1997年7月下旬

<7月21日>
 ◇ 今日は午後からお出かけで、渋谷、原宿、青山と若者の街なぞをぶらぶら。原宿では芸術家・沼田元気(気は旧字)の展示会をやっていて、よく知らない人だったけれどぶらりと入る。なんと表現すべきか、日本各地の昭和30年代を思わせるようなおみやげなどをコレクションし、そこにそれに似せた自分の作品などをまとめて展示していた。キッチュでジャンクなものばかりだけど「THIS IS ART」というロゴが入っているだけで、「作品」に見えるから不思議なものだ。
 結局アートとはアートを探す目線のことなのだろうか。
 それから、オープンカフェ「カフェ・デ・プレ」で一服。眠いのを我慢して、青山のシネシティまで出かけて、結局キネ旬だけ買って帰ってきた。結構歩いた、健康的な一日であった。(ビールは飲んだけど)

 □ キネマ旬報8月上旬号を読む。「映画戦線異常なし」が「誘拐」の不入りについて分析。大高宏雄氏の指摘はまったくその通りだと思う。不入りの原因は宣伝不足というのは一面の真実ではあるが、よくできている「誘拐」のシナリオでも、映画興行(もしくはプロデューサー)的視点で見たときに、問題があったことは否めない。以前、この日記でも書いたけれど、どの観客層が感情移入して(楽しんで)見られるかという部分が希薄だった思う。ラストの叙情に流れる展開では、F1,M1層の支持を得られないし、口コミも期待できまい。
 現在、悪役を作るのは難しい時代ではあるが、大高氏の指摘する通り犯人像にはやはり一考の余地があったと思う。これは、犯人が誰かという種明かしが問題なのではなく、人間像や犯意のテンションの高さの問題だろう。(ちなみに、ぼくは大高氏の動機も見直すべきだったという意見の部分にだけは組みしない)
 ともあれ、「誘拐」がこの種の日本映画として屈指の完成度であることは否めない。みなさん、機会があれば見ましょう。

 ○ 先日、小耳にはさんだ噂。ある出版社はマンガ出版に慣れていないので、「作中の子供のハシの持ち方が悪い、正しい持ち方に描いて欲しい」という種類の直しが入るそうである。また「絵があがると完成度より先に、指の数を数える」というもう一つの噂も聞いた。あとマンガでない料理のページでも、加熱する必要のない料理を「O−157の問題ががあるので、工程にレンジで加熱するを入れて欲しい」とか注文するのだという。お仕事ご苦労様です。

 △ ああ、もどかしい。夏エヴァのネタバレなどを書いているページも散見するのだが・・・。ラストに出てくるキャラは「(伏せ字)」ではないぞ。 勘違いしないように。そこが作品の肝なんだからぁ。ああ、気持ち悪い。これって僕の会社の人も勘違いしてたからなあ。これから見る方も注意して見てね。

<7月22日>
 ◇ 伊良部秀輝投手を見ていると、どうもイゴコチが悪いのだ。特に、先日の唾吐きのシーンを見て決定的になった。イゴコチの悪さは彼の攻撃的な姿勢が原因なのは分かっているのだが、彼の態度と僕がどこでつながっているかとなると、どうもうまく説明できない。もっと要領よくやればいいのに、とか、やはり無礼だな、とか思うことは多々あるのだが、それだけではない。ただ、きつく縛って”玉”ができてしまったひものような違和感だけがざらりと残る。

 このイゴコチの悪さは、どこかで覚えがある。例えば、今回の神戸の事件や、東電OL殺人事件の時に感じた、あの違和感と似ている。別にこの2つの事件だけではない。貴乃花とかやんごとなき人々なんかを見ていて感じる違和感とも底を通じ合っているように思う。この違和感の源を並べて眺めて頭をひねっているうちに、少々乱暴だが、ある種の共通項ないわけではないことに気づいた。それを僕なりの言葉にするなら「物語の喪失」となるだろう。

 情報を受け取った人は、かならずそれを理解しやすいように組み立てる作業を行う。例えば、旅客機の事故による死亡なら、「振ってわいた不幸」とか「運命」とかいうキーワードで、情報を整理・消化する。これを僕は「物語化する」と密かに呼んでいる。
 しかし、神戸の事件や東電OL殺人事件は、さまざまな情報や先入観などにより、自在に複数の物語が成立してしまい、その多さ故に、情報の受け手が合理的に納得できる物語化が非情に困難な状況になってしまった。なぜ複数の物語という混乱が生じたかというと、主人公のモティベーションがさまざまに推定されてしまうからだ。推理されたモティベーションの数だけ、紡ぎだされる物語。これに、マスコミが大いにコウケンしているのは言うまでもない。

