1998年2月上旬


<2月1日・日>
◇ 金曜日にやり損ねた仕事をフォローするために午前中から、ちょっと出歩くも、すぐに帰宅してやはり寝まくる。ほんの少しだけ「リアルサウンド 風のリグレット」に手をつける。夕方までこんこんと眠り続けて、ようやく体力が回復する。


<2月2日・月>
◇ 仕事のアポとりとかで仕事。それなりに成果が出て一安心。


<2月3日・火>
◇ 比較的ヒマだといいながらも、結局朝まで仕事。週2回は徹夜ペースというのが決まってきたなあ。


<2月4日・水>
◇この日は早く帰ったはずだと思うが……。(欠番)


<2月5日・木>
◇ 今週は比較的忙しくなく推移しているが、今日は仕事が遅くなって、結局家に帰ったのは午前5時ごろ。それでも、先週までの煮詰まりかたに比べたら相当楽なので、気分は軽い。


<2月6日・金>
◇ 会社の近くで簡単な夕食を食べながら学生時代の後輩と合う。新婚9カ月の人妻である、近況を聞いたり、定期演奏会の様子や同期などの情報を交換する。

◇ ついに「ブレイン・ヴァレー」読了。面白かったし、ドキドキわくわくした。下巻は今日一日でほとんど読んでしまった。まず、単純な比較として「パラサイト・イヴ」よりもずっと面白く、文章も上手くなっていた。ただ、この小説ってよく考えると、自然な説明セリフが多い一方で(それはそれで筆力のうちである)、キャラクター同士の会話がドラマを動かしていくようなダイナミズムには欠ける印象がある。エピローグは蛇足というかだめ押しでは? まああれは食後の”デザート”みたいなもんですな。

◇ 「ループ」は、あくまでドラマが主眼で、それを成立させるための背景としての設定を使っている。ネタバレになるけれど「ループ」とは、自己犠牲の物語。鈴木氏は特に語っていっていないが、明らかにキリストをイメージしているはずである。つまり、主人公薫は、親の存在しない子どもである(処女懐妊)、世界を救うための自己犠牲(ニューキャップにかけられる)、再生(ループ世界への再臨)と、救世主(メシア)としての人生を歩まされているわけだ。すると、雨に降られて苦労するのは、荒野における悪魔の誘いか?(こりゃちと強引か)>こんな解釈はどうでしょう。
そういう意味で「ループ」はSFなんだけれど、物語の比重は結局、センス・オブ・ワンダーというより、主人公の行動にこそドラマがあるのである。

◇ 一方、「ブレイン・ヴァレー」は、科学のスタイルで神様の問題を捉えようとした、そういう意味では正統派的SFなんではないだろうか。脳内現象をつかって臨死体験やアダプタクションの問題を解き明かすくだりは、この作者ならではのすごみがあった。それに加え、用意周到にさまざまなキャラクターに内面のドラマを用意したことも、この小説に厚みを出している。ただ、ないものねだりなのかもしれないが、もっとドラマを読みたいとボクは思う。上下2冊でも、ドラマ的にはほとんど一直線で、なるべくしてなるようになっている。唯一ドラマ的なゆさぶりがあったのは、主人公が父の葬儀の時に息子との和解を望みながら、それに失敗するという部分だけだった(ここはスリリングだった。特にオレ父子の確執モノには弱いし)。いっそのこと、息子をもっと重要人物にしてしまってもよかったのではないか、とすら夢想してしまう。作者はきっと、それほどドラマに興味がないとおもわれるしし、むしろ、センス・オブ・ワンダーにより世界が一瞬違って見える瞬間をこそ狙って書いているものだろう。それは分かった上での希望なのだが。しかし、読者とは強欲なものだのお。


<2月7日・土>
◇ 午前中からちゃんと起きて、部屋の片づけと洗濯をする。これまで部屋が散らかりほうだいだったのは、やはり忙しさが原因で、ちゃんと時間が有れば、これぐらいのことはちゃんとやるのである。

