1997年4月中旬

4月11日
 調子がでない。連日連夜のみ歩いていたツケが回ってきたのか、一日中眠っている感じだ。これが春眠暁を覚えず、ということかも。

 このところ毎週金曜日になると、藤枝に妹が登場する。で、夕食を食べながら、ヘール・ボップ彗星の話題に。全く宇宙の仕組みについて理解していない母と祖母に、恒星、惑星、衛星の違いから解説する。南の空を見上げて「あら、北斗七星がきれい」と、のたまっった前科のある母(本当はオリオン座が正解)は、まるで初めて解説を聞いたような様子。祖母はともかく、母は学校で勉強したはずだがなあ。「太陽の回りに星があって、それが「宇宙」。で、そのまわりには名もない星があるだけだと思っていた」と、いうのが母の宇宙観だそうだ。まあ、天動説でないだけよしとするか。
 そういうわりには、北斗七星から北極星を探す方法は、知っているんだから不思議なものである。

 買いそこなったSPA!4月16日号などを購入。「モテる部屋、モテない部屋」は、人の部屋と本棚を覗く感じで愉しめた。ただ、OL100人のアンケート結果は当たり前かな。そこでは、「TOKYO STYLE」が紹介されていたので、「買おう、買おう明日買おう」と心に誓う。そして、以前買いそびれてしまった「ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行」もついでにゲットだ!(←何のために東京へいくんだ?)。
 それから、「ゲームのココロ!」の飯野賢治氏インタビューの続き。まあ、最後のまとめ方だけど世の中デジタルとアナログに分けるってのはどうもね・・・。ただ、飯野氏のいう「心の引き出し」ってなんだ?言うことがすごく大きいので、ライトユーザーとしてはこのゲームってそんなにすごいのだろうか?と、期待と疑いを同時に抱いてしまう。
 
 昨晩はいっきに「官能博覧会」を読了。なかなか知ることのできないポルノ作家の考えが分かって、面白かった。唐沢夫妻のやる気のない恐怖レディコミの自作解説や、編集者によるポルノ小説家志望者へのアドバイスはなかなか勉強?になった。しかし、ここに登場する方は「昔、うぶでした」というような方が多いようだが、やはりそういうバネになるようなものがないと、書けないものなのだろうか?以前トゥナイト2に登場したポルノ作家は「もててればこんな商売についていません」と、照れ笑いを浮かべながら話していたけれど・・・ 

4月12日
 東京へ出かける。新幹線の中では、朝刊を読んだ後に、「真剣師 小池重明」(団鬼六、幻冬社 571円)を読む。面白い!痛快である。どれくらい面白いかというと、山手線の降りるべき駅で降り過ごすくらいおもしろかった。
 東京ではまず渋谷へ出かけて映画「トレインスポッティング」を見る。うーんいいじゃないですか。倫理観の基準があいまいになっている今風の感覚がよく出ているCOOLなお話だった。あいまいな感じかベースにあるから、トリップシーンも現実の感覚と地続きな感じに描かれているのかなあ。しかし、「ぴあ」片手に映画館を探している姿はまぎれもなく、おのぼりさんそのものである。

 で、浜松町で用事を済ませた後は、夕方から「オフ会の・ようなもの」。イタリアワインを飲んだ後に、映画のタイトルのついたカクテルを飲みに出かける。で、さっそくトレインスポッティングを頼んだら、おいしいんだけれど、妙に甘くて何故こういう味にしたんだろう(まあ、ラムベースなのは分かって注文していたわけだか)と、「うーん」と頭をひねった。3杯目は、マティーニを注文したら、これもSWEETな感じだったので、全般的にこういう女性向けの味にしているのかしらん。

 ホテルに帰って、テレビを付けながらビール。そうして就寝。明日から東京へ1泊で出かける。

4月13日
 ゆっくりと目を覚まし、午前11時に起床。もっとも、いつものことだが旅先ではいつも夢ばかりで、なかなか熟睡できないことが多いのだ。で、アウトバス(宿泊したホテルは、各階に共同シャワーがあるという変則的な作りだった)で、シャワーを浴びてチェックアウト。今日の目的地は八重洲ブックセンターだ。