 前に挙げた2つの事件が、登場人物の動機がいくつも推測されるケースだとしたら、貴乃花とやんごとなき人々は、これと裏表の関係だと言える。例えば、角界のサラブレッドにして最年少横綱、あるいは長年の恋愛を実らせた幸せな長男。どちらも、そんな紋切り型の物語しか語られず、しかも、こちらの登場人物はその動機を決して口にすることはない。こちらは、動機のないままイメージで作られたたった一つの物語が一人歩きしている。こんな物語は、ないに等しい。

 あらゆる物語の中心には動機がある。だけれど、動機が多すぎて実態がつかめなかったり、あるいは語られなくかったりすれば、僕たちの理解できる物語はすぐに揺らぎ、「物語を喪失」してしまう。それが、ざらりとした違和感を生むのだろる。

 さて、伊良部に戻ろう。結局、僕は彼が何と戦っているのかがよく分からないのだ。戦いの動機がよく分からなくて、彼の物語をどのように組み立てたらいいか分からない。それが僕の違和感の正体にちがいない。
 日本人の大リーグへの挑戦? 伊良部は自分の実力が「挑戦」なんて水準では留まらないと信じているはずだ。憧れのチームのため? マスコミが伝えていないだけなのか、彼のセリフからフォア・ザ・チームという言葉は聞こえない。 じゃあ、無能なマスコミへのいらだち? マスコミへの反撃と試合中の唾吐きは別物だろう。
 「憧れのヤンキース」と何度も口にしてきた彼は、今、不毛の戦場に一人で立っているように見える。それは、憧れを達成したための動機の喪失ではなく、動機を支えている何かーそれはおそらく敵だったり味方だったり、その両方だったりするものだがーそれを欠いてしまったためのように思う。そして、彼はそれを自覚していないからこそ、自分の物語をイメージできず、いらついているのかもしれない。記者会見でことさら無愛想に応答している彼を見るとそんなことを感じる。

 チームへの憧れを語った口。その口からはかれた唾。彼の愛情と憎悪がどこへ向かおうとしているのだろうか。願わくばハッピーエンドの物語でありますように。

<7月23日>
 ◇ 実家からメール。「偽名日記はいつも読んでいますが、意味が分かりません」とのことだ。わははは。そりゃそうでしょう。この日記は僕にしか分からないように書いてるときもしばしばだからである。(文章力のなさはさておき)。それから、先日、後輩から最近「PG」という記入がありませんが、というメールもあったが、「書く必要があれば書きます」とだけ書いておこう。これも、僕の個人的な覚え書きであるので気にしないよーに。しかし、本当に最近「PG」とは書いていないなあ。

 □ 先週から今週にかけてついに日記が不定期更新の様相を呈した。ついに睡眠欲が、更新意欲を上回ったというわけだ。不定期更新になったら、アスセス数も落ち着いて、なんだかちょっと安心したり、寂しかったり。で、この間、思い出したように映画「うなぎ」の感想を書いてみたけど、なんだかへたくそだった。けっこう脱力してます。
 目指すスタイルは、それほど衒学的でない「狐」の書評なんだけどなあ。短いセンテンスで、その映画の特徴をうまくすくい取ることができれば、もっと短い時間でいっぱい更新できるだろう、と下心を持っているんだけれど、そうは問屋がおろさない。とりあえず、今は次の「もののけ姫」のアイデアを練ってます。結構、書きやすそうな感触ではあるのだが・・・。

 □ 忙しかったので、先週から今週にかけては読書も一服状態だった。しばらく読まないと本を読むのが苦手になってくるので、とりあえず、矢作俊彦のエッセーを概ね読んで、読書欲が落ちないようにするちなみに、「知と愛」は某知人から取り返すのを忘れてそのまま。ああ、早く読みたいよお。今週末は文化的な日々を送りたいものである。

 ○「サルまん」の新装版を購入。なんと先日スピリッツに連載された、復活編(なんていうのが正式タイトルだっけ?)も収録されている。ファンにはうれしい心配りだネ。

<7月24日>
 ◇ キキ的状況である。といっても「落ち込んだりもしたけれど、私は元気です」というわけではない。資金が(またも)ショートしそうなのだ・・・。なんでこんな状況にと思って調べたら、やっぱり6月分の給料の振り込みがどう考えても少ない。約3分の2程度しかないのだ。