◇ 午後から会社に出かけて、サクサクと仕事をしつつ、夕方から後輩と新宿で一杯。けっこう、飲んだかも。3次会で入ったお店は一人1ドリンク、1フードをオーダーしなくてはならないという不思議なシバリがあったので、無理矢理フードを注文させられる。雨。


<2月8日・日>
◇ 金曜日から持ち越した仕事を家でシコシコすすめる在宅勤務な日。けっこうオレお持ち帰り残業してるなあ。

◇ 銀座をぶらりと歩きながら、思わず「てくてくエンジエル」を衝動買い。とりあえず、歩くだけで育てられるという手軽さが魅力的だ。健康管理の一環にもなるか? ただ、初代は名前設定を失敗したために「ひぽ」という極めてやる気のない名前に。こんなに愛情がなくてもいいのだろうか。

◇ 最近、やっと読書をする余裕が出来てきたので、本を数冊購入。元サブカル後のアニメ雑誌ではない「OUT」もまだ途中で読まなくてはいけないのだが(これは、どちらかというと仕事のうち、か)、ストレス発散と何か読まないといけないという強迫観念が、本を購入させるのである。

◇ 「鉄の城」(講談社、980円)。マジンガーは、なんといってもスタジオぬえの宮武一貴氏(だと思った)が担当したエンディングでしょう。あの影響で、ボクの子どもの頃の遊びは「ロボットの透視図を描く」がメーンでしたから。もう一つは、やはり東映まんがまつりで見た「対暗黒大将軍」。ヤラれるマジンガーがあまりに格好良くて、プラモデルを壊すという遊びを覚えてしまいました。ついでにいうと、ジャッキー・チェンの吹き替えの声を聞いても、兜功児に聞こえます。そういえば、「超獣機神ダンクーガ」では確か石丸博也氏は博士役で出ていて、なんとなく、兜功児がエラくなったような感じがして、感無量にもなったりしたなあ。

◇ 夜はカレーを食べながら「ジャイアントロボ」の最終巻「大団円 〜散り行くは、美しき幻の夜〜」を見る。イイぞ。大作少年がいかに主人公であるかを、ドラマ上でいかに説得力を持たせるかというのがポイントだと思っていたのだが、そこが見事にクリアされていた。それさえあれば、このお話はいいでしょう。OVA史上に残る金字塔であることには間違いなし。幻夜、アルベルト、村雨健二、混世魔王 樊瑞、孔明。をををを。名前を書くだけで、燃えたゼ、燃えるゼ。

 しかし、ボクにビデオを貸してくれた人はえらい低い評価だったなあ。この人は夏エヴァも2000円の価値なし、とか言っていたし、その評価基準は????である。ジャイアントロボを見て「伏線が生かされていないでそのままだ」とか言っちゃったらダメでしょう。それは、単なる些末な設定へのこだわりに過ぎないのでは。ビッグファイアとの戦いとかは、世界観を広く見せるために小出しにしただけでしょうから。まあ確かに「戦いはつづく」には笑ったけれど。

 一応、ほめてばっかりではなんなので、ロボの欠点を挙げておく。それは、巨大なロボットが小さな少年の指令で動く、という根本のおもしろさが極めて薄いところ。第1話ですでに緊急ガードシステムが発動して、ロボが大作少年を助けに緊急発進してしまう、というあたりがそう。呼ばなくてはロボはこない、という前提が成立していないから、ガードシステムが発動しても、スペシャルな感じがない。ロボそのものより、脇のキャラクターに人気が集まるのもそれが一因ではないだろうか。ロボは、あくまで草間博士の遺言の象徴として描かれていて、ゆうきまさみ氏のように、「これは横山作品のテイストではない」という指摘もまた正しいのである。


<2月9日・月>
◇ 渋谷で仕事。といいつつ仕事を忘れて、いろいろアニメについてしゃべってしまう。時間を忘れて、いろいろ話しをうかがうことができてなかなか充実。しかし、先週金曜日に合った後輩と同じ工場に務めているというのは、個人的にビックリ。(当人同士は面識がないだろうけれど)。ボクの妹の旦那とは同じ会社というわけになるし。F社包囲網がオレの回りにあるのか?(←誇大妄想)。そういえば、土曜日に飲んだ後輩はF社と商売敵のN社勤務だった。いまのところN社包囲網というのはなさそうだが。