 というわけで、八重洲ブックセンターでは狙いの「TOKYO STYLE」、「ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行」などを中心に1万8000円ほど購入し、宅配サービスで送ってもらうことにする。その後は、新幹線のお供として「レストラン喝采亭」(石和鷹、集英社 520円)と「裸婦の中の裸婦」(澁澤龍彦・巖谷國士、文芸春秋 667円)を購入。新富士で下車するまでの間に、あらかた読んでしまう。

 新幹線新富士駅で下車して、結婚30周年旅行をしている両親ら(主宰は妹)と待ち合わせて合流。妹のマンションは富士山の真向かいといった感じで、玄関を開けると目の前に富士山がドーンとそびえている。話には聞いていたが、やはり絶景ではある。夕食はビールを飲みながら懐石料理を食べる。酔いと疲れのため、藤枝市へ向かう車の中で熟睡。

4月14日
 宮崎裁判で死刑が言い渡された。責任能力はあり、ということだ。
 ただ、裁判はあくまで犯罪を裁くということであって、彼がオタクな人々に突きつけた「闇」の部分は今もまた「そこ」にあるような気がするのは僕だけだろうか?彼と僕の差は何だったのか?当然ながら裁判にはその答えはない。
 それは、自分で探さなければ見つからないものだ。おそらく、社会と自分のの関係をどう捉えるか、と、どうして自分はそこにいるかということについて個人史と歴史をつなぐように考えること、というのが大切なような気がしているのだけれど・・・。
 ある知人(音楽ファン)は、自分が「あっち側」にいかなかった理由を「就職したから」と、言っていたけれど、やはり「労働」というリアルな作業は人間を現実に帰す力があるのだろうか?想像力の中に生きながらも、現実に着地する方法もあるはずだとは思うのだけれど。

 ちなみに、僕は「宮崎事件」の時も、「オウム真理教」の時も、「犯人と似てるね」と言われた経歴の持ち主である(笑)。宮崎事件では単に一般から見たら「オタク」(決してぼくは濃い人ではないのだが)にカテゴライズされていたというだけだが、オウムの時は信者と似た雰囲気を持っているそうだ。まあ、多少自覚しないわけではないが。
 だから、2つの問題は一生考え続けるつもりの問題である。

 少しずつ読んでいた「ねじまき鳥クロニクル」を第2部まで読了。改めて読み直して、作者が第2部で終わっていると思って読んでもらいたかったという、意味がよく分かった。しり切れとんぼなんて言われていたけれど、ちゃんと、完結してるよ、これ。ただ、第2部では「暴力」と「歴史」があるということを、導き出しただけだから、そこを突き詰めるのが、第3部になるわけだな、きっと。
 そうそう、今日の記念にその一節を書いておこう。
「良いニュースは小さな声で語られる」。

