1997年5月上旬

5月1日
 本当はトップページにある4月下旬分の日記を別ファイルにしなければいけないのだが、転居通知の準備を始めたため、その時間がない。と、いうわけで、次の連休中にでも手を加えます。それまではちょっと重いけれど勘弁してください。

 昨日の日記では「時間があれば映画でも」なんて調子で書いたのだが、見通しがメチャ甘かった。今日は結局、区役所と職安(ハローワークってのも極めて植民地主義的な言葉では、あるな)へいって所定の手続きをするだけで結構時間を食ってしまい、必要な買い物をしたらもう映画を見るヒマはなかった。というわけで、中途半端に余った時間を利用するため、運動も兼ねて大塚から巣鴨まで歩くことにした。ちょっと荷物は重かったが、裏道を歩くのは好きなので、ある種の旅情を味わいながら足の向くままカンで巣鴨ことを目指した。

 結局、途中でかなり変な方向に向かっているかなと不安に思ったので、往来に立っている地図で現在位置を確認すると、いつのまにか目指す方向とは逆側にむきつつあることが発覚。やはり東西南北が把握できていない土地では、そぞろ歩きも難しいと実感した。それでも、そこから立て直して見覚えのある道が見えてくると、なんだか妙な達成感があった。

 帰宅して、夕食後は前にも書いた通り、転居通知の作成に取りかかる。しかも、今回はこれまでパソコンに中途半端に入力してあった住所録を完成させるという目的もある。というわけで、転居通知の作成はまず過去5年間の名刺の整理から始まるのだった。そりゃ時間もかかるわな。それを整理しながら、住所録をカスタマイズしたりすると時間のわりにははかどらないのである。うだうだと深夜テレビを見ながら、目鼻がついたところで一端休止。今度はこの日記の更新をすることにする。

 住所録作成は、「後妻」である新型ノートパソココンを活用、日記の更新は「前妻」を使っている。2つはキーボードのサイズが違うが当然、前妻のやや小さめのキーに慣れているため、後妻ではミスタッチが必然的に増える。長時間後妻を使った後に、前妻にもどるとやはり手になじむのだった(^^;後妻の方がモニターが広いので、作業はしやすいのだけどね。
 しかし、女房と畳は云々という表現があるが、女房とパソコンは新しい方が、というのもまた正しい表現ではあるように思う(笑)。
 しかし、そろそろこの女性に例えるシリーズもやめようかな。

 明日は午後から古巣である浜松へ。浜松まつりとは関係ないが、一泊する予定。

 それから、アニメ業界のデジタル化について補足があるので3日にでも。

5月2日
 日中は転居通知の準備などをして、夕方から浜松へ。到着すると浜松駅前には酒だるが積まれていたり、某百貨店の前では「か組」なんて法被を着た人々が屋台の前で祭りの前祝い(?)をしている。空洞化のすすむこの町の中心街も今日はこころなしか、にぎわっているように見える。
 ちなみに中心街では、今年に入ってから撤退した紳士服店のあとがカラオケ店「シダックス」になっていた。すぐ向かいには老舗ビッグエコーもあるので、なかなか熾烈な競争になるのではなかろうか?。ちなみにこのビッグエコーも、2年ほど前にディスコ「マハラジャ」が撤退した後に入居したテナントである。
 この調子だと浜松の中心街はカラオケとパチンコ店だらけになってしまうな。まあ、魅力ない個人商店よりは集客力があるのだろうけれど、表通りが裏通り、というか夜の町みたいな色彩を帯びるのってどうなのだろーか。

 知人の人と一杯やって、その方の住まいに泊めてもらう。

5月3日
 知人の奥さんは朝起きるとさっそく法被を着て、祭りのための集会に出かけていった。転勤族であるがやはり地域とのつき合いは大切ということなのでしょう。知人の方は、浜松祭りにもかかわらず(浜松まつりだから、というべきかも)出勤するので、朝食後に駅前まで歩いていって別れる。
 朝の段階で小雨まじりという微妙な天気なので初子の凧を揚げるのを見送る町内が多かったようだ。(ローカルな話題なんで、知らない人にはなんのことやら分からないね)

