1997年8月下旬

<8月21日>
 ◇ さて、今日はマジメに日記を書くぞ。
 「宮崎駿の世界 ユリイカ8月臨時増刊」を概ね読了したところ、異論反論モードに脳味噌がなっている。同時に、改めて僕の中で何故あれほどいい印象を残したのかをもう一度詰めておく必要があるように感じた。

 □ 映画について文章を書く時にいつも気になるのは、映画はエンターテインメントであるべきかどうか、ということである。ここでいうエンターテインメントとは、「木戸銭に見合うだけのサービスをしてくれるもの」と、やや狭い意味で定義しておく。逆の言い方をすると、映画を批判する場合に「プロだったら客が満足するようにサービスしろ」というものの言い方が 以外に多いということが指摘できると思う。

 結論から書いてしまえば、映画の産業的な側面と作品論を混同するからそういう言い方になってしまうのだと僕は考えている。そして、そういう意見はえてして、「無い物ねだりの批評」という落とし穴に落ちてしまうのではないだろうか。映画をめぐるさまざまな言説を何と呼ぶのかについては、異論も多々あるとは思うが、ここでは便宜的に批評という言葉を使うことにする。

 「無い物ねだり的批評」について考える前に、その前提になっている駄作/傑作という枠組みについて、僕の考えを書いておく。当たり前のことだが、駄作/傑作の基準は各個人で全て異なる。つまり、あえていうなら全ての映画は「傑作」でありえるのだ。しかし、これを本当に受け入れてしまったのなら、その瞬間に「故に傑作である」「故に駄作である」という、批評の結論そのものが無効になってしまうことは、見逃されがちなのではないだろうか。そこに残るのは「僕にとってはつまらなかった」という極私的な感想という、批評の原初の姿でしかない。だからこそ、批評と呼ばれる言説は、傑作/駄作を導き出す過程においてその映画をどんな地平(文脈)に着地させるか、という解題のプロセスが、その結論よりも重要になるのである。

 よくみられる「無いものねだり的批評」の弱点は、あるべき傑作像を説明していない点である。あるべき傑作像が示されていない以上、 無限の減点が可能になる。もし、作品に欠けている部分を指摘するのであれば、「作品をどういう文脈で捉えているか」「それ故テーマとして何が読みとれるか」「するとどの部分が欠けているか」「それは全体にどんな影響があるか」という要素がなければ本来は成立しえないのである。だから「キャラクターに魅力がない」「アクションが物足りない」「テーマがありきたり」という言葉では何も映画を語っていることにはならない。そこに語られているのは、実は「無自覚な自分の欲望」にしかすぎないのである。

 「映画はサービス業である」という視点もまた、「無自覚な欲望の産物」と言えるだろう。
 映画は作品の表面に商品という包装紙が張り付いている。商品として成立するには、多くの人間が木戸銭を払う必要がある。そこでは、より多くの関心を呼ぶ要素が重要になり、最大公約数の欲望を取り込む戦略「マーケティング」が必要になる。産業論的視点から見た場合、映画とはつまり大多数の欲望を満足させる装置といえるだろう。この文脈で、映画を語るのであれば、映画鑑賞者の欲望のあり方(ロマンチックな気持になりたいなど)と、映画がいかにその欲望を満たしたかという視点で語られるべきだろう。では、商品の向こう側にある「作品」はどうなるのか。これは、各人が自分で考え、商品という包装紙をはがさなくては現れないのである。この努力なくしては、我々は映画という作品には触れることはできない。そして、得られた作品というのは、批評あるいは物語の確認という限定された局面でしか他人と共有できない極めて個人的なものなのだ。

 「映画がサービス業である以上、お客を満足させるべき」という意見は、自分の欲望が満たされなかったという説明に過ぎない。そこにあるのは、商品と作品の間にある思考停止だけだ。
 僕はその意見を否定はしない。そんな意見を持とうが自由だからだ。が、「お客を満足させるべき」という言葉の裏側に潜んでいるものにもっと自覚的であってほしいと思っている。 

 ○ ちょっとマジメに屁理屈などを書いてみました。たぶんに自戒も込められています。もっとも、レビュー(紹介)ってのはまたちょっと違うと思っているんですがね。あれは、批評であれば必要な、どういう文脈で捉えるかという作業を省いて、「一般的な世界」を前提にすることで、人に映画を推薦するということを可能にしていると思います。だから、筆者の「一般的世界観」が実は問われると同時に、読者が筆者の世界観を読みとる努力をしなくてはならないわけですな。