 ちなみに「イイシラセ、イイシラセ」とささやく声が聞こえるようでは、「ヘルメス 愛は風の如く」の作者になってしまうので、超注意(笑)。

 そんなこんなで、ワインを痛飲し、午後10時にはダウン。

4月15日
 架空のインタビュー

−最近はどんな風に暮らしていますか?
「目が覚めた時に起きて、まぶたが重くなれば横になる、猫のような生活だよ。外出はたまに書店に出かけるだけだから、あまり健全な社会生活を営んでいるとはいえないかもしれない。部屋にテレビを置いていないので、結局パソコンが社会への窓がわりになっているね」
−それが、当初言っていた”充電”の中身ですか?
「それは違うな。今は、そうだな、むしろちゃんと充電するために放電している、と言った方が正確かな。もちろん、時間はあり余っているから、自分の趣味の時間というのはしっかり取っているけれど、これはまた充電とは違うものだろ」
−そういうものですかね。
「趣味はむしろ自分が自らに課した労働だよ。だから、人は趣味について語るときに「あの作家の新作をよまなけりゃいけない」「テニスの練習にいかなけりゃならない」と、義務を遂行するような口調になるじゃないか。そういえば、初めは好奇心で始まって、義務にすり変わるところは恋愛関係にも似ているね」
−それがあなたの恋愛観というわけですね。ところで、話題は変わりますが、旅行にいく計画はどうなりましたか?
「先日、北アフリカの某国で働いている友人から葉書が来ていたよ。きれいな絵はがきで、見たことのない風景は「デラシネ」になりたい気持ちをかき立ててくれたよ。でも、多分今回はいかないだろうな。まあ、どんなにあこがれても一生目にすることができない風景というのは、たくさんあるということを思い知らされたよ」
−それはまた、ずいぶん悲観的な意見ですが。
「そうかな。本人はあまり悲観的とは思ってはいないのだけれど、やや叙情派的な発言だったかな?
こういう「一生」とかあるいは「絶対」とかいう大げさな言葉というのは、割合と便利でね。当たり前のことを言っても、もっともらしく聞こえたりするから、雑談の中でまぜると意外な説得力を持つものだよ。逆にそれで自分の意見がまとまったりすることもある」
−それが、詐欺師と言われる原因ではないのですか?
「詐欺師というのは、ある先輩が僕を評して言った言葉だったけれど、そういう文脈で使われたものではないよ。それに詐欺師というのも、僕が目指しているものとはちょっと違うね。むしろ、手品師的なものかな、自分がなりたいのは。種も仕掛けもあるんだけれど、それが「現実」とは違うとはっきり分かっている世界を作り出すような、ね。だいたい、仮に僕が詐欺師だとしても、今まで騙されたと文句を言った人はいないからね。手品といっしょでタネがばれなきゃ、それは一つの真実ということだと思うよ」
−これからはどうする予定ですか。
「その手品師的人物になるための修業を積むよ。それから、真顔でうそをつく練習もしたいな。自分がだまされないためにもね」
−最後に一言何かありますか?
「遺言じゃないんだから、そういうのはやめようよ。どっちにしろ、この悪趣味な対話はこれからも続くんだろ」
 【後略】

 八重洲ブックセンターから本が届く。今日はひたすらネットサーフィンの日。お楽しみのリンク集を作るのが目的である。何事もなく、何事もしない火曜日(そう、週末ですらない!)。

4月16日
 【前略】
−あれ、今回は東京へ出かけたのでは。
「出かけたよ。ただ、予定が早く済んだのでね、日帰りしてきたというわけさ。だから今日は疲れたよ。帰りは遅い昼食で飲んだビールが効いたこともあって、三島−新富士間ですこしうとうとしたほどだ」
−その寝起きのせいもあって、少し不機嫌そうなわけですか?
「いや、不機嫌というわけでもないのだが、そう見えるかい。昨晩あたりから、時々ある自己嫌悪期間中に入ったようでね、ちょっとその解決方法を考えているところなんだ。やはり、外から見て分かるかい?」
−こんな、複雑な手段を使うことそのものが、奇妙な感じはしますがね。
「いや、この手法は単にミーハーな心の現れさ。ほら、中学生ぐらいだとマンガやアニメのセリフを真似して遊ぶことがあるだろう。あの延長でね、昨日読んだ関川夏央氏のエッセイの1編がインタビュー形式でえらく格好よかったものだから、さ。もともと、プラトンだったっけ?あの時代から対論て形式はあったものだしね。なだいなだ氏なんかもそんな本を書いてたと思ったけれど」
−岩波新書にあるやつですね。それで話し方もそんな調子なんですね。ただ、関川氏のに比べればだいぶ退屈なやりとりですが。深町丈太郎的でもありませんし。
「です、ます調では、警句的な言葉がしっくりこないだろ。そのためさ。それに退屈なのはしょうがないよ。もともと気分転換も兼ねて、変わったことをやりたかっただけだからね、新しい酒はなんとやら、というとこれはちょっと誤用かな」
−誤用だと思います。だいたい、こんなことをしても自己嫌悪の解決にはならないのでは。
「それは、そうだ。でも、人間はいつも目的のためだけに行動するわけじゃないだろ。人は目的のために生きるにあらず、さ。むしろ、遊び、逸脱こそが本質じゃあないのかね」
−私にはどちらかというと、自慰行為かという気もしますがね。
「自慰をばかにしてはいけないよ。自慰には金もかからず、女もいらずと言ったのはギリシャだかの哲学者だったと思ったが、もっとも単純な娯楽の一つだな。文章による自慰なんて、インターネットで個人ホームページを見れば当たり前のことじゃないか」
−開きなおりましたね。それにしても、固有名詞がみんなウロ覚えですね。
【後略】