 往復の新幹線では新書を読む。ラインナップはだいぶ前に買ってほったらかしにしていた「住専の闇」(中北徹・財部誠一、朝日新聞 680円)、それから読みさしだった「日本人はなぜ無宗教なのか」(阿満利麿、筑摩書房 680円)、以前読んだ「あいまいな日本の私」(大江健三郎、岩波書店 620円)。

 「日本人はなぜ・・」は日本人が決して「無宗教」ではない、ということを民俗と歴史の両面から検証した内容。中でも、明治に神道を宗教として認めないことで、信仰の自由を保証しながら、国家神道を形成したという事実にはうなずかされるものがあった。神社に手を合わせるのことを宗教的儀式と感じない感覚はここにルーツがあるわけだ。
 それから、日本人の宗教観という観点から、大江健三郎の言うところの「信仰を持たないものの祈り」というのを位置づけでないかなあ、関係なさそうに見える2冊の本の中身について考えもした。

 帰宅後は映画「傷だらけの天使」を見にいく。いい。こういう映画がヒットするといいんだけどなあ。そういう意味ではシネマ・ジャパネスクというユニークな配給システム(配給する劇場数を九館から五十館まで弾力的に展開させる)がどれだけ機能するか、一番分かりやすい試金石になるかもしれない。同システムで配給される第2弾の「うなぎ」じゃマニアックすぎちゃうもんな。
 真木蔵人も「あの夏、いちばん静かな海」以来の目立った仕事だけど、GOODでした。感想は詳しくは「映画印象派」で書くが、「やせ我慢の映画」だと一言だけ書いておこう。

 予告編では、小室哲哉が音楽を担当したアニメ「エルマーの冒険」が印象に残った。この原作は、「おしいれのぼうけん」などとともに小学校低学年のころのお気に入りの1冊(正確にはシリーズ全3冊)である。
 でも・・・映画化の方法論が違う。ああやって、「リアル」なアップなんかを入れれば入れるほど世界が絵空事になってしまうのだ。あの原作の絵を生かすのであれば、センダックの「怪獣たちのいるところ」みたいに絵本を意識した作りにしなくては・・・。あるいは絵を全く改めて、もっと写実的な映画として作り直すかどうか、である。実写だったら原作の絵にとらわれずに作れたのだろうけれどね、なまじアニメだったのでアブハチとらず、というところか。監督はサンリオ(だったよね)の波多野正美だと思ったけれど・・・。(←見る前に結論を出す奴)。

 この監督ってアニメ「おしん」とか日本初(?)の70ミリアニメ「シリウスの伝説」を作った人でいいんだよなあ。今あるぴあのシネマクラブを引いても、フィルムがジャンクになっているのか、どちらの作品も載っていない。ああ、実家にある資料を漁ればすぐ見つかるのに、じれったい。

 転居通知を印刷開始。それから、デジカメを活用したページの制作に取りかかるが、完成まではもう少し時間がかかりそうである。

5月4日
 昨晩は眠いなあと思ったが、このために東京に出てきたといっても過言でない(おいおい、こればっかりかい)「エコエコアザラク」が始まる、というのでそのままつい見てしまう。うわさには聞いていた、広角レンズによる、実相寺リスペクトなアングルはなかなか決まっていたし、適宜挟み込まれるロングショットもテレビ的でない雰囲気を醸し出していた。まあ、お話については一度見ただけなので多くは語るまい。が・・・

 佐伯日菜子嬢は、一応僕のごひいきリストのうちの一人である。「毎日が夏休み」では、金子監督の下、少女マンガの主人公という大役を見事にこなし、その延長で今度は「静かな生活」のマーチャンというこれまた演技のリアルさのさじ加減が難しい役を演じていた。
 どちらも、生活感(あるいは肉体)といったものからやや距離を置いたキャラクターであり、佐伯嬢のあの細い肉体、少し舌足らずな声というのはそれを演じるために適していた。もちろん、彼女もやがて歳を重ねて別の存在へと変わるときがくるとは思うが、まだその演技力からしても、今までのイメージのキャラクターの方が向いていたのでは・・・と、感じた。少なくとも今は彼女が役を作るのではなく、役によりそう形の方が、彼女の良さは発揮できるのではないだろうか。そういう意味で、佐伯嬢にはまだ悪魔を呼ぶぐらいのすごみが足りない。それが、最後まで気になった。
 ああ、こんなに理屈っぽく書くつもりじゃなかったのに(失笑)