 少ないのはもっと以前から気がついていた。でも、生来の無精と、転職したばかりなので、給料がどういう風に支払われるかどうかをよく理解していなかったので、当初は「あれ、こんなもんだったかなあ」と疑問に思いつつも、あとで振り込まれる可能性もあるだろう、と能天気に放置して置いたのだった。

 でも月末になるにつれ、背に腹は変えられず、経理に相談してみた。そうすると、僕の給料は週あたりいくらで決まっているのだが、その数字が本来○万△千円のところを、経理が△万○千円と間違って入力していた事実が判明した。それで、給料が少なくなっていたわけだ。やれやれ。で、七月分ももう処理済みだというので、やむなく差額を現金で支給してもらった。
 これでやっと保険料と家賃が払えるぞ。それにしても、しっかりしてくれようなあ>経理

 □ リミッターがはずれそうなのを理性で抑えながら書店で買い物。「忍ペンまん丸」(いがらしみきお、ENIX 410円)、「ナニワ金融道」(青木雄二、講談社 530円)、「岸和田博士の科学的愛情」(トニーたけざき、講談社 540円)、「THE END OF EVANGELION 僕という記号」(庵野秀明、幻冬社 1400円)。それに雑誌では「鳩よ」「文学界」「ニューズウイーク」「文藝」を購入。
 それから、「3001年」は、見かけて二度ほど手に取ったが、無い袖は振れずあきらめる。

 △ 「僕という記号・・・」は、富士見書房から出たシナリオ集のリミックスという感じの仕上がり。エヴァとのシンクロが云々されるR.D.レイン(という名前だっけ)の詩集(?)あたりがイメージだったのだろうが、遠く及ばない。結局、詩というにはあまりに言葉が脆弱すぎる。やはりビジュアルを前提としているからだろうか、片肺飛行の感は否めない。装丁はなかなか恰好いいんだけどねぇ。
 ともあれ、次回作「ラブ&ポップ」の関連で幻冬社から出たんだろうな。と下司の勘ぐり。

 ☆ 「文藝」は加門七海が、諸星大二郎と星野宣之にインタビュー。どういう意図かは分からないが、全然「文芸の世界」とは関係ない世界が展開しているのだった。必読とまではいわないが、微妙にずれた鏡像のような二人のそれぞれの世界観は楽しめる。
 それにしても、星野氏が「宗像教授シリーズ」をスタートするにあたって、諸星氏に「稗田礼二郎と講釈師(西遊妖猿伝)を貸してくれ」といったというエピソードは興味深かった。もっとも星野氏は「2001夜物語」で講釈師を一度拝借してはいるのだが・・・。

<7月25日>
 ◇ 六本木で仕事の後、青山ブックセンター(ABC)に立ち寄る。なにしろ足りなかった給料を、昨日現金で払ってもらったばかりである。ネコに鰹節状態で店内をめぐり購入するが、衝動買いはあまりしなかったので、ちょっと欲求不満が残る。だって、ねえ、買い物の楽しさってハプニングでしょ?
 購入した本は以下の通り。
 「アダルトチルドレンと少女漫画」(荷宮和子、廣済堂出版 1600円)、「未来映画術『2001年宇宙の旅』」(ピアーズ・ピゾニー、晶文社 4700円)、「もののけ姫を読み解く」(ふゅーじょんぷろだくと 1050円)、「3001年終局への旅」(アーサー・C・クラーク、早川書房 1800円)、それに雑誌「ワイアード」。あ、「敵は海賊」の新作を買うの忘れた!(前作もまだ読んでないくせに・・・)

 □ 「アダルトチルドレンと少女漫画」はさっさと感想書いちゃったので詳細は省略。しかし、「はみだしっ子」を読まなくてはいけないということを改めて実感した。それに「残酷な神が支配する」も、ね。
 「3001年・・・」は、面白かろうがつまらなかろうか、とりあえず買うという方針を立てていたので、それに従って購入する。2061年はなんだか番外編みたいな物語だったけれど、今回はどーなんだろうか。別に傑作は期待していないけれど。
 「もののけ姫を読み解く」は、自分の映画の感想が書き終わるまでおあずけである。いつになるやら。

 ○ いささか前の話になるのだが、アエラに庵野監督が登場。試写が16日だから、取材日が17か18日と考えると、22日発売(記憶が不確かだが)というのは、アエラにとっては余裕のスケジュールなんだろうか?ともあれ、「映画は勘違いの集合体」というのが監督のお言葉である。
 同じく庵野監督にインタビューした週プレは未読なので、探して読まなきゃ。