 子どものころから長い間疑問に感じていたことがある。書き初め、の意味だ。手だけでなく顔にまで墨を塗りながら、「初日の出」とか「友情」とか妙に前向きな言葉を半紙に書くのに何の意味があるのだろう。字の練習だったらもっと他の言葉−例えば「交通事故」「人造人間」−でも構わないだろうに、と妙なひっかかりを歳をとるにつれて感じるようになった。
 それが「言霊信仰」の一環ではないかと思い当たるようになったのは、二十歳を過ぎてから。もう書き初めの筆を執らなくなって、だいぶたってからのことだ。前向きな言葉を書くことで、将来が明るいものであることを祈るというのが書き初めの、いわば秘められた目的だったのだ。それが「交通事故」や「人造人間」では、わが身に何がふりかかるか分からないことになってしまう。それほど言霊信仰的なものは身近にあるのだ。
 で、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の東海事業所・再処理工場で発生した火災・爆発事故の偽証事件である。この顛末に、いささか言霊の亡霊のようなものを読み取るのは強引すぎるだろうか。
 この、事件のそもそもの発端は、総務課長が間違った消火時間の訂正を拒否したところから始まっている。この総務課長はおそらく「これで時間が間違っていることが明らかになったら、またバッシングだ」と、考えたから訂正することをよしとしなかったのだろう。そこからこの事件の「一度言葉にだしたものは事実になる」という言霊信仰的な迷走が始まるのである。ここで、総務課長が言葉よりも事実を重んじる姿勢があれば、ボタンのかけ違いは起こらなかったはずだ。
 総務課長は「訂正は難しい」と言ったという。新聞報道などによると、総務課長の真意は「ホワイトボードに10時22分という時間が書かれている以上、その時間に何らかの行動はあったはず」というところにあったようで、しかしそれは既にそれが本来の消火完了時間でないことが分かっている以上、転倒した考え方だ。火災は発生(覚知)と消火が最も基本的な事実であることを、総務課長が知らなかったわけがない。「10時22分消火」という既に発せられた言霊が、彼を縛っていたのだ。
 この転倒した事実のとらえ方が、そのまま組織のピラミッドを転げ落ちる間に雪だるま式にふくれ上がる。それが「消火を見た人間を作らねば」という捏造を引き起こした。結果として、一番最初に発せられた言霊の内容が、「実現」することになってしまったわけだ。
 本来、言霊は将来について力を発揮するものだから、既に発生した火災の事実をめぐる今回の事件にはそのまま当てはまるものではないかもしれない。だが、一度発した言葉に意識が支配されてしまうという構図はやはり「言霊」の力によるものだと思えてくる。
 「言霊」は日本の原始的な呪術の一種だ。民俗学の研究などによると、呪術は同じ文化を共有している中でしか機能しないという考え方があるそうだ。つまり、神主には悪魔ばらいはできないということなのだが、それをこの事件に当てはめてみると、動燃という「風通しの悪い組織」(動燃労組の地元幹部・朝日新聞)、つまり村では、その閉鎖性と硬直性故に「言霊」という呪術が格段の力を発揮したようにも解釈できる。
 と、そんなことを考えていたら、「ふげん」が微量の放射性物質トリチウムをもらしたというニュースが入ってきた。トリチウムよりも問題なのは、今回も福井県への通報遅れがあったことだろう。動燃の職員には、「反省」とか「迅速連絡」とか、そんな言葉を書き初めで書くことを義務ずけたらどうだろうか、などと考える今日この頃である。(笑)

