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 熱帯とはいえ,冷水の湧き出す泉の周辺はそよそよと,涼しい風が吹いていた。
 昼下がり,その泉の端でパラミアスは少々後悔していた。
 占有地を無謀に拡大する人類との共存など,やはり無理なのだろうか。
 科学の発達は,人間の道徳心を崩壊させるものなのだ。昔から何ひとつ変わってなどいない。むしろひどくなっていると言う。
「パラミアス様,何か悩みごとでも」
 エコナが心配そうな顔を覗かせた。
 たった今まで裸で泳いでいたと思えば,今度はパラミアスの横にちょこんと腰を降ろし,木櫛で濡れた長い栗毛をとかしている。
 ミュウシャも一緒になって身繕いをしていた。
「なんでもないわ。それより…」
「メイ,の事でしょ」
パラミアスが話をそらそうとするのをすかさずエコナが引き戻した。
香坂はメイ,パラミアスはミア,と呼び合っていることはエコナも聞かされていた。
「あなたって相変わらず鋭く突っ込んでくるのね」
「だって聞きたいんですもの」
「物好きねえ」
パラミアスは溜息をついた。
「あら,お互い様じゃないですか。独占してないであたしにも会わせてほしいわ」
「それはそうね。ごもっともだわ」
「でしょ」
 エコナは明るく言い切った。
 彼女には,香坂がこれからどんな行動をとってどんな影響を我々に及ぼすのか,などというパラミアスの悩みなど知らなかった。
「のんきでいいわね,エコナは」
 パラミアスは少々皮肉を込めて言った。
 が、エコナは一切気に止める風もなく、
「あたしのとりえってこんなことだけだもの」
 と、笑って答えた。
「あっ、そうだわ。メイはもうお昼食べたかしら」
 突然思い出したように、勢いよく立ち上がった、までは良かったのだが、その拍子に濡れた岩に足をとられて尻もちをついてしまった。
 側にいたミュウシャはたまったものではない。慌てて飛び上がると、ためらわずに怒りを込めてエコナの腕に噛みついた。
「痛いっ。んもう、やめてったら」
 潰されかけたのだからミュウシャもかなり機嫌が悪かった。
「ごめんなさいったら、ちょっと、それ、痛いのよ」
 パラミアスはエコナとミュウシャのやりとりを見て楽しんでいた。
 間が抜けていると言うか、遊んでるというか……
 知らぬ人が見れば、とても何千年も生きている者とは思えないだろう。それほどエコナは純真無垢で、ミネーリアンらしからぬ天真爛漫さを持っていた。
 エコナとミュウシャのどたばたが一段落した頃合を見計らって、パラミアスはエコナに衣装を手渡した。滑らかな肌には赤いくちばしの痕を一杯つけていた。見ただけで痛々しそうである。
「そんな格好じゃメイがびっくりするわ」
 そろりと衣装を身につけていたエコナはその言葉に、両手を胸に当てて喜びを表した。
 ミュウシャは頭の上でふんぞり返っていた。ようやく満足したらしい。
「あたしもいっていいんですか」
「構わないわよ。多いほうが食事は楽しいもの」
「やったあ、…い、痛たっ」
「今日はお魚でも捕って行こうかしら」
「それじゃああたしは果物でも採ってきます」
「誰にも気付かれないように、いいわね」
「わかってますわ」
 エコナはそう言うが早いか、すぐさま森の奥へ駆けて行った。
 身体の傷など構っていられなかった。なにしろ二百年ぶりに男に会えるのだ。
「遠慮しないで直接来るのよ」
 そう言うパラミアスの言葉に振り向きもせず、ただ手を振り返すだけだった。


 香坂はきらびやかなパラミアスの姿に眩惑されていた。
 メルスナの岩場全体が輝いているように見えるほど、その身に纏った衣装は豪華絢爛の装飾品で溢れ返っていた。
「凄えな、これ、全部本物なんだ」
 賞賛など言葉に出来なかった。
 優雅、幽玄、威厳までもが凝縮されている。
「これが私の正装です」
 そう言うパラミアスの全身を飾る品全てが純度の高い貴金属と、鮮烈な輝きを放つ貴石で彩られていた。カチューシャに似た冠に見られる細工は絶品で、工芸品としての価値は計り知れない。人の世に出せばいくらの値がつくだろうか。
「まるで歩く博物館だ」 
 香坂は自分の感想を率直に述べた。
「はくぶつかん?」
「歴史的なものや、芸術的に価値のあるものを広くみんなに観てもらうための場所さ。そこにあるものは得てして、手にいれたくてもはいらないジレンマに襲われる存在、かな」
「誉めてくれてるのかしら」
「そのつもりだけどな……それにしても随分重そうだな」
「そうよ。私の体重は軽く越えるわ」
「ミアって女王様だったのか。こんな格好でおしとやかにしてるとは想像してなかったな。でも、そんなの着てて、よく肩が凝らないもんだ」
 ミアと呼ばれたパラミアスはくすりと笑った。
「これが私の戦闘服よ」
「おいおい、マジかよ」
 香坂は余りの突飛さに半信半疑に陥った。自重を越えるいう華やかな衣装で、武具はなにひとつ身につけていないのだ。
 相対する敵は面と向かって何を想うだろう。着飾った相手に戦うなど、不思議な気持ちに違いない。
 そんなので戦えるものなのか。
「すぐにわかるわ」
 パラミアスはそう言って岩場を向くと、焚火でくすぶっている魚の上を軽く飛び越えた。