<8月22日>
 ◇ 日記猿人に、愚か者が一人現れた様子である。バカは死ななきゃなおらないというのが真実なのは、バカに自覚がないからである。まあ、真相究明はやるべきだし、被害者の方には十分同情する。
 バカについては、自慰行為は自分の家でやれ、というのが僕の意見であるが、相手が露出狂のバカである以上「暖かいまなざしの無視」という戦法が結局一番有効なのかもしれない。ああ、そうういえば、露出狂に出会ったら「ちっちゃーい」と指さして言うと効果があるというが、今回の犯人もそれに類するコンプレックスがあるのかしら。攻撃にでるのは自らの欠けた男性性を埋め合わせる行為とか? まあ、そんなの、別に見たくも、知りたくもないけど。
 ところで、「日記猿人の先天的バグ」は、最近おとなしいようであるが、まあ反省しているとは思えない(主観的判断)。これも「暖かいまなざしの無視」の対象なので、このへんで日記ネタはやめておこう。

 □ WIRED10月号を読む。日刊スポーツ(正確には関連会社の日刊スポーツ・データサプライ)が展開している、プロ野球の試合をパソコン処理するシステムが興味深かった。というもの昨年12月ぐらいから、僕は情報をストックとフローに分けることで、何か見えるんじゃないかなと考えていて、今回の試合過程のパソコン処理についてもその部分から関心を持ったのだ。

 漠然と今考えていることを言葉にすると、様々な情報はストックとフローに分類できる。また、フローとして流通している情報も蓄積されればストックとしての意味を持つ。パソコンネットの普及で情報はフロー化しつつある。といったところだろうか。言葉にするとありきたりなんだけどね。
 もっとも、余談になるが、映画の究極のフロー化「オン・デマンド」について僕は結構疑問視している。理由は映画ファンはそんなに多くないと思うから、商売として成立しないのではないかと思うのだ。とはいうものの、狭い部屋の住人にとって、フロー化は福音ではある。

 試合過程のパソコン処理は、まさにフローそのものを扱う作業であるが、それが試合を経ることによってストックとしての価値を持つ。新聞記事もその傾向はあるが、新聞記事はその記事そのものが持つ自立性(独立性)が高いため、試合の投球経過の方に僕はよりフロー/ストックのダイナミズムを感じたのだ。

 フローの情報をフローとして流してしまうのは、簡単であるが、ちょっと興味を持てばそのフローこそがストック情報への入り口である、というのは、いささか飛躍した結論でまとめるなら、情報のフロー化がいっそう進むネット社会はマニアの心性と親和性が高いということであろうか。 

 ○「ターミナル・エヴァ 新世紀アニメの世紀末」(永瀬唯編、水声社 1200円)を、ほぼ読了。一番感心したのは、引用された音楽から作品世界を分析するという評論。もともと、強引であると思っていた着眼点なのだが、その考えの道筋は結構興味深かく、夏エヴァでの使用楽曲を的中させていたのには驚いた。「どんな文脈でも作品は読みうる」という実例のように感じた。
 それと、エヴァにおける特撮的想像力についての評論も、何度も指摘されつつも表層だけしかなでられていなかった部分に、しっかりと踏み込んでいたと思う。

 そういえば、昨日の映画論・論は別にユリイカへの反論ではないです。「プロなら満足させるべき」的論調のサイトを読んだことと、ユリイカを読んだ映画への意見の多様性を、どのようにつなぐかという僕なりのゲームの産物なのでした。一応、説明まで。 

<8月23日>
 ◇ 昨日は、仕事でどうでもいいような理由で、徹夜をしてしまい。太陽が高くなってから帰宅。眠れないままに、「ラブ&ポップ トパーズU」(村上龍、幻灯舎 1400円)を読了。うーん、もう半年遅れていたら読むのが苦痛だったかも。一瞬の欲望のきらめきとはかなさを描いた作品だけに、作品の寿命もなかなか短いのではないだろうか。好きな小説ではないが、作者のやろうとしたことは分からないでもなかった。評価は同時代性をどう考えるかで大きく分かれるでしょう。さて、どうする、庵野監督。もう、クランクインしてるんだよなあ。