4月17日
くれぐれも、架空のインタビュー

 【前略】
−今日も相変わらず猫のように暮らしていたようですね。
「まあ、午前中は何だか肌寒かったからね。横になって本を読んでいたら眠ってしまって、いつのまにか午後になっていた。でも、午後は書店へ買い出しに出かけて、いろいろと買い込むなど、多少生産的には過ごしたつもりだよ」
−また、知的無駄づかいというわけですね。
「君もだんだん厳しいことをいうようになるね。それを投資だと僕は思ってはいるのだけれど、そう思う人がいるのは否定しないよ。少なくともこの投資で得られるのは、金銭的なメリットではないのは確かではあるな。まあ、今日は例のごとく雑誌を除いた購入リストは書いておくつもりだよ。」
−金銭的なメリットのない投資、というと何やら、宗教関連の「壺」なんかを思い出しますが?
「うーん。お金を吐き出す側の心情はいつでも似たようなものだ、というくくり方はできるかもしれない。それを購入することで、何かが得られる、変わるといった期待はだれでも持つものじゃないかな。もっとも、壺と違って本は読まなければいけないから、その点は大きく違うだろう。それにそれだけで書籍を買うわけでもないのも確かなことだし」
−じゃあ、本を買うのは何に似ていると思いますか?
「テレクラというか、ツーショットなんかも含めたいわゆるテレコミという奴かな。書店で本を買う時なんかは、テレクラで電話がつながった時に、相手の反応を確かめながら、会話をつないでいく感覚と似ていないでもないよ。ちらちらとページをめくりながら、うーんこれは俺には合いそうにないな、なんて考えるときは特にそう思うね。そして、そうやって取捨選択しても、ハズレを引くことがあるってところが一番類似しているな。ただ、本には恋人とか正妻とか、そういう特別な存在を作らなくていいんで、それで救われているね」
−私生活を振り返ると、負け惜しみにも聞こえますが・・・。それじゃあ、今までで一番損したと思った本は何ですか?
「そういう本は記憶そのものから抹殺しているんだけれどなあ。高校3年の時に買った、新井素子さんの「結婚物語」ってのは、それこそテレ下という奴かな。最初はさべあのまさんのイラストにつられて待ち合わせをしたものの、本文を読んだところ・・・、まあテレクラだったら待ち合わせ場所で回れ右して帰っているぐらいの内容だったね。まあ、今はあの当時よりふところに余裕があるから、トホホな本を買っても、許せる気持ちになることが多いよ」
−そして結果的に、無駄づかいになってるわけですね。それにしても、テレコミっておもしろいんですか?
「本名を名乗らずにすむというコミュニケーションのおもしろさを覚えたよね。あれは、名前のないところで、自分がどれだけ自分でいられるか?という実験じゃないかという気がするよ」
【後略】

 今日買った本(雑誌は除く)。「15秒の自画像 CMに見る日本人」(上村治、大修館書店 1500円)「電子メディア論」(大沢真幸、新曜社 2987円)「「文章を書こう」(荒川洋治・白石公子・松村栄子、ベネッセ 1600円)「オンリー・ミー」(三谷幸喜、幻冬社 571円)「イエス」(安彦良和、NTT出版 1400円)「別冊宝島313 男女の出会いの本」(宝島社 900円)「石ノ森萬画館」(石ノ森章太郎、メディアファクトリー 2000円)

 昨晩はあっというまに「現代若者ことば考」(米川明彦、丸善 740円)を読了。まあ、あんまし新しい内容はなかったけれど、頭の整理にはなったかな。つまり、若者語というのは、「仲間うちの言葉」でありそういう言葉は若者語だけにかぎったものではない。それに「若者は若者語しかしゃべっているわけではない」し、そうしたことを誤解しているが故に「悪い変な言葉だからただすべきというおごりが生まれる」というのがおおむねの結論。
 明治以降の若者言葉の流れを簡単に説明しているのが興味深かった。まあ、それ以上に現代の若者言葉コレクションとその実用例の羅列には、なかなかまいりました。やむをえないけれど、こうした生な言葉は、こうやってコレクションされるとやはり死んでしまうな。この先生もそれがわかっているから途中に学生にしゃべらせた実用例をかなり引用するのだが、それはそれで「ジャック&ベティー」的な笑いの世界に近づいているしね(大阪弁がいかんのかんのかな?・笑・)。
 あと、江国滋のエッセイに対する反論を学生に書かせて、それをそのまま本文で採用するというのも、なかなか「上手な」手法ではある。(ちょっと皮肉入ってるかな?) 