 これまた、古い話だが今週のニューズウイークを購入。この記事を読むと、なんで攻殻機動隊がビルボードで1位になったかはすごくなぞだ。ただ、ある人の話によると、日本製アニメは向こうのアートシーンですごく「誤解」含みで評価されているとか。そのあたりの層はおそらく、この記事に登場するようなOTAKU層とはまた違うだろうから、ここで紹介されるイベントの動員人数が驚異的に少なくても(約800人だそうだ)のとは別の文脈で、セールスが伸びたのかもしれない。
 どちらにしろ、海外で日本製アニメーションがどのようにウケているかは、もう少し冷静な分析があった方がいいのではないだろうか。このイメージと実像の間を埋めるには、販売量とその購買者がどういう層かを結びつける研究が必要に違いない。

<7月26日>
(以下、26日午後に記す)
【日記関連発言・DEATH】
・個性の顕現は「悪」のにおい
・自殺するほどのところを経て、少年の自立性は高まる
・善良なる者は、創造しない。それは想像力を欠いている
・善悪を明確に区別し、悪を排除しようという単純な一神教的思考への批判
・悪。存在の否定、あるいは生命的なものの否定
・悪の様相、そこにあるのはは「関係の解体」
・子供の時に根元悪を体験し、その怖さを知って2度とやらないと決心することが必要
・子供との関係を絶つこと。それは、悪人としての子供を排除することとは別
・自分自身になるために、自分を支えてきた支柱を壊す
・正しい言葉もスローガンになれば硬直する
・硬直した思考。それは単純な二者択一
・攻撃性をコントロールするためのスポーツ
・アグレッション(攻撃性)は人前で語るときの動機
・ルールは、それを守らせればよいという簡単な問題ではない
・ルールを手がかりとして、人間がそこに表される
・「悪」と「英雄」の両面を持ちながら、「笑い」に逃げ込んで身の保全をはかるのがトリックスター
・昔の人はウソと虚偽を区別していた
・露悪家は自ら暴き立てることで、悪に対する責任を放棄する
   (河合隼雄著「子どもと悪」からの引用を要約するなどしてリミックス・文責はぴょん太)

【日記関連発言・REBIRTH】
 ◇ なんで、こんなに日記関連発言するか自分でもよく分からなくなってきた。けれど、ここまでいっぱい書いてしまった以上、考えていることを全部書いてしまおうと思っている。あと書き残したことは、猿人の運営についてだ。ここの文章は結局、以前、猿人の掲示板で書いたものをもういちど書き直すようなものだ。結論は変わらない。

 現在まず行うべきは、不正行為を行った人への罰則行為である。それをどのような手段・方法にするかは管理者に一任する。措置が決まったら、参加者全員が読める場所に一定期間、公告する。その間、不正行為容疑者の意見も含め、その措置について参加者からの意見を集めた上で、管理者が改めて措置を執行する。
 全体のルール作りを行わないのは、あらゆる不正に対応するルール作りはあり得ないからである。その時々の判断の積み重ね(それは、試行錯誤を伴うが)が慣習法として機能することを期待したい。この方法では、量刑についての矛盾もでるかもしれないが、それはやむを得ないリスクである。

 それから、僕は日記猿人を単に更新の掲示板だと思って利用している訳ではないです。それを説明しようとするなら・・・。

(以下、26日午前に記す)
【日記関連発言・接触編】
 ◇ どうやらこの日記は本当に意味不明らしい。昨日、ある方からいただいたメールでも「読んでいて意味が分かりません」と、粛々と書かれていた。「そうか、それが投票数が少ない理由なんだ」と、思い当たるが、それで態度を改めるかというと、それはなかなか難しい。
 人と話をするときには、共通の前提条件づくりが不可欠なんだけれど、WEB日記はその前提をすっとばして、いきなり個人的な結論を書けるところが、僕にとって最大の魅力である。だから、勢い意味不明になるのは避けられないのだった。
 中森明夫のように、巧妙なレトリックでワンフレーズの結論をデコレーションしていく技術があれば(例・スパ!のニュースな女たち)それはそれで面白い読み物になるのだろうけれど、こちらは技術として帰納法と演繹法しか持っていないので、そうエレガントにもできない。

 意味不明になる原因分析をすればするほど、意味不明でありつづける理由が浮かび上がってくる。当分、この状況は変わりそうにないのである。幸いにして、このページが不愉快であると言われたことはないので、このペースは変わらないだろう。何しろ、僕の中にはまだ「動機」があるのだ。その動機があるかぎり書き続けるのである。誰も読まなくても。
 やっぱり意味不明と思ったら、こちらまで。

