1997年7月中旬

<7月11日>
 ◇ ここのところ忙しくて本屋に足を運べなかったが、今日は仕事の合間を縫って久しぶりに書店へ。かつて毎日のように本を買いあさっていたころがなんだか懐かしいように思う。といっても、あまりちゃんとした書籍は購入せず、おきまりの雑誌を中心に何冊か購入したのみ。
 アニメ誌2冊と「創」、「噂の真相」。 単行本ではマンガ「ハッピーマニア4巻」(安野モヨコ、祥伝社 857円)、それから某掲示板で薦められた「知と愛」(ヘッセ、新潮文庫 520円)。攻殻機動隊のすんげーでかくて高い本は、うむむと手にとって手触りだけで我慢する。まあ、作品世界への関心とビジュアルへの関心を比べると、俺は作品世界派だしなあ、と自分を納得させる。たとえ購入しても、きっと、パズルやペーパークラフトなんかも、組み立てることは絶対ないし。
 「ハッピーマニア」はなんといってもオビがすごい。「マスコミ各誌絶賛!!」というフレーズに脱力するのは許してもらえるだろうか。「ハッピーマニア」の位置づけでいうなら、「話題沸騰」ぐらいのところが適切のような気もするのだが。

 ハッピーマニアは今、時代ととてもいい関係にあるマンガだと思う。ただ、それは時代を切り開くタイプではなく、時代の気分を反映している方だ。だから、あまりマスコミ各誌で絶賛というポジショニングをしちゃうと、一番面白い時代の気分の部分をオビが削いじゃうような気がする。時代の気分は、「話題」に表れるものであって、「絶賛」という評価の側面からは捉えない方が無難だと思う。ハッピーマニアは傑作というより、今が旬で、面白いマンガ、それで十分じゃないかと思う。
 ああ、書きながら思ったけど、単に「マスコミで」という権威付けの方法がこの作品にはふさわしくない
と思っただけかもしれない。つまり、ダッセーと言いたかったわけだ。

 □ 明日は「もののけ姫」の初日。そして、1週間後は・・・。そんな因果な日に結婚するという後輩(狙ったんじゃないの?)には、やはり「まごころを、君に」という言葉がふさわしいかも。あるいは「たった一つの冴えたやり方」の方がいいか?。(←解釈次第では、祝福というより皮肉かも。スマン)

 ちなみに、「サードインパクト」=「火の七日間」説というのは有名だが、個人的には「師匠連」こそ「ゼーレ」の前身でないと誰が言えよう、と思う今日この頃である。だって、似てません?

 △ 会社で徹夜。眠い。文章がめちゃくちゃなわけだ。 

<7月12日>
 ◇ 徹夜したので、バイオリズムがめちゃくちゃという感じである。とはいうものの、夕方から「ハリウッドSFX展」へ出かける。大人一人1200円。わはははは。度量の小さい人というか、経済観念が普通にある人は見ない方が得策かも。え、僕は、決して特撮ファンではないけれど、払ってしまったお金については執着があまりないので、不満といっても「今日は日記のネタだと思って許したるさかいな」という程度です。

 まず、タイトルを「ハリウッド」ではなく「20世紀フォックス」とするべきだな。
展示されている作品は「インデペンデンスデイ」「エイリアン4部作」「VOLCANO」。展示品は、映画で使われた衣装、人形、小道具、アートワーク、絵コンテなどが中心で、先着数名に傷の特殊メークをしてくれるイベントがやられている。
 ものすごく、それぞれの作品を愛している人なら楽しめるかも。とはいうものの、例えば「インデペンデンスデイでジェフ・ゴールドブラムが書いた攻撃のアイデアのメモ」とかを見て誰が喜ぶのかというと、よく分からない。目玉はエイリアンクイーンの1分の1模型らしいけれど、それを見るためだけに一般の人がどれだけ足をはこぶかなあ?なんていうか、突っ込み不足(←俺がいうな、俺が。只今自分を振り返ろうキャンペーン中)というか、中途半端にマニアックというか・・・。
 まあ、百貨店の展示会ってのはこんなもんでしょうなあ。ある意味子供だまし的というか、羊頭狗肉というか・・・。(・・・ばかりだな)

 唯一、へーと思ったのはすでにエイリアン第4作目(どうやら英字タイトルには数字が無い模様)の小道具が展示されていたこと。製作しているという話は聞いていたが、もう完成してるみたい。やはりクローン・リプリーが登場。会場に貼られていたあらすじには「DNAに組み込まれたエイリアンへの敵対心」ていう一節があったけど、やはり「DNA伝説」というのは根強いのお。現代の「霊魂」とも呼べるかも。