4月18日
だから、架空のインタビュー

【前略】
−最近夜更かししてませんか?
「本を読んだり、日記を更新しているとちょくちょく遅くなるよ。特に、ここ数カ月は本を買うことに迷わないようにしているからね、暇を見て読まないと積ん読になってしまうんだ」
−最近何か面白い本てありましたか。
「難しいことを聞くね。そういう質問をされる機会は多いけれど、それは自分の病気が分からないのに「何か効く薬を下さい」って言うようなものだろ。はかない野の花に自分をつい重ねてしまう乙女と、薄くなり始めた頭を気にするお父さんでは、「効く薬」も違うのさ。君はいったいどんな人物で、どんなものが欲しいんだい。ああ、「何に渇いてるのか」と尋ねる方がよりハードボイルドかな」
−いや、特にどうというのはないんですが、強いて言うなら、皆が読んでる話題作であまり暗い気持ちにならない種類の本ですか。あと手軽に読めた方がいいなあ。
「うーん。なかなか難しいけれど、それなら「脳内革命」がぴったりかもしれないな。君が挙げてる条件には過不足なくあてはまっているよ。ただこの本の唯一の欠点は、中身がない、ということだけれどね。もっとも、君が挙げた条件で中身がある本を探すのがそもそも難しいかもしれないけれど」
−中身がなくても売れるんですか?
「そりゃ、君みたいな人が日本には300万人位いるんだろう。こうなると、売れたというこの量が質に転換するね。そこはそれで置いておいて、君は窓際のトットちゃんて知ってるかい」
−一応、知ってますけど。表紙がいわさきちひろの奴ですよねえ。日本最大のベストセラーだと思いましたが。
「そう、その通り。あの本で一番読者の感心を引いた部分は表紙じゃないかな。君はポイントを捉えているかもしれない。だって、君は信じられるかい?黒柳徹子の子ども時代の思い出話を、全国の皆が−それも300万人以上」だったかなあ−楽しんで読んだんだぜ。まあ、構図で読むなんてことをすれば、子ども=無垢という信仰を最大限に利用した本とも言えるかもね。そのラップとしていわさきちひろの絵というのは最適なラッピングだったというわけさ」
−じゃあ、脳内革命は?
「新手のコンプレックス産業だろ。もっとも、これはコンプレックス産業を卑下してるわけではないよ。コンプレックス産業は常に新しいニッチを探してきたんだ。例えば健康に影響があるといいい、次に格好悪いといい、最後にはやっていないのはあなただけだ、と宣伝するようにね。そこにうまい切り口でまた新しい市場を立ち上げというわけさ」
【後略】

 ああ、いっこうに歌が聞けないのである。何の歌かっていえば、地球防衛バンドの歌なのだ。女の子にボーカルを頼みにいくとことごとく断られるのである。何のドラマもなくなってしまうのである。ああどうしよう。まったく、こっちが下手にでても、丁寧に頼んでも、お願いしてもだめなのである。ヒグラシを聞きながらぼんやりと、夕暮れの第3新東京市の空を見上げるだけなのである。
 それにしても、キャラはちょっち丸っこかったりして違和感があるが、何と言っても「一人の声優が声をあてているということで同一性を確保している」(FROM トーキング・ヘッド)のがアニメキャラの本質の一つなのだからゆるーす。でも、美術、特に戦闘時の背景は苦しいなっと。(エヴァ2ndインプレッションのことっス)

 ああ、赤い髪の毛が許せない。へんてこなフリルのついた夏服が許せない。なんだか地味なその顔だちが許せない。なんで、みんな彼女たちを好きになるんだ?いや、その世界は面白いしゲームとしては楽しいよ、でも、何度もダンス先生(FROM ごっつうええかんじ)になって「アホー!」と叫んでいたのは俺だけだろうか。まあ、これが変な髪の毛の色していても、あおいちゃんとか、きゃおりとか、百合子とか、ちまりとか、のんのんじーだったらゆるーっす。(だったら、ゆみみみっくすとだいな・あいらんど早く買えって)。とりあえず最後までやろ。(案の定、ときメモっス)