 と、ことほどさような理由で、「エコエコ」は来週もビデオにとって見るだろう。理由は、ご贔屓女優であるところの佐伯嬢が登場しているからである(^^;。見慣れればけっこうよくなるかもしれないし。
 ちなみに、僕は映画版の吉野公佳演じるる黒井ミサの方が好きである。影のある美少女という設定にあった辛気くささ(笑)と暗い華やかさがあった。それから、黒いストレートの髪を魅力的に感じたのは久しぶりのことである。 
 もっとも物語に関して言えば、テレビシリーズの方が正調「エコエコ・・・」に近い感じはするけどね。

 今日は午後からお出かけして、 新宿にあるNTTインターコミュニケーションセンター(ICC)@東京オペラシティを見学。無料の常設展と、電子図書館を覗く。電子図書館では結局、端末を使ってネットサーフィンしただけで、後で考えると家にいるのとあまり変わらなかったかも・・・。
 常設展では、ハーフミラーとモニターを組み合わせた作品「メディア・テクノロジー〜7つの記憶」(岩井俊雄)が、面白かった。まだオープンしたばかりのようだったけれど、十分楽しい時間が過ごせるスポットであった。

 夕食はインド料理なぞを食べて、帰宅。日記書いて寝ようかと思ったら、BSでフェリーニの「サテュリコン」をやっていた。初見だったけれど、その濃密なムードに圧倒される。ストーリーは全く理解不能(日記を書きながら見ていたため)だったが、傑作であることだけはよく分かった。

5月5日
 起きて、日記の更新など。転居通知作成作業は7割ほどが終了し、今日はお金もないのでゲーム三昧でも・・・と考えたが、途中で方針を変更して午後からは映画を見に行くことにする。で、目黒駅で下車。レオナルド・ディカプリオがアルチュール・ランボーに扮する「太陽と月に背いて」と、ニューヨーク・ブルックリンの人間模様を軽妙に描いた「ブルー・イン・ザ・フェイス」を見る。

 「太陽と・・・」は、もうちょっとシナリオに工夫があってもよかったのでは?ランボーに惹かれて自分を見失う(ように見えた)ヴェルレーヌの心境があまり表現されていないので、彼のこころが揺れ動く様が一向に伝わってこなかった。
 それから、2人がコトに及ぶと、カメラが2人から目を反らすようにゆっくりとパンして、関係ない部屋の一角なんかを映し出すのが、少女マンガチックで笑えた。もっとも、レオはやはりうまいので、レオファンにはおすすめではある。

 「ブルー・・・」の方は生きているっていうのはいいものだなあという種類のすがすがしさが味わえる快作。カメオ出演でマイケル・J・フォックス、マドンナ、ジム・ジャームッシュらがいるのも見どころ。

 で、帰宅してまた日記の更新などをしながら、SSのエヴァ2ndをプレイ。引っ越しのためにしばらくやっていなかったので、久しぶりのゲームである。アニメーションのシーンで、日記を書けるので便利である。とはいうもの、そういう怠慢プレイのためか、あるいは僕の性格がいい加減なためか、なかなか新しいストーリーに出くわさない。やれやれ。

 スタートレックファンである知人が話すには、シリーズに期待することというのは「結局、もっと3人の主人公の掛け合いのバリエーションを見せてよってことだ」と、自らの欲求を認めていた。こういうファンの欲望に僕は賛成であるし、多くのキャラクターを借りた同人誌というのもその延長線上に生まれているのではないだろうか。
 で、SS版エヴァってのは、このニーズに見事に応えてるソフトだと思う。ファンがテレビで一番食い足りないと思っていた(これは僕だけではないと思うんだが・・・)部分を中心に構成してある上に、ところどころに思わせぶりなセリフ(碇ゲンドウなどの)をまき散らしているあたり心にくいばかりである。はっきり言って、このゲームがあれば、劇場版がなくても補完されちゃう人ってのは多いのではないだろうか?