 □ もう一つ読んだ本。「大震災名言録 「忘れたころ」のための知恵」(藤尾潔、光文社 1300円)。阪神淡路大震災に」まつわる人の営みのおもしろさをすくい取った本。大きな不幸があっても、人は笑いもするし、さまざまな欲望も持ち続ける、ということがよく分かる本だった。ニュースというには細かすぎる話題だけれど、こうやってまとめられると読み応えがあった。

 ○ 夜は、ビールを飲んだらさっさと寝てしまう。PG。  

<8月24日>
 ◇ 金ー土のほぼ完徹のためか、目が覚めたら午後3時。疲れが回復するのはいいが、なんだか週末があっという間になくなってしまうのは残念である。
 とはいうものの、夏らしくマンガ雑誌「ネムキ」なぞをつらつら読む。今市子さんの「百鬼夜行抄」がおもしろかった。川原由美子「観用少女」が表紙では巻頭カラー63枚となってるにも関わらず、20ページ(含む広告1ページ)で「前編」となっていた。うーん、人生いろいろあるなあ。隔月刊でもこういうことってあるんだなあ。

 □ ぶらりと目白・「切手の博物館」へ。現在は「切手を食べる」と題して、世界各地の食べ物にちなんだ切手を展示していた。僕は別に切手にはなんの興味もないが、中には、ウシや犬の体に住みつく病原菌の切手もあって、何が楽しくてこんな切手をつくったのか? といぶかしくなるようなものまで展示してあった。同博物館で面白いのは、プリクラと同じシステムで、自分が写った絵はがきが作れる装置があること。フレームのデザインは切手風で、4分割にになっているところもグーである。

 ○ 帰りに日本酒なぞをいっぱい飲んで、帰ってきてつい眠ってしまう。

 △ ホラー狂日記さんの一件は、日記猿人が抱えている、先天性バグに加え新たにバカなことをする登録者が現れたらどうするかという問題点を突きつけた、と言えるのではないだろうか。その割には、「定番悪役」の騒ぎに比べて周囲のリアクションが悪いと思うのは僕だけだろうか。まあ、まだヒールとして「くるい」さんが物足りないということか?(笑い) まあ、そういう問題でもないとは思うので、やはり事情説明を求めるメールをみんなで出すとかは必要ではあるまいか。

<8月25日>
 ◇ 1週間ほど前から、アニメ映画「火垂るの墓」の感想を書こうと思っている。けれど、なかなかいい切り口がみつからないので、ファイルは作ったものの放置したままになっているのだった。というのは、この映画を取り巻いている混乱に触れるか触れないか、という問題もあったりして、けっこうややこしいのである。この混乱の原因は、日本人の戦争観を育てた「反戦教育」の手法や、戦争を安易なセンチメンタリズムの材にしてきた日本映画界の「手癖」があることは間違いないことだと思う。

 ○ こんなことを改めて日記に書こうと思ったのは、朝日新聞のはがき通信(ラジオ・テレビ欄にあるミニ投書コーナー)を読んだからだ。投書の主は中学生。見だしが「なくなれ、戦争」ということからも分かるように、先日の「火垂るの墓」のオンエアを見て「戦争はいけないと思いました」というありきたりの内容だった。
 いつも書いているけれど、映画をどのように見るかは自由だ。ただ、その見方があまりに自動的に見ているのであれば、そこからこぼれ落ちるものが多いこともまた事実だと思う。僕は、「火垂るの墓」=反戦映画論は、そんな決まり切った見方で決定されているような気がしてならないのである。あの映画の本当の姿は別にある、というのが僕の姿勢である。

 △  「火垂るの墓」の兄妹は何故死ななくてはならなかったか。僕は、これは「兄のプライド」が妹を殺したと解釈している。死にたくなければ、少々納得のいかないことがあったって、頭を下げて親戚の家にいればよかったのだ。それなら少なくとも栄養失調で死ぬことはなかったはずだ。ところが、彼はそれを拒否した。その部分を見落として、妹の死を戦争と直結させてしまうのは、乱暴な見方ではないだろうか。幽霊となった兄が、自分の過去を慟哭しながら追体験するのは、その時の自分のプライドを見る耐え難さが彼を悩ましていたからに違いない。14歳という、大人子供の時期にある中途半端さは、この映画でも重要なテーマになっているのだ。

 そして、このプライドはその若さも手伝って、より純化され「心中」へと流れ込んでいく。彼らは社会に背を向けて、自分たちだけの甘い生活を夢見るのだ。自分たち以外はどうなってもかまわないという反社会性は「心中」には付き物。この映画では、空襲に歓声を上げ、盗みをする兄の姿にその反社会性が表現されているのだ。しかし、その甘い生活というのは結局、かりそめのものであり、ホタルの灯火のように実体がなく、やがては失われてしまうものなのだ。
  