 ああ、運動神経鈍いってのを思いだされる。妹の方が早くクリアしたりすると、くやしくはないが、くやしくはないのである。あせってくると、○と□と×と△の場所が分からなくなってしまうのだ。それだけではない。右と左もあやしくなってしまうのである。ああ、しかも体をゆらしながらやってしまうのである。でも、もう一回なのである。(パラッパラッパーっす)

 というわけで今日は清水(しみず、じゃないよ>妹夫婦)のブタとなってSSとPSを購入。しかも、それだけに飽き足らず、名曲「うし」の入った嘉門達夫のコロンビア時代のベスト盤と「オー!マイ ガー」まで購入。勢いというのは怖いものである。

4月19日
とはいうものの、架空のインタビュー

【前略】
−今日は本の整理をしていたそうですね。
「うん。ダンボールに入っていた本を半透明のプラスチックケースに移していたんだ。こうすれば多少とも省スペースになるかと思ってね。いや、何にしろ本の整理というのは難しいね。整理しなければ、アクティブな本は枕元に集まるし、読まない本はだんだん山の下になっていくから、かえって使い勝手がいいように思う時があるよ」
−1種の超整理法ですね。そんなことで1Kの部屋で暮らせるなら構いませんが。
「だから、プラスチックケースに移したのさ。これで、本のタイトルをカードにまとめれば、狭い部屋での本を管理で来るんじゃないかと、かすかに期待しているわけ。これ、あるムックで紹介されていた本の整理方法なのだけれど、本だなが限られている場所ではかなり有効だと思うよ。さっきは「かすか」なんて言ったけれど実はかなり期待しているかも。幸い、一番最初にこのシステムを立ち上げるだけの時間はあったしね。明日もこの整理に一日かかりきりかな」
−整理をして何か発見はありますか?
「うーん。発見ねえ。自分が持っているのがマンガばかりだ、というのはすごくよく分かったかな(笑)。半分はマンガだね。もうここまで来たら買いつづけるしかないね。それでも、週刊少年誌に掲載されたマンガをほとんど買わなくなったからね、いや、買ってもいいんだけれど、キリがなくなっちゃうんだよ。大昔、そう中学生ぐらいまでは、1作家1作品なんてルールで歯止めを掛けながら買っていたんだけれど、当時は知っているマンガの数が少なかったからなあ。それでも今回整理する過程で、一部のマンガやほとんど読まないハードカバーをダンボーールで1箱間引いたんだけど、焼け石に水だったね」。
−間引きというのは?
「いや、単に藤枝の自宅の本棚に移しただけ(笑)。うしおととら、沈黙の艦隊、ナウシカの後半、ジョジョの第4部終了までなんかが主な作品。うしおととらなんか、読み返してかなり迷ったけれどね(笑)。あと、神武、安東なんかは内容が他の作品と比べていまいちだと思ったから、これも自宅の本だなへ。もう読まない本としてはは、村おこしなんかに関するノンフィクションが主かな」
−こんなに苦労しながらも、でも、これからも本は買いますか。
「これからも本を買い続けるために、この整理をやったんだよ」
【後略】

 珍しくビールだけで轟沈。本当は感想をアップしたい本とか映画があるのだが、怠惰にかまけていっこうに書いていない。「15秒の自画像」を読了。広告というものの社会的、文化的位置づけをを実作者の立場から丁寧に行っている。実作者だけあってその言葉には説得力がある一方、総論的にまとめ過ぎかなという感もなきにしもあらず。「オンリー・ミー」は18日に読了。「カラオケ、海をわたる」「不安の世紀」はどちらも、かなり前から感想が工事中のままである。
 映画もとりあえず、マーズアタックとトレインスポッティングは書かねばならぬ。今週中に書けるかなあ>と、自分にプレッシャー

 先日、マンガ家、寺田ヒロオ氏のファンの方から、映画「トキワ荘の青春」についていくつか情報をメールでいただいた。僕の感想では「架空の人物ではないか」と書いた友人のマンガ家が実在の人物であることなど、参考になる内容だったので、ここに記しておく。また、ご教示いただいた事実関係にかんしては、後日「映画印象派」の方に、追記する予定。