 ○ つまり、肉体以外の部分に本質がある(はず)というもとの考え方(肉体観・人間観)があるからこそ、霊魂やDNAというものを、過剰に本質視する姿勢が生まれるのだろう。(ここでは、あるかどうかが問題ではない)裏返せば、「自分」を複製するというクローン人間に対する恐怖の一端もそこにあるんだろうなあ。

 △ とはいうものの同行者に「「インデペンデンスデイ」のエイリアンの攻撃機って、シルエッットがアダムスキー型円盤に似てるでしょ」といったら、「アダムスキー型円盤」が分からないとか。往生するぜ。思わず、「常識ないよ」と口走ってしまった。アダムスキー型円盤は常識の範囲内ですよねえ。

<7月13日>
 ◇ 昨日少し、クローンのことについて触れたので、改めて。
 クローン技術の人間への応用は、できあがったクローンを「人間」として扱うのか「人間を補完する者」として扱うのかで問題点が変わってくるだろう。
 まず、クローンした人間を、社会的に人間と扱う場合であれば、僕は全くクローンには問題がないのではないかと思っている。(ここでは、家族論とか人口論は置いておく)。もし、クローン技術の普及で自然な生殖が行われなくなるケースがでてくれば問題だとは思うが、今はまだそれを論ずるときではないだろう。いわゆる悪人がいくらクローンを残したとしても、それがそっくりそのままその人格になるということは考えにくい。「同じ人間=同じ人格」というのは、証明が不可能な問題で、技術の開発に反対するにはあまりにプリミティブでワイドショー的な理由でありすぎると思う。

 しかし、「人間を補完する者」として考えると、かなり生命倫理を問われることになる。この場合、クローン人間は人間ではなく、本体が障害や病気を負った時の「パーツ用」として使われることになる。どの時点から生命であるかというのは、バチカンを引っぱり出すまでもなく難しい問題。人形にすら人格を感じる我々の感覚からいうなら、パーツ用のクローンを一個の人間としてみることは避けられないだろう。
 だから、クローン技術の開発は、生命をもてあそぶなんてことではなく、やはり「人間とは何か」という根元の問いを我々に問いかけているといえるだろう。この答えの出ない問題を、研究の凍結といったことで「考えない」方向でまとめるのは一つの知恵だとは思うが、決して前向きの方法でないように思う。
 個人的には医療関連への貢献を考えると、人間のクローンを研究してみる余地は十分あると考えている。それを、現在の倫理に合致するように応用化する、あるいは新しい倫理を構築するかは、技術が確立した上で考えるべきではないだろうか。(なんだか俺、安易な科学発展主義者みたい)

 しかし、パーツ用のクローンがいる時代になると、水子供養ではなくクローン供養という方法で、いろいろな宗教が商売できるかもしれませんなあ。

 ○ そういえば、クローンといえば僕にとっては「ギルガメッシュ」ですなあ。こんな単語がやがて深夜色気老舗番組のタイトルになろうとは・・・。未来ロボダルタニアスのクロッペン総統(だったっけ?)もクローンでしたし、地球防衛隊(記憶不安)テラホークスのナインスタイン博士あたりもそうですな。

 ◇ 昨日買った文芸春秋、週刊文春などを読む。今月の2アニメ誌は、表紙を見ただけで分かるような、出版社対抗映画合戦という感じかな。でも、徳間書店は映画を引き連れてというよりは、映画が徳間書店を引っ張っているというトコロだろーなー。(雰囲気を和らげるための長音の音引き)

 △ 学生時代の同級生が秋に結婚する。なんでも、式で何人かで出し物をやれとの依頼があるらしい。しかし、その新郎って自分がそういうご指名くると逃げるタイプなのになあ。それにしても何をやるんだろうか?