 ここで、この映画のいやらしいところは、2人の「心中」の過程を甘く描きながらも、社会的な視点を捨てずに彼らを追いつめるところだ。この映画の演出の振り子は、二人の心情を丁寧にすくい上げながら、
「けったいな子やなあ」という彼らに対する世間の評価も同時にぶつけてくる。しかも、それをいう人々をことさら悪人らしくしないように演出している。「悪役」と目されがちな、親戚のオバさんだって、言葉がきついだけで、無意味にいびっているわけではないのは、冷静に見れば分かることだと思う。
 この主人公を突き放しつつ甘く描くという嫌らしさこそ高畑演出の骨頂だと思う。
 
 と、いうわけで僕は「火垂るの墓」=反戦映画という意見を見ると、すごく居心地が悪いものを感じるのである。僕にとって、あの映画の戦争とは重要な背景過ぎないのだ。

 ○ ちなみに、うちの父親も「「二十四の瞳」は反戦映画であって、教育物の映画ではない」と、ここ十五年以上も文句をいっている(笑い)。 

<8月26日>
 ◇ 某掲示板に、新潮社のFOCUSが書店で販売できなかった一件について、ちゃんと書き込もうと思って、参考資料を漁っていたらこんな本をみつけた。「書店論ノート 本・読者・書店を考える」(湯浅俊彦、新文化通信社 1854円)。どうも、ポジショニングとしては革新系の色がないわけでもないようだが、「出版の自由と書店」という項目があったことに興味を惹かれた。

 ○ 結論から言えば、直接新潮社の一件に役立つような内容ではなかったのだが、チャタレー裁判について面白い記述があったので、それについてちょっと。
 1957年の最高裁判決では、なんと「仮に、多数の国民の倫理感覚が麻痺して猥褻なものをそうと感じなくないとしても、裁判所は良識を持った人間の社会通念に従って、社会を道徳的退廃から守らなければならない。法と裁判は社会の現実を肯定するものではなく、堕落に対して批判的に望み、臨床医師的役割を演じなくてはならない」(要約)と言っているのである。すげー。
 この文意を延長して考えると、どんなに時代が開放的になっても、一度ダメといわれた猥褻物はダメでありつづけるのではないだろうか? 法学部出身者だったらもっといろいろ読みとれるのかもしれないけれど、素直に読めばそうとれる。では、ヘア・ヌード解禁とか伊藤整版チャタレイが出版されたっていうのはどういうことなのだろうか。まあ、個人的に、裁判所が臨床医師的役割を果たすってのは、ちょっとよけいなお節介だと思うので、現状でいっこうに構わないのだけれど・・・。

 ここ10年ほどの解放(開放?)化の流れは、法律的にどのように位置づけられているのかどうかは、さておいても、裁判所が自分を臨床医師的役割という自覚を持っていたのはちょっとした驚きである。つまり、社会の病気について、病名をつけ、それについての処方箋を作るのが大きな仕事の一つだというわけだ。
 問題は社会の病気ってのが、どこからが病気で、どこからが正常かを判断するのがものすごく難しい状況だし、もしかすると、病気じゃなくて、本来この社会の持つ体質の問題だったりすることも考えられたりする。人間の体だったら、「漢方で体質改善」なんて民間療法的手法も考えられるけれど、相手は裁判所と法律である。これは、民間療法的曖昧さとは無縁の、ばりばりの西洋合理主義の申し子であるから、体質改善なんて結論にはなかなか到達しないだろう。

 日本語には一病息災って言葉があるが、その一病を治療しなければ息災ではないというのが西洋合理主義だろう。そして、社会の現実というのは、「一病息災」であるほうが、バランスがとれているものだ。ミクロな視点で見ても、ニュータウン的整然さ、学園都市的清潔さが人を不安にさせるのは、やはりこの一病の部分が欠けていたからに違いない。でも、人が集まって社会が成長していけば自然と一病の部分は生まれて、バランスがとれるものだ。そう、臨床医を自認する裁判所なんかが、人為的にその病を取り除こうとしない限りは。

