不安の世紀から(辺見庸、角川書店 1339円)

 元共同通信記者の辺見庸氏が、テレビの企画で、ニューヨーク大の歴史心理学者ロバート・ジェイ・リフトン教授とフランス在住の文学者であるファン・ゴイティソーロ氏と対談した内容がまとめられている。この本のキーワードを挙げるとすると、「プロテアニズム(変幻主義)」と「記憶の抹殺」の2つになるだろう。この2つはコインの裏表であり、それが我々の未来を暗示しているとも言える。
 
 司馬遼太郎が、日本では思想(イデオロギー)は生まれなかったと、書いたことがある。彼によると、思想とは複数の価値観を持つ集団がぶつかりあいそこに生まれた普遍的な認識(世界観)を指すという。リフトン氏が唱える「プロテアニズム」もこれに通ずるところは大きい。
 リフトン氏は、神話のプロテウスがさまざまに姿を変えるがごとく、弾力的に多様な価値観を取り入れることができる存在を「プロテアン的自己」と説明する。それは、司馬氏のいうところの思想を生み出す時に、母胎の役割を果たすような存在と考えられるだろう。複数の文化に精通することが普遍的な価値を生み出せる存在になりうるという考え方は、一種の逆説のようにも見えるが、コンピュータ技術の発達でさまざまな文化がこれまで以上にスピーディーに流れ込んでくる時代となりつつある今、その状況を混乱だけに終わらせないためにも、「プロテアン的自己」は日本人にとって不可欠なものと言えるだろう。
 その点、リフトン氏は、米国には歴史がなかった分プロテアン的自己が生まれやすかったと指摘する。人種のるつぼであったことその形成に大きく影響しただろう。とすると、日本人にとっては自分たが自国の文化歴史を理解することは大切でも、それを「誇り」という言葉でくくるのは、プロテアン的でない「原理主義」に近いように思われる。

 「プロテアン的自己」がコインの表とするなら、「記憶の抹殺」は裏側に位置することになる。「記憶の抹殺」とは、サラエボ図書館への攻撃についてゴイティソーロ氏が説明した言葉である。この言葉に象徴されるのは、人間の破壊に留まらない文化・歴史の破壊である。それは、2次大戦の遺物のような「民族浄化」という概念の延長線上で起きたことだった。
 サラエボは「西を向いた東洋、東を向いた西洋」と、評されるそうだが、その言葉からもプロテアン的な性格が明らかになっていた街であったことが伺われる。もともと多民族国家であるユーゴスラビアそのものが、プロテアン的な存在の実験場であったとも言えるだろう。そして、その実験は−少なくとも今は−失敗だった。その結果として、他の民族とその文化への攻撃が起こった。
 そして辺見氏は、そうした歴史上の過ちを忘れないことも大切であり、記憶を抹殺した側、された側による「記憶の生かし」が重要なのではと指摘し、ゴイティソーロ氏も負の歴史を「忘却の中に埋没させてはいけない」と応える。

 コインの裏表は非常に近い。プロテアニズムを生み出す環境はそのまま、「記憶の抹殺」が起きやすい状況でもあることは、サラエボの例でもよくわかる。だが、これは賭けではない。コインの表を選ぶか、裏を選ぶかは、我々自身の努力にかかっていることなのだ。
(97/05/08)


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