<7月14日>
 □ 先日「ミスター・ビル」というビデオを見た。サタデー・ナイト・ライブの1コーナーだったようで、オープニングではSNLの名物コーナー「ウエインズ・ワールド」とか「コーンヘッズ」の登場人物もちらりと姿を見せる。
 さて、このミスター・ビルという作品、粘土細工人形のの「ミスター・ビル」が、毎回悲惨な目に遭ってつぶされたり身体的に欠損していくという短編。雰囲気は、エビ天の一発ネタ系作品に似ているかも。例えば、風船を手に持たされれば糸で手が切れてしまうし(粘土だからね)、ヒッチハイクすれば車につぶされ、それでも載せてもらったと思ったら結局崖から落ちてしまうという具合だ。ブラックユーモアの最たるものという感じだが、ぎりぎりのところでちゃんと笑えるようになっているのはさすがだ。こういうものおもしろさは、被害の受け方がユーモラスであること、アクションの繰り返しがある程度予想できることなどが条件だと思うが、それを上手にクリアしていたと思う。
 特に、被害の受け方でいうなら、ミスター・ビルが腹話術師風の声で「オー・ノー」と叫びを挙げるシーンはしっかりと脳裏に刷り込まれ、ときどき自分でも口に出したくなるほどキャッチーだ。

 ○ それから、ミスタービルの相棒に犬がいるの。この犬は、登場する時、いつも粘土をこねて作られるシーンがあるのだが、その時に歌もキャッチーで、一度聞いたら耳から離れない。「HERE COMES THE MR.BILL’S DOG」という歌声が今も耳から離れない。

<7月15日>
 □ 今週一週間はけっこう忙しい。が、ちょっとしたエアポケットのような時間に、書店に立ち寄る機会はあった。「むきもの67パーセント」(竹本泉、宙出版 560円)、「天使の時空船」(松本零士、潮出版社 571円)、「渋谷A子」(大久保にゅー、朝日ソノラマ 560円)などを買う。
 「渋谷A子」は、ギャグにしてはぬるめかなあ。センスは独特だけれど、こういうセンスはストーリーもので生かした方がいいかも。まあ、青田買いってことで、試しに買った割には楽しめたけれど。編集者がビシバシ鍛えればけっこう伸びそうな感じだけど、このまま書き続けると手癖だけで描く人になっちゃうかも。

 ○ 日記猿人の運営について
 私はせんべいさんの今回のスーパーバイザーのポジションを参加者に解放するという、方針に賛成します。とはいうものの、パソ通の経験が少ない僕は管理者のあるべき像についてあまりに無知で、常識を持っていない。だから、今後はそういう常識のある方による、ルールではなく常識ある(常識が食い違えばすりあわせればいい)運営を望みたい。すると、日記猿人が今後続くかどうかは、猿人参加者の民度に関わってくるのだろうなあ。(←人ごとみたいにいうな)
 と、書きながら、自分がやはり義務を果たしていない「愚民」であるように感じるのだった。

 △ 偽名日記ではあまりほかの日記を読んでの感想は書かない方針なのだが、ちょっと。
 ホームページに日記を書くこととは何なのかと、以前からよく書いているのだが、最近は「公道上で歌を歌いながら歩いている」行為と似ているかな、と思っている。その歌が好きな人にはシグナルだし、嫌いだったら間違いなくノイズに感じるだろう。好き嫌いだけではない、「音程がはずれている」と指摘する人、あるいは指摘しないで陰でコソコソ噂する人もいるだろう。
 とにもかくにも、「あなたの歌はいつもすばらしいわ」とほめてくれる人ばかりではないのは自明のことである。ホームページは箱庭にも思えるので、ついつい神様のように振る舞いがちである(自省モード)。でも、それは本当は箱庭ではない。いろんな人が耳にする「自分だけの歌」なのだ。不愉快になる前に、マインドセットを切り替えた方が生産的だと僕は思うんだけどなあ。
 それから、噂の仕方、皮肉の言い方にも芸の上手い下手、好き嫌いはあるのだが、それはまた話題がそれるので触れない。まあ、つまりぶっちゃけた話、僕好みの日記読み日記とそうでないのがあるってことですけどね。

 × しかし、今日は日記ネタが多すぎる。こういう日記はよくないなあ。個人的に反省。

<7月16日>
 □ そう、今日は夏エヴァの試写だったそうだ。うーん、期待半分怖い者見たさ半分、といった気持である。劇場に足を運ぶのは間違いないが、その時俺は何を考えるのだらう。春エヴァから夏エヴァまでの間に、俺にとって環境と心境の変化があったのは間違いないので、果たしてどんな感想を自分が持つかどうか、けっこう興味深いところではある。

 と、ここまで書いて、あるルートで試写にいった人から話を聞く機会があった。(我慢できずに根ほり葉ほり話を聞いてしまった俺も俺だが・・・・しかし、アスカって死んだ?って聞くのも礼儀知らずかも)。うーん、なんつーか、物語的には妥当な終わり方みたい。もちろん試写の後では高い評価をする声もあったそうだ。話を聞いた印象ではセー○ームーンの第1部のラストを彷彿とさせるようだが・・・まあ、そういう無意味な推測はしてもしょうがない。とにもかくにも、忙しい今週を乗り切った暁には、劇場で堪能してやるぞ。でも、ちくしょー、待てないよー、土曜日まで。