◇ 午前1時過ぎに帰宅。自宅で明日の仕事のための資料を家でひっくり返して格闘する。が、それより先に、ネットに逃避する。最近は、ほとんど限られたサイトそれも日記しか読んでいない。仕事での調べものについては、かなり積極的に使っているのだけれど。もうちょっと活用してもいいかもしれないし、面白いサイトを探して歩いてもいいかもしれない。そんなこんなで、リンクを2件追加しました。

◇ 石ノ森章太郎氏の死去について大いにタイミングを逸しているが、書いておこう。 
石ノ森氏はある時期まで天才だった(過去形)。彼の功績の一つは、手塚治虫が一つのスタイルとして完成させた「コマ」の機能を、もっと徹底的に発展させた点だと思う。コマの基本的な機能は、マンガというメディアに「時間」を発生させることにある。コマがあることで、目線の動きが発生し、それにより印刷物である「物語」がデコードさせるのである。石ノ森氏の、コマ使いのうまさは、手塚治虫が映画的とよばれたものよりはるかに発展していて、むしろ完全にマンガ的なリズムを確立したといった方が正確だ。例えば、セリフのない「ジュン」があれだけあれだけ物語として成立しうるのは、氏の卓越したコマ使いあればこそなのだ。そして、マンガ的なコマ割りの確立は、どんなストーリーもマンガ的な時間に吸収うることを可能にし、つまり氏が後年「萬画」ということを唱えるのはごく自然なことだ。

 残念なのは、後年の絵の荒れ具合により、こうして確立したコマのテクニックもテクニックの残骸としてだけ残っていたのが、痛ましかった。 

 個人的に読んだ範囲で、ベストを選ぶと。
・龍神沼
・サイボーグ009 エッダ編、地下帝国ヨミ編(ミュートスサイボーク編も捨てがたいが……)
・ジュン 9月の魔女、INという音、死−直前の幻視、想い出のジュン
・佐武と市捕物控 (何編か石ノ森テクニックを駆使した作品があるのだが資料を漁る時間がない)
というまっとうなところかな。ロボット刑事Kや仮面ライダーなんかも、独特の情感があるのだけれど、手元には持っていないので、無責任にほめるのはやめておきます。


<2月10日・火>
◇ 思いつきで、手塚治虫に関する伝記を買いあさる。大下英次の「手塚治虫 ロマン大宇宙 上下」、桜井哲夫の「手塚治虫 時代と切り結ぶ表現者」、伴俊夫と手塚プロダクション「手塚治虫物語」。いや、単なる衝動買いなんだけれど、以前からちゃんと彼の人生の基礎データを読んでみたいと思っていた。年齢と学歴の詐称(というと言葉はきついが、偽っていたことには違い有るまい)について、それぞれの本がどのように言及しているか興味がある。一応、ボクが把握している事実の基本は、手塚が入学したのは大阪大学医学付属専門部であって医学部でいない、ということである。(手塚治虫物語によると、同専門部は昭和26年に廃止されている)。以前、ある方と話したときに出た話題だが、本当の評価はもう少し時間が立たないとできない、というのは事実だと思う。まだ、神のオーラは生きており、解剖台にのせるには生々しいのだ。

◇ おまけで、鳥山石燕の「図画百鬼夜行」を入手。(正確な意味では購入したわけではない)。こうして描かれた妖怪ってけっこう味わいがあっていいなあ。折に触れてつらつらとページを繰りたい1冊ではある。その延長なのだが、妖怪がらみということで、ちくま文庫の柳田国男全集から、「妖怪談義」を購入。ちょっと民俗学・マイブームがやってきそうな気配である。ただ、それの前に昨年末からの宿題である「レディ・ジョーカー」と「あ・じゃ・ぱん」を読まねばなるまい。道はまだ遠いか。  


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