 まあ、この話題を管野美穂写真集発売記念としておこうか。やれやれ。

<8月27日>
 ◇ 昨日の発言を読み直すと、あちこちで表現上の矛盾が気になった。けれども、まあ本筋であの考え方は変わっていないので「よし」としよう。
 それは、さておき。食べる量は決して多くない(むしろ減らしている)のに、どうして体重が減らないのか疑問に思っていたら、やはり我慢したあげくのドカ食いというような食生活に原因があるらしい。僕は、それほどドカ食いしているとは思わないが、昼間はあまり食べないで、酒を飲みながら夜遅くにガッチリ食べる場合が多いので、そういう食習慣に問題があるのだろう。反省。
 とはいうものの、問題の発見は簡単だが、問題の解決は難しい、という根本の部分は変わりはしないのだが。

 □ さて、快進撃を続ける「もののけ姫」であるが、公開43日目となる8月23日に、「南極物語」の持つ配収記録59億円を突破したという。一応、当初の目標であった配収60億はクリアしたわけだが、次は「E.T」の記録を目標にするそうだ。数日前のスポーツ紙によるとリピーターもそこそこいるらしく、当分の間、混雑は続きそうな勢いである。うわさでは年内はずっと上映するとか、しないとか。

 僕はフィルムを見る前からずっと「地味だから、そこそこのヒット、下手すると15億ぐらい」なんて予想をしていた。フィルムを見た後も、「すごい」(同時に、超絶技巧を要求されたアニメーター・美術さんらにご苦労様)とは思ったけれど「ヒット」するとは、ちょっと思わなかった。

 もともと、僕はマスの動向を予想するってのはすごく苦手で、「好き」「嫌い」「(俺的には)良くできている」「(俺的には)評価できない」っていうのはあっても、「これはうける」「これはブレイクする」なんて発想そのものが出てこない。最近のテレビ・雑誌に登場する若い娘(じじいくさい表現だ)なんか見ても、すぐに記憶が揮発してしまって、「うん、この子はきっとブレイクするに違いない」なんて思ってフォローするというところまでいかないのだった。 下手するとかわいいともなんとも思わないことがあったりするからなあ。(別に女の子が嫌いというわけではないが・言い訳)

 ともかく、僕にとっては予想外のヒットとなった「もののけ姫」の実績を前に、その数字の大きさに想像力がマヒしてしまうのでした。 

 ○ いささか旧聞ではあるが、週刊アスキーの岡田斗司夫「オタキング日記」を読んで嗤う。8月1日に、オタキング事務所を静岡県の役人が訪問しているゾ。なんでもオタキング日記によると、石川嘉延知事は岡田氏の著作である「ぼくたちの洗脳社会」のたいへんなファンだとか。やれやれ。

 確かに、静岡県は、俺的原点である「ザンボット3」(焼津市)や、やおい少女御用達「キャプテン翼」(地名は架空・マガジンの「シュート」は掛川市か)、世紀末マンガ「ドラゴンヘッド」(新幹線が県内に入ったところでカタストロフに巻き込まれ、現在の舞台は伊豆半島)なんて、さまざまな名作・話題作の舞台になっている。「究極超人あ〜る」のビデオでは、水窪町の飯田線大嵐(おおぞれ)駅や佐久間町の飯田線佐久間町駅付近の鉄橋も出ていたし、アニメ映画「ちびまる子ちゃん 私の好きな歌」は、清水市がもともとの舞台であることに加え、県庁前の地下道らしきものも登場する。
 こういうことから考えても、静岡県はオタクとの親和性は高い自治体であると言っても間違いないだろう(ウソ)。 

 しかし、オタキングの力を借りて何をするつもりだ石川知事ッ。岡田氏の著作は一見文明論に見えるが実はアジテーションというのが特徴だから、一歩距離をとらないと危険だぞ(笑い)。某有力支持者はそれを認めているのか?(笑い)
 まあ、オタキング日記の内容だから、話半分ってことで受け止めてますけどね。 

<8月28日>
 ◇ 昨日は眠るのが遅かったのにも関わらず目が早く覚めてしまった。そんな余分な時間を活用して、書店へ出向き買い損ねていた本を買う。そしてそのまま、新宿で映画「ポストマン・ブルース」を見る
。思っていたよりずっとポップで、単純に「面白い」といえる要素の多い映画だった。詳しくは、映画印象派で詳論の予定だが、「現実の裂け目からのぞく夢」「自転車/自動車」というあたりがキーワードになると思う。