 ○ とりあえず日記3日分をまとめて更新。書こうと思っていたことは、だいたい書いたけれど、ネタが既に夏枯れという感じですなあ。ビールだけは毎日飲んでるけど。来週あたりからは、もう少し普通のペースに戻るかも。 

<7月17日>
 【事実上の欠番】
 ◇ 今週はなんだか忙しい日々が続いている。だからまとめて日記を書いたりしていたのだが、書くべきことを忘れてそのままになってしまう日もある。今日(17日)もそんな日だ。(21日記す) 

<7月18日>
 ◇ 徹夜明けは、頭に浮かんだ言葉を知恵の輪のように玩びながら、自分の部屋へと帰る。
 関節には眠気の「種」のようなものがしっかりと根を張っているが、頭の中はさきほどまで仕事をしていたためにまだ余熱がこもっていて、いっこうに眠くはならない。そんなとき、ふと頭に思い浮かんだフレーズは僕の意志に関わらずしばらくの間、僕の頭の中でちゃらちゃらと軽い音を立てている。タクシーの中でうとうとした瞬間、はっと気づいても、やはり頭の中にはその言葉がしっかりと居座っている。

 今日の場合、それは「要領がいい」という言葉だった。
要領がいいってどういうことだろう、とか。要領がいい人は、不器用な人を見て「自分は何かを見落としているんじゃないだろうか」と不安になることもあるのでは、とか、そんなことが頭を駆けめぐっていた。
 何故、そんな言葉が思い浮かんだかは分からない。けれど、帰宅するまでの30分あまりの間、僕はどこかにいる「要領のいい人」の内面をずいぶん考えた。
 こんなことは誰にも言えることではない。言葉に成る以前のノイズ、あるいは深夜にラジオに紛れ込んでくる北京放送のような、まったく無意味な遊びに過ぎない。だから、時折考える。なんでオレはそんなに「要領がいい」ってことを気にしなくちゃならないんだ?

 町並みの影は次第に濃くなり、コントラストがはっきりとしてくる。朝から昼へと時間が動いていることが分かる。そうして、僕の中に生まれた言葉の知恵の輪は、そのパズルが解かれることがないまま、日の光の中に溶け込んでしまう。それは夢と同じだ。夜明けの夢と現の狭間で生まれた言葉は、日中の光には耐えられないのだろう。
 そして帰宅した僕は、万年床に身を埋めて眠るのだ。 それは、生まれて形をとらずに消えていった言葉を再び言葉以前の姿に還えす、埋葬だ。

<7月19日>
 ◇ 徹夜明けで帰宅。気分が高ぶっているので、吉野屋で朝からビールと並。ちょっと酔っぱらったところで、土曜日で人通りの多い地蔵通りを抜けて、自分の部屋へ戻る。夕方から約束があったので、それまで眠る。
 夕方からは新宿でオフ会(?)のようなもの。マンガや小説、週刊誌の話題などでつらつらと飲む。体調がベストでなかったためか、結構簡単に酔ってしまった。なんかいろいろ口走ったような気もするが・・・。いただきものまでしてしまって、どうもありがとうございました。

 □ 週刊アスキーを買う。夕方一緒に飲んでいた方は「好きなコラムだけを読む雑誌」という位置づけをしていたけど、そういう要素は多分にある。いまいち内容が盛り上がらない点は、噂真の中森明夫のコラムでもネタになってたし・・・。
 それはさておき、ジャンク・カルチャー特集でのテリー伊藤の発言は明らかにおかしいと思う。なんというか詭弁という類かなあ。もともと彼の発言はその部分が味ではあるのだけれど、「大人が価値観をしっかりすべき」という意見は失笑ものである。
 一方、宮台VS香山の対談は面白かった。(これについて書いた裏日本工業新聞もまた笑えたけど)。まえにも書いたけれど、事件そのものを追うのではなく、事件や犯行メッセージに過剰に意味づけして考えている中学生のことを考えた方が、今の社会の「気分」が見えてくるはずだ。

<7月20日>
 ◇ ええ、見に行きました。「庵野秀明ストリップショー」。いやマジで、ストリップショーですなあ。ネタバレを避けながら感想を少々。第一印象としてはものすごく好意的です。オレ。