【日記関連発言・発動編】
 ◇ チェーン店で量産されるハンバーガーをどう考えるか? 僕はどちらかというと、体に悪いしあれは正しい味覚を破壊している、なんていう「エコロジー野郎」的発想を持っているのだが、実際にはよく昼食として食べている。ハンバーガーを味わうために、頭のスイッチを切り換えればすむことである。
 これが、マンガ「美味しんぼう」に登場する美食倶楽部のオーナー(あれ、意味不明になるのを避ける解説をくわえてるぞ、小心者め)海原雄山だったら、即座に「こんなくだらぬもの」といって、排除してしまうだろう。(原作にはハンバーガー勝負のエピソードもあるが、混乱するのでここでは触れない)彼は、食に対する哲学を持っていてそれは尊敬に値するのは間違いないことだ。

 ただ、僕がいつも思うのは、海原雄山のように世界をよいものと悪いものの二つに分けてしまうことに意味があるのだろうか、という疑問だ。その方が世界はずっとシンプルに見えるし、安心できるけれど、それは自分が安心するためのシステムに過ぎないのではないだろうか。世の中は、もっと混沌としていることを忘れてしまって、自分に見える世界が全ての世界だと勘違いしたら、これはほかの人にとってはものすごく窮屈な世界になるかもしれない。

 ハンバーガーは体に悪いから食べちゃだめだ(ちなみに、体が悪いから云々というのは後付の理屈で、実は単にハンバーガーをまずいと思ってるだけの人が多いのも世の常である)と、いって本人が食べないのは自由である。でも、店の看板を掛け替えさせたりするのは、ハンバーガーという「文化」(そう、どんなにクズなものでも一定の量さえあればそれは一つの文化だ)に対する挑戦としか思えない。(あるいは過剰防衛か?)そういう挑戦をする人生を選ぶのは自由だしそれはそれで尊重するが、それは僕の持っているモラルとは違うということだけははっきり言える。

 でも、僕はここで遠吠えするだけです。日記を書くことの何割かは愛情を求めるさもしい遠吠えです。自分のいうことで現実を変えようなんて情熱は、実生活の努力で使い果たしてますから。
 僕が挑戦するタイプの人の意見に茶々入れたくなるのは、ひとえに、良いものと悪い者に分けてしまうような世界が来たら、僕はきっと悪い者の方に入ってしまうだろうなあと思うから。挑戦するタイプの人はきっとそういうことは余り感じないから、あっさりとハンバーガーを食べる人を悪いほうとしてカテゴライズしてしまうんだろう。

 とりあえず、原則論だけ書きました。個人的なトラブルはここでは考慮してないです。(例えば、ハンバーガー店が地上げで建てられたために、元地権者がハンバーガーの不買運動を起こしている、とかいう場合)。しかし、こんなこと書いてるから意味不明と言われるんだろうなあ。
 所詮、血塗られた道よ。
  
 □ それから、最近ハヤリの某氏の日記「読まない」運動ですが、僕は1カ月ぐらい前から、実行してます。ええ、あまりに自分が某氏の言動に振り回され過ぎてるのが嫌になったんです。ですから、ここしばらく心静かに生きてましたけど・・・別件でちと、暴走してしまいましたね。もうちょっと暴走するかもしれません。
 暴走で思い出したけど、ノートパソコンを使ってる最中に電源コードを抜くと、内蔵バッテリーに切り替わるわけなんですが・・・ねえ・・・やっぱり「内蔵電源に切り替え!活動限界まであと4分50秒」とかいいたくなるのはオレだけでしょうか。お前だけだ、という方はこちらまで。

 △ ホラービデオの貸し出し状況をチェックとは、警察も忙しいなあ。赤旗の購読者をチェックするだけでは足りないわけだ。図書館並の守秘義務がレンタルビデオ店にも求められるべきだろう。個人の嗜好を公権力がチェックするのは、ちょっとねえ。ああ、それから久しぶりのPG。

<7月27日>
 ◇ 新宿で「ロスト・ワールド」を見る。いやー、大味大味。スピルバーグも墜ちる所まで墜ちたなあ。眠かったもん。でも、これぐらいつまらなくても、ヒットするし楽しかったと感想を言う人もいるであろう。それはそれでかまわないんだけれどねえ。詳細はいずれ映画印象派ででも書くだろう。(←こうやって書くわりには、感想を書いていない映画多すぎる)
 むしろ、笑ったのはエメリッヒ監督の「ゴジラ」の予告。博物館にあるティラノサウルスの骨格標本を、ゴジラの足が踏みつぶすというジュラシックパークを意識した内容。おそらく予告編用に製作されたフィルムだろう。ゴジラはしっかりCGで描かれていたけれど・・・?