5月6日
 引っ越しをすると、新しい寝床に慣れるまでは必ず眠りが浅くなる。夢ばかり見て、寝た気がしないのだ。(ちなみに、上がり性なので受験前もこういう状態が続いていた。その結果、共通一次の会場でウトウトしてしまった。・失笑・)藤枝に引っ越してからしばらくそういう状態が続いていたが、藤枝のベットに慣れる前に、東京に移り住むことになった。だから、ここ1カ月余りは熟睡という言葉とは無縁である。寝ていることは寝ているので、日常の生活には差し支えがないのだが、それでも映画館などにいくと突然眠くなってやはりウトウトしてしまったりする。

 と、いうわけで、連休明けの今日は珍しく延々と眠っていた。一つは熟睡できないことからくる肩こりがかなり進行してきたので、ちょっとしたエネルギー補給のようなものである。昼過ぎまで時間を気にせず、うつらうつらしたことで、多少は元気になったようだ。(←怠慢マン)

 それはさておき。アニメ業界のコンピュータ導入については、何人かの方から参考メールなどをいただきました。いただいたメールの内容は、人件費を極限まで圧縮しているので、彩色以降の工程にコンピュータ導入のメリットは考えにくい、とか、彩色工程への導入にも問題は多くむしろ作画段階への導入の方が可能性があるのでは、といったところでした。

 そんなメールの中に、コンピュータ導入などのアニメ製作技術について話し合っている某BBSがあるということでゲスト参加して覗かせていただきました。導入の可能性もそうですが、どのようなシステムがあってとか、現状ではどのように導入されているのか、なんてことが話題にになっており、とても参考になりました。
 読んだ感想では、各社ともCG担当部門をスタートさせているものの、産業構造の変化を起こしうるようなところまではなかなかいっていない(もしくは、少し方向性が違う)な、という感じでした。アニメ業界がコンピュータ導入で、労働集約型から脱却し、若者の労働者が増えるという、僕の期待(これは、業界関係者ではないのにちょっとえらそう)はあまりかなえられそうにないですな。
 
 中小の会社がひしめきあってリスク分散しているとこなんて、なんだか斜陽産業の代表格である繊維業界を思い出すのは、僕だけかしら。

 メールをくださった方に感謝を。

 今日はフジサンケイ・グループの総本山であるお台場へ出かけ、夕暮れ迫る海辺を一人でぶらりと。お台場に行く時は、JR浜松町駅で下車、竹芝駅からゆりかもめに乗り換えた。浜松町へ降りただけで、潮の香りがして、「江戸前」という言葉を実感を持って思い出した。お台場へつくと、アベック(死後)が多くて、つい日本野鳥の会会員になって「アベック、アベック、友だち、アベック、男、アベック」と、周囲を観察しつつつぶやきながらカウンターを押したくなった。(←バカ)

 フジテレビ新社屋などを外側から覗くと、なんだかスチール製の本棚みたいである。こういうのがいい建築なのかどうかわからんが、と、思って「東京現代建築ほめ殺し」(洋泉社、1922円)を購入。どうやら「スーパーフレーム」という技術を横方向にも展開するという新技術を導入しているらしくて、僕なりの解釈だと、それも本棚に見えることの一因のようだ。もちろん、デザインによるところもあるのだろうが。 (これを読んだ学生時代で建設会社に就職しているお二人さん、機会があればレクチャーしてね)

 同書を読むと、知人らが勤めている会社の東京支店が入居しているビルも丹下健三作として紹介されていた。本社とか浜松にあった支店(?)の入っているビルもそうなのだろうか?浜松の支店のビルは、特徴ある形だったけれど・・・

 文章の書き方的な本を購入。自分の文章が下手であることを改めて確認して、暗然とした。やれやれ。

5月7日
 雑誌を読みながら山手線に乗っていたら、降りるところを逃して結局ぐるっと回ってしまった。まあ、その分読書には励めたが(失笑)。購入した雑誌は、ダ・カーポ(今更のエヴァ特集だが広井王子氏起用は成功したと思う)、週刊文春、週刊新潮、流行観測アクロス。

 日中は秋葉原を探検。「映像補完計画進行中」と書かれた垂れ幕がビルから下がっていたり、電光掲示板で「エネミーゼロ 980円」なんて文字が流れたりする街であった。浪費の神様がやって来て2度3度と財布の様子を伺う。が、そろそろ路銀も尽きかけているので、しばらくお金のかかるソフトは購入を見送る方針で、神様の誘惑を振り切る。いちおう、SSソフト「だいな・あいらん」の中古の価格だけチェックしておく。

