V 青年は一面花畑の中に倒れていた。 広々とした平野が展開し,人影もまばらで,咲き誇る菜の花畑の中には蝶がひらひらと舞っていた。 青年は自分のイメージする天国を思った。ここはまさに天国以外のなにものでもなかった。 「ここは…」 一生懸命に記憶を呼び戻そうと試みるが駄目だった。 「俺は,誰,なんだ」 青年は頭を抱えて起き上がった。 いったん目を閉じて,混乱しかかっている頭を整理しようと深く深呼吸した後に,そっと目を開いて辺りを見渡した。ほんの少し離れたところの小高い丘にある,真珠のような白さが際だった建物が目に飛び込んできた。 「ありゃあ、神殿、だよな」 大理石で造られたイオニア式神殿の美しさに青年は見入っていた。 「ヘルミオネ様、大丈夫でしたか」 幼いが,その緊迫した声に青年は何事だろうと振り返った。 振り返った視線の先から,二人の少女が駆けてくるのが目に入った。 「落馬されたと聞きつけて,慌ててお捜ししてましたのよ」 カリアティード(女人柱)にそっくりの,少女が息を切らしていた。一人はカチューシャに似た髪飾りを着け,もう一人は武具であろうか,小さな胸当てを付けて肩にはえびらを担いでいた。二人とも髪は黒いが瞳はエメラルドのような色をしている。黒髪は侍女の証しとして染めているものらしい。 それは解るんだが… 「どうされましたか,まだご気分がすぐれませんか」 「俺はヘルミオネと言うのか。違うような気がするんだが……」 青年はヘルミオネという単語から記憶の糸をたどろうとしていた。しかし,自分の名前はもっと長かったような気がしてならなかった。 「もしや打ちどころが悪かったのでは」 二人の少女は顔を見合わせた。側近の侍女として,ヘルミオネにもしものことがあっては大変だ。今日は特に大事な日なのだから。 「私達を覚えていますか」 武具を着けた勇ましい格好の女の子が不安いっぱいに訊く。だが,青年には記憶がないのだから答えようもなかった。 「貴方様の一番近くでお世話をしている私達をお忘れになるなんて」 悲嘆してカチューシャをつけた侍女がうつむいた。涙で瞳を潤ませている。 「今日がヘルミオネ様の善き日となろうと言うのに」 胸当てをつけた侍女は,続けてこう嘆くとえびらを降ろした。 「善き日,ってなんだ」 「貴方とパミス様の結婚ですわ」 その声が聞こえ終わるより早く,青年は唐突に視力を失った。まるで灯のスイッチが切れたようだ。 遠くで悲鳴と剣の打ち合わされる音が聞こえたのだが,それも薄れる意識の彼方へ遠退いて行った。 次に意識が戻ったとき,辺りは闇に包まれていた。 「こんどは何処なんだ」 時間の経過は感じない。 ここでは混沌が支配していた。 青年は必死に状況を把握しようと努めるのだが,身体は言うことを聞かない。それどころか麻ひした身体をゆっくりと,例えようのない嫌悪感をかきたてる生臭い何かが自分を飲み込もうとしていた。 まるで底無し沼に引きづりこまれて行く気分だった。 逃れたくて仕方がないが,身体が凍ったように動かない。 「ちくしょう,なんだっていうんだ」 怪物の胃袋に閉じ込められて後は溶けるのを待つだけ,のようにこのままでは何もかも消滅してしまう危機感で一杯だった。 「こんなところで…こんなところで消えてたまるかっ」 恐怖を追い払うように雄叫びをあげた。 瞬間,光の玉が弾けた。 はっとして青年は目を開いた。 辺りは静まり返っていた。 先程とはうって変わった安堵感の中で,青年の心は満たされていた。 「また、天国か。それとも地獄なのか」 青年は思い出そうとした。何でも良かった。記憶にあるものなら何でも。その記憶と言うものもあやふやなものだが,とにかく何でも。 「そうだ,俺は香坂明だ。カタカナの名前じゃない」 悪夢から醒めて自分が誰であるかわかった嬉しさに,今まで何をしていたのか順を追って思い出し始めた。 徐々に視力が回復していた。 香坂は重い身体を起こした。以外とすんなりと動くのが嬉しかった。 上体を起こして辺りを見回した。まるで自分を中心に嵐が巻き起こったかのように付近の樹木はなぎ倒され,開けた岩場と化していた。 空が広い。久しぶりにみる大空だ。 陽が昇ってからまだそんなに時間は経っていない。暑くなるにはまだ間がある。妙なのは,いつものさえずりが姿を消し,静けさが広がっていたことだ。 「確か,弓で射られて倒れたんだよな」 そう呟きながら両肩と両腿を見た。刺さったと思われる所は,ほんのりと赤みがかっているぐらいできれいなものだった。 記憶通り,確かに怪我はしていたのだ。ただ今は再生しているのだが。 「治ったのか,そんな馬鹿な。あれは夢じゃない」 香坂はこれでも医者の卵である。医学の知識は充分とは言えないが,勉強自体嫌いじゃない。 