 □ 26日は秋葉原へ出かけた。宮崎駿の「オン・ユア・マーク」と、大滝詠一監修「クレイジーキャッツ デラックス」のLDを購入。欲しいLDを手に取りまくるが、そんなに所持金がないことに気づいて、もう一度棚に戻す。(つまるところ、こうたやめた音頭ですな)大林宣彦監督の旧作とか、岡本喜八監督の独立愚連隊など、かなり邦画のLDがあるお店だったので捲土重来を期して帰る。

 ○ 何となくフィールヤング別冊「メロディーズ」を買う。歌をテーマに読み切りを描くという、講談社の「歌謡漫画大全集」(だったっけ?)と同様の趣旨である。メンツはフィーヤン本誌で大活躍の安野モヨコさんを初め、やまだないと、桜沢エリカ、多田由美といったところであるが、それに、よしもとよしとも、井上三太の名前がならぶと違和感はあるなあ。安野モヨコさんの「渚にまつわるエトセトラ」、よしもとよしともの「ライディーン」はなかなかの佳作。

 しかし、なんといってもすごいのは多田由美さんの「神様の名前」。最初の数ページを除くと、どう考えてもファクス送信したみたいな線。枠線なんかもにじんだようにぶれていたりしているし、トーンの効果なんかも正直言って汚い感じ。締め切りぎりぎりになって、ファクス送信したのだろうか? それとも和田ラジヲ氏につぐファクス送信漫画家を目指した結果だろうか・・・。←そんなわけないか。

 △ 学生時代の先輩からメール。意味不明日記について「元ネタの分からないパロディといったところ」というご意見だった。言い得て妙の例えに感心する。←感心するだけで、反省はしないやつ。それからPG。

<7月28日>
 ◇ 書店で本を購入。マンガ「『坊ちゃん』の時代・第5部 不機嫌亭漱石」(関川夏央・谷口ジロー、双葉社 1200円)、「手塚治虫劇場」(手塚プロダクション、1714円)、「VIDEOまっしぐら」(石川三千花・中野翠、主婦の友社 1000円)。
 「坊ちゃんの時代」は、修善寺の大吐血あたりから始まるらしい。予備校時代に第一部が単行本だったことを思い出すとその完結に要した時間の長さがまざまざと感じられ感無量である。
 杉浦日向子の描く江戸時代には親しみを感じるが、二人の手になる明治の風景は自分の原風景を見るような痛ましさと懐かしさがある。僕にとって明治とは、つまり「坂の上の雲」と「坊ちゃんの時代」によって描かれた空気のことなのだと改めて実感する。

 □ 「手塚治虫劇場」は手塚アニメ作品全集という内容。鉄腕アトムから24時間テレビのアニメ、最新作「ジャングル大帝」といった商業アニメだけでなく、実験作も紹介されている。それぞれの作品を見ていると、手塚治虫が岡田斗司夫氏のいうところの「王様タイプ」的な煩悩に満ち満ちていた人なのではないだろうかと思えてくる。そして、日本アニメ史上に旧作・鉄腕アトム以外の足あとを残していないことに納得するのだった。
 ちなみに僕は、宇田川一彦氏デザインによる手塚キャラが好きだが、手塚キャラ風でない(デザインは故・坂口尚氏)バンダーブックも捨てがたいと思っているのだった。

 「VIDEOまっしぐら」は、相変わらずのお二人の自由奔放なお話が楽しい。ただ、ちょっと鼻につかないでもないけど、それが持ち味だからしょうがない。

 ○ 週刊アスキーを読む。今回の「オタク・アミーゴス」は「もののけ姫」が俎上に。相変わらずの調子で突っ込みまくりであるし、それを唐沢氏が註でさらに突っ込むという凝った内容。個人的に異論はないでもないが(笑い)、人の意見を尊重しよう、が最近の僕のトレンド(失笑)なので、はやめに自分の感想を書き上げて溜飲を下げることにしよう。

 島田雅彦×宮台真司対談での、島田氏の「エヴァは中学生日記」という指摘は慧眼だと思う。僕自身はそういう見方をしているわけではないが、普通の一四才の少年少女がエヴァのどこに魅力を感じているかについて端的に表現しているのではないだろうか。