 とはいうものの、CD店で合唱のCDを購入。「木下牧子合唱作品集 ティオの夜の旅」(fontec)、「ことばあそびうた・季節へのまなざし 新実徳英・荻久保和明作品集」(Victor)。今聞いても、大学時代に持った印象とあまり変わらない、というのは僕があまり成長していないということの証明にほかならないだろうな。しかし、木下作品てのはやはり人気があったのは分かる格好のよさ(ポップというべきか?)ではある。ある先輩が「格好よすぎちゃって、逆にちょっと」と言っていたのは分かる言葉だ。

 もっとも、木下作品に人気があったのは、合唱業界(僕も詳しくはないが)の構造的なところに原因があるのではないかと未だに僕はにらんでいる。
 それは高校生、大学生あたりが自らを投影できるような心情を歌った曲が少ないところに起因していると思う。名曲ではあるが古い歌(詩)が多い、というわけだ。だから、木下作品ていうのはそのニーズに応える内容だったというわけだと思う。(今はどうだか知らないけれど)
 合唱人口を増やすなら、そういったライトユーザーに訴える曲を作ればいいんではないだろうか。もっとも、芸術の世界だけに、そういう曲を戦略的に展開することですそ野を広げ業界を発展させようという方法は業界人の思考になじまないとは思うけど。でも、カワイ音楽出版の編集者と某A新聞の担当者、ビクターのディレクターがタッグを組んで仕掛ければイケるんじゃないのか、という妄想だけはとめようがない。だって、未開の荒野が目の前に広がってるんだぜ。
 まあ、今はカラオケでしか歌わないほんとの素人のいうことなんで、気にしないでください。>合唱関係者。(そんな人は読んでいないだろうけど(^^;)

 ある週刊誌(笑)で、ネットの中の奇人変人を紹介。最後の生の喧嘩座談会は、やじ馬としたらこれほど面白いものはない。喧嘩はいけないとか、理性的な話し合いを、なんてことは無視してやっている。議論だったらある意味スポーツ的な側面があるけれど、喧嘩は喧嘩だからね。まあ、最後の一線をどこで引くかは、本人の人間性の問題で、その一線が低い方がだいたい優勢に試合を運ぶことになるんではなかろうか。
 そういえば、日記猿人の方でもバタバタしておりますな。日記猿人の辺境に住む僕には関係ないので、対岸の火事のように楽しませてもらってますが(笑)。それにしても「抱かれたくない」VS「訴訟」ですか、どちらの常識の一線が低いかを考えて見るのも思考実験派の僕としては面白いところではありますが、簡単すぎるかな。やれやれ。
 別件では、なにやら投票操作なんてのもあるようですが、あれは何がおもしろいかいま一つ理解できないのでした。まだ、日記にはまっていないからだろうか(笑)。最近はランキングはほとんど見ていないしな。

 全文検索といえば、GOOで「ぴょん太」はいっこうにヒットしないのだが、予想もしなかった某掲示板で名前が出ていたという話を聞いて覗きにいきました。うーん、不思議な気分です。

5月8日
 昔ほどではないが、吉野屋で食事をすることがある。昔に比べて味付けが甘く、油っぽくなったように感じるのは気のせいだろうか。まあ、そんなことはさておき、僕が吉野屋に望むのはクールなサービスである。ところが、今のアパートの近くにある吉野屋はそういう点で全くクールでないのである。

 クールとはどういうことか。僕は、吉野屋におけるクールさとは、余分なあいさつがなく、料理が早く、清潔であることだと思っている。そういう意味では、この吉野屋はアルバイトの質がいま一つで、あいさつと清潔さの点で大いに問題がある。清潔さについては以前行ったときに、全く机がふいてなかったし、今回はあいさつが妙に長い店員さんがいて、落ち着かなかったというわけだ。

 「いらっしゃいませ」「おまたせしました」といった短いフレーズをきびきびと言うから、吉野屋に活気が生まれると思うのだ。あるべき吉野屋の雰囲気の何割かは、店員のあいさつで構成されているといったら大げさだろうか?そこで、ビールの栓を貫くのを忘れて、「たいへんもうしわけありませんでしたあ」と、場当たり的にだらだらいわれても全然COOLでないのである。あやまる気持ちというのは分かる。それは大事なことだ。だったらだらだらと言わずに、短くキリッと決めてほしいのだ。
 とはいうものの、某作家のエッセイを読みながら、並みとサラダを食べながら、ビール2本飲んじゃったけどね。え、吉野屋で本を読むってのは反則だって?そういわれりゃそれまでだけどね。