4月20日
だがしかし、架空のインタビュー
【前略】
−あれ、なんだか忙しそうですね。
「うん。だから聞きたいことがあれば手短に頼むよ」
−本当に忙しいんですか?それとも忙しいふりですか?
「正解はどちらも、ノーだな。正解は「急がしそうに見えるが、実際はそうではない」だ。今日、やっと本の整理にめどがついたんでね。あとは、もう一度簡単に分類をチェックしたりすれば終わるだろうけどね」
−本当は分類の方法についていろいろ聞きたいところなんですが。
「それについてはノーコメント。僕の脳みそのなかで、何が重要か、大きな場所を占めているかがばれちゃうからね。まあ、皆さんが想像するような感じではあると思うよ」
−やれやれ。しかし、インタビューの回答も続くうちにつまらなくなりましたね。
「君にアドバイスをするなら、質問が悪い、ということは言えるかな」
【後略】
 
 最近、履歴書を書く機会があった。そこで発見をした。いや、書きなれた人なんかには当たり前のことかもしれないが、履歴書には得意なスポーツを書く欄があるのだ。僕は初めて知った。これは驚きだ。就職する時に、得意なスポーツが重要な働きをするのかしら。ともかく、剣道とか柔道とか、はっきり段位が決まっている奴なんかが得意だとだと書きがいもあるだろうが、こちらはそっち方面はからっきし。まあ、その乏しい中でも考えて、水泳と書いた。小中学校では水泳部だったから、まあウソではない。
 小中学校で水泳部だったおかげで、なんとか4種目とも泳げるし、潜水だって陸の上ではかなわない他の子とくらべてもそこそこできた。モグリは得意といってもよかったかもしれない。だから、というわけではないが、僕はモグリという言葉に今でもかなり敏感である。ブラック・ジャックを読んでいたのだって、彼がモグリ医者だったからといっても過言ではないだろう。水泳部でなければ、僕はブラックジャックを読まなかったであろうことは確かなことだ。
 で、なんでこんなことを長々と書いてきたかというと、先日知人に言われたのだ。「モグリ」だと。
 藁の一本がラクダの背を砕くという、ことわざがある。我慢の限界まで荷物を積んだラクダの背中に藁が1本乗っただけで、ラクダはへたりこんでしまう、というのがそのことわざの状況なのだが、そのモグリという言葉は藁1本以上の重さで、僕の自制心を砕いてしまったのだった。
 これが、「まだまだ甘い」とか「今ひとつ」とか言われたのであれば、あんなに言葉に影響をうけることはなかっただろう。やはり、水泳部だった過去と密接に絡みついた「モグリ」だからこそ、あれだけ僕の心をゆさぶったのだ?。プールの水、カルキと焼けたゴムホースの臭い、それに水中から見る夏の太陽、そんな懐かしさの要素が僕の深層心理の中で、「モグリ」という言葉を神聖な呪文のように位置づけているのかもしれない。(ここまで書くといくらなんでも大げさだ)。ともかくモグリ、という言葉は、僕に対する殺し文句としてなかなか有効だ、というのをつくづく実感した一瞬だった。
 皆さん、僕に何かさせたい時には、上手にモグリという言葉を使えばきっとうまくいくと思います。
 ともかく僕はその一言で決断した。もう2年ぐらい判断を保留していたことだったので、これが決断の潮時だったのかもしれない。で、その決断の副産物が、テレビの前にある2台の家庭用ゲーム機器、「セガ・サターン」と「プレイステーション」である。ただ、肝心なのはその2台を買ったことはあくまで副産物なのだ。特にプレイステーションは。いくらパラッパラッパーで楽しもうが、エヴァンゲリオン2ndインプレッションで苦労しようが、モグリであることは変わっていなかったのだ。
 そして今日僕はやっとモグリでなくなった。長い潜水を終えて、空っぽになった肺に力一杯空気を吸い込むような解放感が、僕を包んでいる。ついに買ったのだ。「ゆみみみっくす りみっくす」を。
 文章が大げさだって?それはそうかも。うじゃ。


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