現代のなかで改めて甦らせた作品となった。これは特撮(役職は特技監督だが・・)の力だけではなく、リアルに感じさせるための「アリバイ」がしっかり描かれたシナリオ、深刻なだけでなく人物にある種の軽みを与えた本編の演出といったバランスの上で成立したのだ。
 この映画の特撮を代表するカットを上げるとすれば、やはり、夕日の中、東京タワーの上に着陸したギャオスを捉えたカットになるだろう。しかし、このカットが、あれだけの情感をもたらすのは、それまでのローアングルを中心とした「人間の目線」にこだわったさまざまなシーンの積み重ねがあったからこそなのだ。「あらためてそのものを見直す、ことで発見を産む」という異化効果は、この映画の場合「人間の目線」のこだわりから産まれたのだ。
 また、ギャオスが攻撃を受けると、東京タワーからは巨大な卵が落下してくる。DNAにエクソンしか存在しない「完全無欠の染色体」を持ったギャオスが、単性生殖していたことが分かる。シナリオは、こうしたSF的な設定も随所でしっかりと説明を用意し、ギャオスという生物に存在観を与えてることに成功している。マスコミや自衛隊のリアクションをところどころに挟み込んだアイデアも秀逸だった。
 そして本編の演出.。そもそもこの「ガメラ」という企画は、娯楽映画にこだわりを持つ金子監督だからこそ成立した部分が大きいと思う。金子監督は、もともと世代的にも特撮映画やアニメに親しい感覚を持っている。だから、アニメにも深いかかわりを持つ脚本の伊藤氏、特技監督の樋口氏とチームを組むことができたのではないか。また、金子監督の持つ、日本映画では貴重なユーーモアのセンスは熊本県警の刑事や環境庁の審議官などに十分発揮され、作品のシリアスさをそこなわずに映画の雰囲気に幅を持たせた。こうした硬軟のバランスのよさは日本映画の娯楽作品中では数少ないだけに、金子監督は貴重な存在だと思う。
 しかし、最初に書いた通り、怪獣映画を支える「異化効果」はシリーズ化されれば、その効果が薄れてくる。実際、「ガメラ2」では、その効果を失わないために、本作品で見ることのできなかったカットにチャレンジし映画の生命感を保とうとしていた。(例・移動する自動車から怪獣を見上げる、郊外を主決戦場に選ぶ、主人公の一人を自衛官にする、など)。スタッフのこのチャレンジあれば、お子様ランチとも揶揄される怪獣映画が、ガメラにおいては「映画」でありつづけるだろう。(97/03/29)


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