 奇しくも、新宿高島屋アネックスの紀伊国屋書店で購入した「ニューズウイーク日本版」は「日本映画ルネサンス」という特集を組んでいた。特集に登場する監督は、カンヌのカメラドールに輝いた河瀬直美監督や「スワロウテイル」の岩井俊二監督、「Shall we ダンス?」の周防正行監督ら。ハリウッド映画では製作費が1億ドルを超えることも珍しくないが、日本でアート系の映画を撮ろうとした場合、その20分の1を集められたら幸運なほう、という記述もある。

 以前参加していたMLではたまに「日本映画はつまらないので見ないです」という人がいた。個人の好みなんで、あんまり厳しく指弾(笑い)はしないし、そんな人にいちいち日本映画のおもしろさを教えるのも面倒くさいので投稿もしないのだが、食わず嫌いっていうのは力説する種類のものでもないというのが僕自身の感想だ。そう、それはアニメを見ない人にもいえるな(笑い)。つまりは、自分が嫌いな物を、好きな人もいるかもしれないという想像力の欠如にすぎないわけだ。まあ、世界中から戦争がなくならないのと同じ理由で、こういう想像力の欠如はなくなりはしないと思うけど。以上、ごまめのはぎしりでした。

 日本映画界の抱えている、どうしようもなさというのは多々あるけれど、いい映画というのは少なからずある。 一言で言えば日本映画はハリウッド調の娯楽映画はすごく下手(それはシステマチックなシナリオの不在である)だが、それが映画の全てでは無いのは当たり前の話で、映画というメディアでしか味わえない濃厚な時間・空間を作り上げている作品ははけっこうあるのである。そうした映画はインデペンデント系の作品が多く、興行的にも苦戦している上に、地方の人が見る機会少ないのが本当にくやまれる。まあ、地方で上映するにはうまい仕掛け・システムがないと効率が悪いのだろうけれど。
 
 ○ 紀伊国屋などで購入した本。「慎治」(今野敏、双葉社 1750円)、「ノストラダまス 予言書新解釈」(頭脳組合、彩文館出版 952円)、「まんが秘宝 つっぱりアナーキー王」(洋泉社 1100円)、「唐沢なをきの楽園座」(唐沢なをき、講談社 552円)。それに、NumberとQuickJapan。クイックジャパンについては書きたいこともあるんだけれど、眠いので今日はおしまい。

 ☆ 懺悔。もしかすると僕は今まで幻冬舎を、幻冬「社」と記入してたかもしれません。すみません。最近はアウトロー文庫の「外道の群」(団鬼六、幻冬舎 495円)を購入したので許して下さい。

<8月29日>
 ◇クイックジャパンの竹熊×大泉×東の鼎談を読む。なんつーか、すごくオーソドックスな内容でした。僕はどちらかというと東氏に近くて、春エヴァでこりゃだめだ、と思っていたのが、夏エヴァで逆転したという立場なんで、結構うなずきながら読んだ。

 とはいうものの、「もののけ姫」と「夏エヴァ」を比較すればするほど、やはり心にしこりとなって残るのは「労働の尊さとか、共同体の尊さ、自然の美しさなんて言ったって、若い世代にはリアリティないからさ」(竹熊氏)という部分である。これは、別に竹熊氏に限った話ではないのだけれど、「労働の尊さ」などというものは本当に死に絶えたのかどうか、というのはやはり一度精密に検証する必要があるのではないかと思うのだ。なぜなら、こうしたかつての価値観は、消えたのではなく、姿を変えたのではないか、と感じる時もあるからだ。
 素朴な疑問として、こうした発言をする竹熊氏も仕事のやりがいは感じているだろうし、信用できる仕事仲間なんていうのはいるはずなわけだ。すると、程度は薄まった(あるいは範囲が社会から仲間へと狭まった)けれど、こういう感覚そのものは生きているような気がしてならないのである。若い世代が、そういった感覚が薄いのは、働いていないからというのが主な理由なのではないだろうか。利益を一にする組織が所属すると、多かれ少なかれそういう要素は出てくるのではないだろうか。まあ、そういうのが企業犯罪の温床ではあるだろうし、この考え方自体も社会に出て苦労すれば変わるという、一種の「通過儀礼としての軍隊」論的でちょっと抵抗感はあるのだか。