 僕の会社の人などは、お金を払ってまで見るほどではないようなことを言っていたが、商業的映画としての完成度をまったく無視していうなら(何しろ一見さんは、無視してるからね)、僕はこの結末はありうるベストの形ではなかっただろうか。金払っても損はしない。
 評価する理由はいくつかあるが、まず、テレビ版の弐拾五、弐拾六話をしっかり踏襲していた点。人類補完計画を、インナースペースからではなく、客観的に描いたという差はあるが、どちらにしろコミュニケーションをテーマの一つをテーマに据えていたことが明確になる作りになっていた。
 しかし、弐拾六話の「学園えば」的なものは登場しなかった。あれが「ありうるもう一人の自分」であるというのは、自閉的な人間が現実への着地を示唆する方法としてはいささか、不自然な点が多すぎる。映画版26話「まごころを、君に」は、それを避けた。これは、むしろテレビ放送終了後、アニメファンへの批判を口にしている監督がその中身をより積極的に劇中に取り込んだための変更だろう。

 映画版25話「Air」は、アクションアニメとして見せ場が多くそれはそれで見応えがあるのだが、やはり「まごころを、君に」の奇想的なビジュアルイメージには圧倒される。(註・ネタバレになるのを避けるため具体的には書かないが、これは補完計画中にイメージカットのこと言っているのではない。)映画はやはりそのビジュアルイメージこそが大切だと思うので、劇場にかけるに値するイメージが十分提示されていたことも、評価が高い理由である。そのビジュアルイメージの迫力は、僕にとってはSF的なものであった。ある人が「ガイナはSFをやりたいわけだから、ラストはSFになるはず」と言っていたが、その予見は正しかったと僕は認めざるを得ない。
 
 物語的にいうのであれば、キャラクターのドラマにもしっかり落とし前がついていた。特に、ゲンドウについては、それなりに納得のいく形で彼のドラマを締めくくってくれたと言えるだろう。

 これまでのエヴァをめぐる数々の言説の通り、今回の映画から元ネタを探すという楽しみもあるだろう。でも「暗黒神話」「デビルマン」「Vガンダム」なんて作品を挙げたところで、それはこれまで通り意味のないことだ。むしろ、イメージを分析するなら母性(女性)のモチーフがどのように描かれているかを考えた方が有効だろう。映画版ではテレビ版以上に性をイメージさせる道具立てが増えている。裂け目が出てくればそれは必ず女性器として描かれているし、それに対になる男性器のモチーフもその近辺に潜んでいる。つまりテレビから繰り返された「一つになることが楽しい」という言葉はセックスをイメージさせつつ人類補完計画を指していて、それをしっかり劇場版でビジュアル化したということだろう。

 一方、「手」というモチーフも26話には頻出する。おそらく相手を受け入れる象徴(握手)と相手を拒否する象徴(絞殺)だろう。ヤマアラシのジレンマを意味しているわけだ。映画のラストは結局このジレンマという原点に戻る。しかし、そこでどんな結果が出ようと、それは自分が望んで求めた答えに違いないが、監督はそこで非情にも予定調和を避けたのだった。
 それは、そういうものを求めているアニメファンへの牽制球であると同時に、同時に自分の男としてのだらしなさを正直に語っているような気がするのだ。そういう意味で、エヴァンゲリオンはエヴァンゲリオンのまま立派に完結したと言えるだろう。

 □ と、しちめんどくさい話は置いて置いて。いやー楽しかったです。本編で登場する新宿・ミラノ座でほぼ2回見ちゃった。でも、監督が感謝していた5人の女性って誰なんだろー。4人までは想像できるのだけれど・・・。僕としては、シンジが現実に着地する物語は庵野監督には作れないと予想してたんで、ある意味では予想の範囲内ではあったけど、驚いたことには変わりない。

 ○ という勢いで次に「鉄塔 武蔵野線」を見に行く。地味だけれどいい映画でした。僕は少年通過儀礼モノには弱いので、オッケーである。通過儀礼はどうしても「いきてかえりし物語」という要素があるので、原作がファンタジー大賞受賞というのは、とても当たり前のことだと思う。

 △ そういえば、前に勤めていた会社にインターネットに接続可能なパソコンが導入されたというタレコミ情報があった。何でもこのページを見ている物好きもいるとか。これで、アクセス数の急上昇の謎の一端がまた明らかになった。あんまりリロードしないでね。>前の会社の人


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