 とはいうものの、ビールを飲みながら軽いエッセイを読むというのはなかなかの幸せの瞬間ではある。昨日と今日は、村上春樹のエッセイが夕ご飯のおかずであった。村上春樹のエッセイを読むと、ビールが飲みたくなる人は多いと思うけれど、僕の場合、村上春樹にはビールと決めて先回りしてビールを飲んでしまうのである。そういう場合は本当は無国籍風居酒屋のカウンター席がいい。でも、多少妥協して(飲み過ぎないためにも)吉野屋にする場合もあるけれどね。

 そうして、村上春樹のエッセイについて、ふむふむ、とか、えーそれは、とか思いながら読むのである。その中には、おおこれは日記に使えるな、とかいうのも含まれているけれど、酔いが覚めるとだいたい忘れていることが多いのだった(^^;

 話題変わって。ある作家がこれまたエッセイで、ある若手女優さんがずっと自分は可愛くないというコンプレックスを持っていたと告白した、ということを書いていた。うーん、こういうことってあるよな。僕は「女の子コンプレックス」って呼んでますけどね。

 つまり、世の中の多くの女性は、思春期に自分の中にある「あるべき女の子像」から減点式に自分を評価している時期があるのである。そして、そのあるべき女の子像についてコンプレックスを持つのである。このコンプレックスは歳をとっても、決して消えないで、通奏低音のように残っているものである。僕が小説家だったら、このコンプレックス原因とした衝動殺人てのを描くかもしれない、というぐらい僕の中ではリアリティを感じている。人それぞれそのコンプレックスの量は千差万別ではあるのだけれど、男ってのはそれをどっか頭に入れておいた方がいいように思うと、僕は肝に命じているのだけれど。(まあ、それも人それぞれではあるけれど)
 そして、そういうコンプレックスは男にもあるのだと思う。

 そういえば、WEB界から白木さん@阪大が引退されるとか。アンダーグラウンド書評では共闘関係にあったのに(^^;、クセのある本の読み手がネットから手を引くのは残念である。なあ、奥さん>奥さんって。

5月9日
 夜から、高校時代の知人(友だちの友だち)と、一杯やる。日本酒なぞを飲みながら、SFとかオタクの精神分析なぞを少々。彼のツボ押しである「浪花節的SF」(とでもいえばいいのか?泣けるSFっていうカテゴリーともいえるか)についての解説なんかが楽しかった。しかし、10年以上前から知っている人ではあるが、こんなに細かく話をするのは初めてのことだった。
 それから、ISBNコードがついているのに、何故かくも本の流通は前近代的なのかなんて話題もあった。やはり、取り次ぎ通さずに、書店にコードの情報を伝えて、直売する方式にした方が早くなるのだろうな。彼は、2日で送れるのではないかと話していた。
 ちなみに、彼は高校時代には「火星年代記」で読書感想文を書いたそうで、今でも年に1回は「夏への扉」(サイエンス的にはヘタレだといいながらも)を読むという、僕なぞから見ると十分SF者という来歴の持ち主である。

 そうそう。僕も「夏への扉」は好きだ。僕にとっては、やはりSFを読んだことがない人に薦める本の一つである。(もっとも薦めるほどSFなんて読んでないけど)。苦労してる人が報われるというドラマがオーソドックスに展開するところが気持ちがいいし、それになんと言っても・・・とここまで書いて、一番好きな部分を書こうとしたけど、ネタバレになることに気づいたのでやめときます。昔、知人に「11人いる」の犯人をつい教えてしまってすごい怒られたことがあったし・・・。(そりゃ当たり前だ)
 そんなに酔っているつもりはなかったが、持っていた本(再読中だった「日本人はなぜ無宗教なのか」)を落としたことに改札をくぐってから気づく。やれやれ、名著だからまた買わなきゃ。 