 確かに社会的な倫理として、労働・共同体の尊さが今あるか、と尋ねられれば僕も疑問を感じるのではるが、それを歴史の単線的な変化(っていう表現でいいのかな、尊さあり→なしという直線的な歴史観)として捉えすぎるのは粗雑すぎるのではないだろうか? これは、僕自身他山の石にしなくてはいけないかもしれないけれど。

 □ 夏エヴァは、パンツ降ろしているっていう表現が流布してはいるのだが、どちらかというと「他人との心の距離がある」という心の一部をものすごく拡大してみせた、という比喩の方がいいのではないだろうか。パンツ降ろすという、その表現はつまり「本当の部分をさらけ出す」という意味が込められていると思うのだが、あの映画で描かれた他者の不在(厳密に言うと第三者の不在か?)が「本音の部分」であったら、モノ作りそのものが不可能であろう。

 △ 昔から思っていることだが、<他者>の扱いとSFアニメの歴史、というのはなかなか面白いテーマではないだろうか。
 まず<われわれ>の時代(ガッチャマンとか)があって、次第にその中における他者度があがり「ヤマト」となって「ガンダム」になる。ガンダムでは完全に他者、この場合は<われわれ>を構成する「私」と「あなた」以外の存在、が登場するようになり、「私」と「あなた」の距離もぐっと微妙になる。
 で、これが次の段階になると、他者はいるかもしれないが、とりあえず「われわれ」というカテゴリーを作る、という変則的な手法が登場する。例えるなら、他者を他のクラス・部活に、<われわれ>を同じクラス・部活と見なすわけである。これが、学園ラブコメの影響を受けた「マクロス」になるわけだ。
 で、エヴァになると他者の要素がすでに、「あなた」の中に取り込まれてしまう。ここでは、舞台は<われわれ>で構成された一つのクラスに限定されるが、「わたし」と「あなた」の中に既に他者が入り込んでいる。そのため、<われわれ>と<他者>という社会を感じさせるダイナミズムはなくなり、そのかわり<あなた>と<わたし>の間でドラマを追うことが、結果どんどん<われわれ>を<他者>へと分解していくことにつながるわけだ。だから、最終的には<わたし>(われわれ、の構成要素の最後の部分)と<他者>になってしまうということになる。こういう風に捉えると、使徒という設定もかなり重要かもしれない。

 あれ、これってエヴァはガンダム的他者観をアウフヘーベン(笑い)したってことですかぁ?

 なかなか面白い思いつきだと自分でも思ったのでそのうちリライトしてみよう。異論ある方は、こちらまでよろしく。
 
 ○ 映画「恋極道」を見る。なんつーか、東映版「ベティー・ブルー」ですかぁ?(笑い)。望月六朗監督は、独特の叙情を持っているが、いかにせん「ヤクザもの」という枠組みや「男女観」が古すぎやしないだろうか。そこここにあるさりげないユーモラスなシーンもいい味を出していたとは思うが・・・。三〇歳以上の男性には評判いいと思いますが、二〇代の女性にはダメダメでしょう。望月監督が、やくざもの以外の作品を撮ったらどうなるだろうか。なかなか興味のわくところではありますが。

<8月30日>
 □ 久しぶりに部屋の掃除をする。なにしろ日頃こぎれいに生活しているから(ウソ)、掃除なぞ月に1度で十分なのだ(ウソ)。本棚にも手を着けて、きれいに並べ直した。本を丁寧に入れ直してみると、まだまだスペースがあることが分かり一安心。それから「ポストマン・ブルース」の感想を7割ほどまで仕上げる。午後は新宿に出かけて、CDをちょろりと購入し、そのままライオンで一杯、さらに自宅近くに河岸を変えて、もうちょっと飲む。

 合間にゲーセンでクイズものとVF3なぞをちょろりとプレイ。VF3をやるのは実は初めてだったのだが、それ以上にアーケードゲームをプレイするのが半年ぶりだったので、勘を取り戻すまでに時間がかかった。使うキャラクターはあいかわらずリオン一本槍。そういえば、知人がVFのヤオイを見たと言っていたことを思い出す。なんでも影丸(っていう名前だっけ?忍者)が受、リオンが攻だったそうだ。ちょっと読んでみたいかも(笑い)。

 ともかく、帰宅してさらにビールを一杯。相変わらず夜のお酒で栄養補給な一日であった。こういった食生活がデブの元であるのは明々白々だな。そんなことはさておき明日は懸案だった「ザンボット3」のLDボックスを購入しよう。
 夜はWOWWOWで「2010年」。これって傑作ではないけれど、僕はここに描かれている宇宙の風景はものすごく好きなのだ。今見ると、最後のわざとらしい平和へのメッセージも、極めて正統な「SF映画」だからと思えば許せないないこともない。見ているうちにぐっすりと眠ってしまう。それからPG。