 まだかしら。それにしても……
 エコナの遅さを少し気にかけていた。
 パラミアスは香坂の望むものを殆ど叶えていた。
 今回の衣装にしても、観たいと言うのでわざわざ着替えてきたのだ。
 日本語にしても、べったりひっついていた10日間でなんとか形にした。
 もともとミネーリアンの語学力、記憶力は人間の比ではなかった。
 香坂にしてみても、教える言葉を全て複雑に理解して吸収する、パラミアスの高度な言語応用力の前には舌を巻いていた。
 もっともそのおかげで香坂は、言葉の障害を乗り越えることが出来たのだ。
 パラミアスが狙いとする、誤解のない協調がここにも表れていた。
 香坂は最初の頃の、メラネシアン・キャット…ミネーリアンに対する恐怖といったものは払拭されていた。彼女達は女ばかりしか生き延びられず、幾千年にも渡ってさまよい続けているという、迫害された人々なのだ。
 岩場の少し高いところにまっすぐ立つとパラミアスはおもむろに剣を抜いた。
 この剣も手の込んだ彫金が施されてあり、あまり使われていないのか、柄の部分はほとんど擦れていなかった。
 剣が冷たく光った。
「これから剣舞を披露するわ」
 にこやかだった笑顔が少しこわばった。が、あの、全てを包括してしまう母性の様な美しさは損なわれていない。恐ろしい殺人鬼というよりむしろ慈悲をたたえた瞳をしている。
 わずか4、5分だったが、あれだけの重量をみじんも感じさせず、勇壮で華麗に舞う姿に、香坂は甘い香りの薫風を見た。
 美しい。
 だが、これは死の舞だ。
 早いしなにより次の動作が予測できない。
 鳥肌が立つというより、この演舞の前では闘争心すら消されてしまう。
 香坂とて、武道の経験がないわけではない。見栄えは軟派な若者だが、剣道、柔道、空手合わせて8段の腕前を誇っていた。
 医者というもの、ハードな診察を努めるには、日頃より心身を鍛えていなくてはならないというのが持論だったからだ。
 武道の先生に言わせれば、天賦の才能を持っているとの事らしい。
 そんな香坂でもパラミアスの前では赤子同然なのだ。恐くもなる。
「私はこれまで争いを避けようとして来ました。争いの中で相手を傷つけることもありましたし、殺したことも少なくありません。でも相手に傷を負わせずに済む方法は戦いを放棄するか放棄させるしかないのです」
 パラミアスは剣を鞘に戻して岩場を降りてきた。
「放棄は出来ません。私達にとって負けることは死よりも辛いことですから。そこで私は比類無き技術を身につけて、相手に放棄させる方法を採ったのです。もっとも、はじめからお互い争う気がなければいいのですが」
 香坂はパラミアスの苦しみがなんとなく伝わって来るのを感じていた。
 争いは自己の防衛本能や、欲求を満たそうとして現出するもので、生きている限りのがれられないものである。
 争いからは何も生まれない。
 それが判っていても、どうすることもできない。
 そこには、鬼のように言われる種族の面影はなく、戦いたくないのに戦わなくてはならない身の上に苦悶している様子があった。
 本当はとても優しい生き物なんだ。
 自由奔放にのんびり暮らしたいのだ。
 必要に迫られて剣を握っているだけなんだ。
 パラミアスからそんな気持ちを得た香坂だった。
 岩場を降りたパラミアスはふと、聴き耳を立てた。
 誰か来る、エコナかしら。
 香坂が何か言おうとするのを制止すると同時に、そっと剣に手を添えた。
 もし違っていれば大騒ぎだ。
 五感を研ぎ澄ませる。自然と目付きが厳しくなっていた。
 草を掻き分ける音が香坂の耳にも聞き取れた。
 その草むらから飛び出したのは、色鮮やかな小型のインコだった。
「ミュウシャ」
 パラミアスは穏やかな顔に戻ってミュウシャを受け入れた。
 間髪をおかず、エコナが姿を現した。
 香坂は新しいメラネシアンの女性に驚いた。
 パラミアスより色白で幼さがある。かわいらしい感じの少女だ。
「紹介するわ。私の仲間で身の回りの世話をやってくれている、エコナよ」
 エコナは紹介されて、篭いっぱいの果物を地面に降ろした。そして片膝をつくと頭を下げた。
「はじめまして」
 香坂は日本語で言った。当然通じるはずもない。
 パラミアスはミネーリアンの言語で2、3言葉を交わすと、エコナは立ち上がって香坂に果物の入った篭を差し出した。
 笑顔がとても愛らしい。香坂の独占欲を満たすには充分な性格だろう。
「ありがとう」
 香坂は喜んでそれを受け取った。
「魚が焼けたみたいよ」 
 パラミアスはくすぶる火の側から日陰に魚を移していた。
 二人はパラミアスの側に集まって遅い昼食、いや早い夕食を摂ることにした。
 陽差しは和らぎ、東の空からはスコールの暗雲が伸びて来つつあった。
 ところどころで稲妻が光っているのが見えている。
 香坂は急ごしらえでテントの布を枝に張り巡らせて、屋根を造った。
 三人はてきぱきとそこに避難して、食事を摂ることにした。
 この時、誰もこれからの争乱を予想していなかった。

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