 書店で遅ればせながら、創6月号、文学界6月号、GALAC創刊号を購入。
 GALACについてだが、まあ、どの業界でもよい批評の不在というのが問題になってるなあ。一応、批評として成立しているのは文芸批評ぐらいか?(他のジャンルより作家と批評家の間にいい意味での緊張感があるような。映画業界はこういう風には見えない)と、思って読んでいたら、藤田真文常磐大助教授が「方法論なき放送批評は文芸評論の歴史に学ぶべき」と書いており、ひざを打つ。この文章で分類されているダメダメな放送批評は、そのままあらゆるジャンルのダメダメ批評にも通じると思う。そう、批評の名前がついていながら、批評的でない文章が氾濫するからこそ、批評の現状が混乱しているのだ。PDとCDの対談は、実作者が批評家に持つ不満としては非常にオーソドックス。一言でいえば「ピントがはずれた批評はいらん」ということに尽きる。
 それから、なんだかどこにでも登場しているように見える田中康夫氏も一文を寄せていた。個人的に彼の文章は不必要に大げさな感じがして好きではないのだが・・・。それでも彼の連載の中で一番好きなのは、某エロ本で書いてる読者投稿写真批評かな。皮肉じゃなくて、そういう辺境のメディアで中央を討つってのが、彼らしい印象があるのだ。
 
 文学界は、当然のことながらアンダーグラウンドBY村上春樹の批評が目的で買った。それぞれの批評にはうなづく部分、教えられる部分が多くて、逆に僕にとっては違和感のある批評はなく、どちらかというとウンウンとうなずきながら読んだという感じだ。井田真木子氏は、編集者との会話形式からこの本の意味を探るという変化球を投げており、別の面の、しかし本質的なアンダーグラウンド論になっていた。

 創は明日読む予定。

5月10日
 起床して、遅ればせに日記を更新しつつ、創6月号(宮崎勤と死刑判決の意味)を読む。
 大塚英志と香山リカの対談は、7年の歳月のギャップに戸惑っているような内容だった。オタクであるということが広まったにもかかわらず、そのことにまつわる問題は、実はおざなりのままという不思議な現状。7年という時間がもたらした状況の変化により、2人は、いわゆる「性犯罪」としてくくられてしまったものを、もう一度オタクの問題としてどのように位置づけたらいいのか?という問いの答えを見つけあぐねているようだ。そこからくるスタンスのぶれが「ある表現で子供がいやされるのではれば、別の表現で首を絞めることもあるかもしれない」「あの時擁護していたのは、宮崎ではなくて、何かもっと別のものを擁護していたような気がする」(大塚氏・要約)という弱気な(?)発言につながっているのだろう。
 むしろ、週刊オタクウイークリーに書かれた、オタク(サブカル)であり続けることの難しさについてのエッセイの方が、表現は明確で歯切れがよかった。

 中森明夫氏は、世間的には「宮崎勤」こそオタクの代名詞であり、彼が死刑判決を受けたことで、自分の(そしてM世代の)感性の一部にも死刑判決が下されたと書き、個人的にはそれを引き受けて、「自分の歌」を手放さないことが宿命だ、と結んだ。この文章は、やはり改めて書かれた中森氏なりの信仰告白なのだろう。

 宮崎事件については、「精神鑑定書」を読んだ後から考えていたことがある。
 どこがオタクの犯罪で(そういう部分はやはり濃厚にある)、どこが彼自身の犯罪だったかをふ分けしなければ、一線がどこにひかれているかが分からないのではないか、ということだ。「精神鑑定所」は新聞記者が書いたこともあって、基本的に彼の事件というスタンスで書かれている。が、しかしそこには、彼の収集していたビデオなどへの愛情がどのようなものであったかが書かれていない。彼がどのようにビデオが好きだったのか、好きな作品は何なのか彼の言葉を聞いてみたいと今改めて思う。(女性とやりとりした書簡はあるけれど)

 今回久しぶりに創を買ったら、唐沢兄ととり・みきが連載していた。来月も買うかもしれない。

 日中は読書し、夕食を食べながら本を買いにでかける。 雑誌と併せて「本の運命」(井上ひさし、文藝春秋 952円)も。本の読み方で、赤鉛筆を使う方法が書かれていた。やっぱり今やっている付せん方式よりいいかもしれない。

 新しいパソコン(国民機)のJUST VIEWがうまく作動しない。文字表示がすぐ乱れるのだ。それに、プロバイダに接続してもすぐ落ちる理由もよく分からない?こうして、バトンタッチはなかなか進まないのだった。やれやれ。


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