「誰かが治してくれたんだ」 香坂はメラネシアン・キャットの名を思い出した。 「でも、まさか」 だが,他に考えようがなかった。 這いずりながら壊れたテントで時計を探し出した。月日と曜日の表示できるものである。壊れていなければあれから1日程しか経っていない。 1日で傷口をふさぐと言うのは通常なら無理である。でも,メラネシアン・キャットならどうだろうか。彼女らは人間の常識を越えたところの生き物である。 この放射状の倒木がその影響と考えても不思議とは思えない。 もしそうなら,とてつもないエネルギーがここで渦巻いたことになるが。 しかし香坂にわからないのは一度は殺そうとした自分を何故助けたのか,と言うことだった。 なんで,わざわざ,なんのために…… ぼおっと岩場に目を向けた。 何かが動いていた。香坂はじっと目を凝らした。 それはまるで光背を背負っている神の様に見えた。 軽やかに急斜面の岩場から降り立つと,今度はゆっくりこちらへ歩き出した。 ようやく香坂は相手の顔に焦点が合った。 金髪は軽くウエーブがかかり,人間とは明かに異なる羊のような耳が姿を覗かせている。額には深い青の3つ目の瞳を備え,端正な顔立ちには王侯貴族の気品があった。 「これが」 香坂は自分の目が信じられなかった。いま目の前に,追い求めようとしていたメラネシアン・キャットらしき女性がいるのだ。 これは現実なのか。 頬をつねると,感覚がまだ回復しきっていないため,ぼおっとしている。 だがこれが事実だと言う確証があった。 一方パラミアスは相手を刺激しないように,穏やかな笑顔を絶やさぬよう心掛けていた。 果して自分は受け入れてもらえるのだろうか。 なにしろ一度,この男は殺されかけたのである。 とにかくパラミアスの関心事はこの男の不可思議な雰囲気と人間社会だった。なのに受け入れてもらえなければ,全ての好奇心は満足する事なく潰えてしまう。 そのために武具や装飾品は一切除けて,たくさんの果物を用意した。 パラミアスは全員にメルスナの岩場へは近づかぬよう命じていた。ミネアも例外ではなく,パラミアスの封印した場所には近づくことを許されなかった。 ある程度の距離をおいて立ち止まり,横倒しになった樹に,膝丈までの裾をちょっと持ち上げて腰を降ろした。 裾からちらりと見え隠れする金色の物があるのを香坂は見逃さなかった。 「尾だ。尾がある。本物だ」 香坂は有頂天になりつつあった。 あの,話が,本当なら,脚は立派な爪になっているはずだ。 わくわくする香坂の期待通り,上体の美しさにはとてもそぐわない,前後二本づつの鋭い爪がふさふさとした脚毛の間から見えた。本来,北方が生活圏だったらしいその毛並みは,南方のこの場には不釣り合いだ。 だが,それが変には見えなかった。 人間とは違った異質の美しさに香坂は見とれていた。 艶やかで肌理の細かい小麦色の肌,すらりと引き締まったプロポーション,そんな中に獣のような部位は違和感なく溶け込んでいた。 文字どおり,メラネシアに住む猫,だった。 「美しすぎる,これがメラネシアン・キャットの姿だと言うのか」 華麗で,優美,幽玄,どんな言葉でも今の香坂の感想は表すことはできないだろう。 女神……理想体型が崩れる事なく永い年月を生き続ける者。そして不可解な力を持つ。 幻想の世界である。 香坂は胸が熱くなるのを覚えた。 一目惚れしてもおかしくなかった。不幸なことに香坂の周りには,完全無欠を振舞う女性などいなかった。腰を振って近づく女はいるが,みんな財産が目当ての薄汚い奴らばかりである。 媚びた化粧女ばかり見ていたのだから,今までまともに惚れるという感覚がないのは当然の事だろう。 香坂は感嘆の声をあげそうになった。なにか,彼女の顔を見ていると心が和む。無邪気だが全てを包括する優しさがそこにあるようだ。 そんな男の惚けた顔を見て,パラミアスはくすりと笑った。 それを見て香坂ははじめて我に返った。 メラネシアンは冷酷で残忍な種族。ある学者の言葉である。だがそれに反論するように,あるルポライターはこれ以上理性的な生き物はいない,と論評している。確か,神端芳彦とか言っていたな。自分が出会ったカウミというメラネシアン・キャットとの生活を綴ったものを発表して世間を湧かせたが,一般の読者は全く取り合わず,香坂でさえ半信半疑だった。だが,本物は実際にいたのだ。 優しいのか,残忍なのか,どちらが本当かこれから解ることだ。 メラネシアン・キャットに敵意はないということは香坂にも伝わっていた。香坂はまさかとって食うためなら助けはしないだろうと思っていたので,そう決心すると目の前の女性を手招きした。 それから10日余り,パラミアスは香坂と生活を共にしたのである。 |