 特集・中学生サルベージ計画は8ページもかけて、八方ふさがりであることを確認するというむごい内容。もっと単純な現場ルポみたいな方が、同じ八方ふさがりでもいいと思うんだけれど。それにしてもアスキーって、首都移転の時にも思ったけどシミュレーション好きだなあ。ああ、社風か(笑い)

 ☆ 岡田斗司夫氏は、「脇が甘い」と思う。アスキー誌上での大泉実成氏に対する全面謝罪に続いて、週刊オタクウイークリーでの竹熊健太郎氏とのゴタゴタと、続けてトラブルが発生したのは、諸般の事情があるにせよ、本人の無神経さが招いた部分が多くあると思う。「ID4」の時に、大統領がヘルメットを取り出すシーンがあった、というのと同じで「事実誤認ですみません」では済まないのだ。
 「もの書きだから主観は捨てられない」というのは一見正当に思うが、あの文章が竹熊氏の行動を「暴露」する以上の要素があったかどうかを、一度考えてみるべきでは。 

 ○ 月曜日なのにPG。 

<7月29日>
 ◇ 嵐の前の静けさ、というか、台風一過というか、比較的平穏なまま推移する日々である。ビールは飲んでいるけれど。そして、今日も飲んだけれど。

 □ なんという理由もなく「たまひよコミック」なぞを買った。 僕が個人的に、生きているのがつらそうな漫画家ナンバーワンと決めている「曽根富美子さん」も連載をしていたし、巻頭では今をときめくエヴァのキャラデザイナー・マンガ版作者「貞本義行氏」の愛娘、愛息子の姿をみることもできる。
 まあ、今回の雑誌で一番インパクトがあったのは、まついなつきのエッセイで「家事は家庭にあるのではなく、家族の一人一人にあるのだ」という発言であった。まあ、どっちにしろ僕にとっては対岸の「家事」ですけれど。 
 昔、「探偵ナイトスクープ」で「子供を産むのはどれぐらい痛いのか?」という調査をやっていた。その時は3人も生んだおばちゃんが「この世のものとは思えない痛さ」と言っていたが、今をときめく南Q太さんの出産マンガを読むと、男には創造不可能な痛さらしいことがよく分かる。
 まあ、女性は男性ならではの2大痛覚(股間の強打とチャックではさんだ時)は分からないから、こちらは「痛み」わけってことか。

 △ 「アダルトチルドレンと少女」を読んだという知人からメール。「作者にバカバカと言いたい気持」だそうだ。それもよく分かる。内容っていうより、筆者の姿勢に引っかかる人は多いかもしれないなあ。 

 ○ 先日書いた日記関連発言で当面打ち止めと思っていたら、なんでも某日記読み日記が例のごとく某氏のメールちくり攻撃で閉鎖に追い込まれたとか。やれやれ。れすッの全てがすきとは言いませんが、知恵を使ってしぶとく生き延びることを期待します>きむあつ様(あ、こんな日記読んでないか)
 まあ、どんな社会でも、バカはつきものなので、某氏は初期設定に含まれているバグとしてやっていくしかないでしょうな。 

<7月30日>
 ◇ あれ、庵野監督のインタビューは今週の週刊プレイボーイに掲載だったんだ。僕が、1週間勘違いしていたみたい。内容のポイントは「「作り事のリアルとは何か」というのがラブ&ポップのテーマ」というところだろうか。リアルであることへのこだわりは、時としてペシミズムに陥ることを安易に肯定しがちになると思うのだが、とりあえず原作でも読んでから監督の言葉を噛みしめてみよう。

 □ アエラではACの特集。僕は、アダルトチルドレンという言葉自体は好きではない。元の意味から拡大解釈がされすぎて、本来的な意味からずれすぎていると思うからだ。しかし、少女漫画(特に80年代)が、優等生の居場所のなさを描きあれだけ共感を得ていたことを考えると、そこに何かがあるのは間違いない。欠損の感覚なのか、あるいは自我が過剰なのか。アダルトチルドレンという言葉に縛られずに、もう一度新たな命名とその真実を探る調査(学術的あるいはジャーナリスティックな)が行われることを期待したい。

 アエラには、アニメのデジタル化についての記事もあった。記事の趣旨に従うと、どうやらデジタル化は、不可避の流れのようである。ただ、前にも書いたけれど、彩色・撮影というのも世界観を完成させるには重要なパートではあるが、優秀なアニメーターと演出家をどれだけ現場で育てられるか、という基本的な環境問題こそアニメ作品製作における課題であるだろう。
 それ以上に、制作費アップとスポンサーという産業的な問題が大きく、そういう意味でバンダイビジュアルが映像作品だけで商売になる仕組みをもっと大きくすることを期待したい。(←はッ、いつからバンダイ派に!?)