 ◇ 寝て起きると、午前1時過ぎ。なんだかんだしながらも、ギルガメを見て、それから初めて「ねらわれた学園」を見る。以後、ねらわれた学園を見ることを俺的に「ねらわれる」と呼称することを決定。ちなみに、マクロス7を見ることは「俺の歌を聴く」と呼んでいた。とはいうものの見たのは3回ぐらいだったけれど。
 学校を、社会の縮図と考えるのは日本の大衆文化の特徴なのだろうか。まんが秘宝の新刊なぞを読みつつ、「ねらわれてる」と、日本社会における学校のポジショニングというのは、マンガなどの文化に多大な影響を与えているのではないか、という気がしてくる。

 ○ 日記猿人ネタ。警察が云々という意味不明(?)な一行情報を発見。なんだか泥沼の様相である。自分のやったことの理由も説明できない人にしては、ずいぶん積極的である(笑い)。まあ、ヒールにしてはほんとに小物という感じだけどね。 <8月31日>
 ◇ 昨日の午前1時に起きたら眠れなくなってしまい、そのまま読書モード。「外道の群れ」(団鬼六、幻冬舎 495円)を読了し、勢いで「慎治」(今野敏、双葉社 1750円)も一気に読み終える。そのあとは「未来映画術」をつらつらと。
 「外道の群れ」は面白かった。大正時代を舞台にした一種の群像劇だが、さまざまな同情人物が、外道(変態)という一点でくくられている。誰か映画にしないかなあ。
 「慎治」は、小説としては予定調和的ではあるが「まあまあ」の出来。問題は、プラモデルやサバイバルゲームという肉体を使う作業をともなう「おたく」であったから、主人公の慎治は救われたのだ、という基本構造ににあると思う。観賞し、うんちくをだらだらと語るようなだけの「おたく」(まあ、俺みたいな奴ね)はあのような現実への着地は可能なのだろうか? と、いうようなことを考えさせられた。

 □ 目が覚めてしょうがないので、マクドでモーニングを食べた後に、2度寝することなく映画「スクリーム」を見に行く。場所は池袋。映画は面白かった。いわゆるショックシーンも上品だったし、ホラーの王道かも。作中でホラー映画への言及が多いことが、メタ・フィクションなんて大仰なところまでいかないけれど、サスペンスを盛り上げたりする上で効果的に機能していたと思う。

 ○ 映画のあとは新しくできた大型書店「淳久堂書店」へと出かける。そこで、僕の所に散財の神様が現れたので、その神様の命じるままに本を買う。
 「電子頭脳映画史」(聖咲奇、アスペクト 2400円)、「and Other Stories とっておきのアメリカ小説12篇」(村上春樹他訳、文藝春秋 1333円)、「権力の恐るべき犯罪 神戸小学生惨殺事件の真相」(神戸事件の真相を究明する会、300円)、「別冊宝島176 社会学・入門」(宝島社 981円)、「ダウンタウンの理由。」(伊藤愛子、集英社 1200円)。
 また、それと前後してリブロやマンガの森池袋店などで以下の本・雑誌も購入。
 「平成狸合戦ぽんぽこ」(高畑勲、徳間書店 1300円)、「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治・永島慎二、NHK出版 1500円)、「OUTLAW STAR 1」(伊東岳彦、集英社 530円)、「陰陽師 6」(夢枕獏・岡野玲子、スコラ 840円)、「ピンポン 5」(松本大洋、小学館 920円)、「スピリット オブ ワンダー」(鶴田謙二 講談社 1143円)、「近現代の考え方 正義ではなく真理を教えるために」(板倉聖宣、仮説社 2060円)。それと、コミッカーズ。
 ああ、チャイナさんがかわいすぎる。
 
 淳久堂書店はワンフロアは狭めなものの、八階だか九階まであるので、専門書も充実している。ただ、棚と棚の間隔が狭く、書棚には足下から頭のてっぺんまで本が詰まっているため、本は探しにくい。今日は、トライアル的立ち読み者も多かったので、そんな人を避けながら店内を回遊するのも一苦労。各階に座り読みのための椅子が設置してあるところが「今風」か。

 △ 一杯飲んで帰宅する。  


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