 ○ 「ソウルの練習問題」(関川夏央、新潮社 520円)を読了。新聞的なルポとは全く違う手法であり、いささかブンガク的という気持がしないでもないが、生活上の些事から、メンタリティの根幹まで丁寧に書いてあった。「退屈な迷宮」と比べると、こちらの方が叙情派であるのは、若書きであるが故だろうか。
 それから、同じ作者の編んだ「日本の名随筆76 常識」(作品社 1800円)も読む。そこに収録されている詩人の一文より「男の子が一人前になる方法」
 ・女性の話ににこやかに同調しない。バカにされる
 ・女性の苦手な歴史を勉強する
 ・表面的な話でごまかさず、その女性が心に抱えていることに直接取り組む姿勢をとること
 ・母親とは同居しない
 ・父親ばなれは10代で。 
 ・セックスのマニュアル本は読まないこと。自分の目で見ること。
多少、くだけた読み物であるのでいちいちごもっともというほどでもないのだが、3番目などはいい指摘じゃあないだろうか。ちなみに女性版もあり、こちらもいくつか引用すると
 ・男らしさが表れるまで、ラブレターを強制的に書かせる。思考能力を養わせる。
 ・なんでも質問ぜめにすること。
 ・明るいライトの下で、ベッドをともにすると全てが分かる。
なんて具合だ。こちらはこちらで、自分が男であるので、ふむふむこれは使える、という具合に納得はできないのだが。

 △ 携帯電話をタクシーに置き忘れたが、親切な運転手さんだったので、次の乗客の目的地の近くの交番に預けてくれることになった。そして、僕と携帯電話は、数寄屋橋で運命の再会を果たしたのだった。 

<7月31日>
 ◇ 今週はなんだか脱力してます。なんて思っているうちにもう週末である。まあ、今週は金曜日がやまではあるのだけれど・・・。ともあれ、今週は早く起きて、2度寝で何度も夢を楽しんじゃいました。僕は二度寝した時は結構夢をみるのであるが、あのトリップ感はなかなか捨てがたいのだった。もっとも、目が覚めた後に、「ああ夢でよかった」と思うこともしばしばだが。
   
 □ 先日読了した「田宮模型の仕事」(田宮俊作、ネスコ 1500円)について。田宮俊作社長がこれまでの社業の歩みを振り返る、というありきたりといえばありきたりな内容ではあるのだが、田宮という会社の持つ職人性の強さに圧倒される内容だった。ミニ四駆のヒットにしても、過去の失敗を反省し、子供の反応をいかにすくい上げるかという部分があってこそのロングヒットであることがよく分かった。
 映像ビジネスってこういう、ファンと会社がお互いを育て合う状況ってなかなかないような気がするのは、気のせいだろうか?  

 それから、意外な(よく考えればそうでもないが)ことにアニメーションとの接点もあった。同書には、コナンやカリオストロの城の作画監督にしてジープファンとしても知られる大塚康生さんが、タミヤのフィギアや初期のミニ4駆について意見を求められたエピソードが紹介されていた。
 いわく「2コマ遅い」。大塚さんは、フィギアのポージングが、いわゆる決めポーズばかりで、動きを感じさせないことを指摘し、また、走っている姿のフィギアにしても、「弾丸から身を避けるように、体をよじった方がリアルに見える」とアドバイスがあったそうだ。
 いかにも、アニメーターの目を感じさせるアドバイスだ。

 やがて、当時オタクをキーワードに作品製作していた村上隆さんがこのフィギアを活用してアートを完成させることになるのだが、タミヤのこうしたマニアックな血が村上さんのインスピレーションを呼び起こしたのかもしれない。(←さすがに、それはないか) 

 △ この本の奥付で初めて、「ネスコ」が日本映像出版株式会社の略であることを知った。 え? 遅すぎる?

 ○ 自分でいろいろ書いておいて、無責任ではあるが、やはり某氏への批判がところどころで目立つ、日記猿人というのはすさんでいる感じはしますなあ。まあ、私は世の中にいろんな人がいるなあという感慨をどんどん深めていくばかりでありますが、怒りのあまり下品になってはいけないなあと思う次第であります。僕も1行情報で下品なこと書いたクチですからね。(また、そういう日にかぎって投票が多かったりする、やれやれ)


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