平成元年 7〜8月(制作)

 猫という名の人類      ― パミス・メモリー編 ―

        (第5稿)                          滝沢  俊

    T

青年の疲労は極限に達していた。
「冗談じゃない。なんなんだ、ここは」
 怒りを抑える必要のない状況の中で、香坂明はただ一人、大声で不満をぶちまけた。
 辺りは熱帯特有のさえずりが平和を歌っている。蔦が繁り、うっそうとしたジャングルにも関わらず、青年の致命傷ともなるべき猛毒を持った生物も、大型の肉食獣も見あたらない。
 平和そのものだ。
「ったく。情けない話だぜ。なにが安全な島だ。生きて帰れたら、連中、ぶちのめしてやる」
 見せかけだけの平和に毒舌を奮っても、誰一人相手をするものはない。メラネシアのただっぴろい海に浮かぶ無人島では、それも当然だろう。
 背丈ほどある雑草をかき分けての脱出口捜しだが、180 の長身を誇る香坂でも、葉っぱの先がちくちくと顔に当たって腹立たしい。都会で二枚目だということなど、ここでは何の役にも立たない。
 そもそも、思い立ったらすぐ行動に移してしまう金持ち医者の道楽息子が、サバイバル・ゲームを、それもたった一人でオーストラリアの辺境地にまで出てきて行うこと自体、馬鹿げていた。
 これも、メラネシアン・キャットに魅入られたからだ、と香坂はぼやいていた。 ……美しく、残忍で、そして伝説としてしか知られていない女だけの種族。
 香坂にとって、発見はどうでも良かった。捜す、という行為に自分を納得させて遊びたかっただけなのだ。
 少し進んでは立ち止まり、不快そうに汗を拭った。
 今日はどのくらい歩いたのだろう。
 万歩計は10キロを示している。今日も朝から夕方近くまで歩きっぱなしだった。役に立たなくなった方位針を取り出すが、相変わらずくるくると回転している。 
 磁気が乱れてはや5日、この小さな島に上陸して既に7日が経っていた。
「くそったれ!」
 こんな所で死んでたまるか。
 乱暴にかき分ける香坂の目前が少し開けた。
 慌てて駆け寄るが、岩場側の青いテントを見てがっくりと肩を落とした。もう溜息しか洩れない。
 今日も駄目だったのか……
 首をうなだれ、岩陰にゆっくりと腰を降ろすと背負ったザックから腕を抜いた。 魔境だよ……香坂は呟いた。
 喉が渇きを訴え、水筒を手にするが、昨日のスコールで得た水は既に飲み干していた。
 腹いせに傍らの岩にめがけて叩きつけた。ステンレス製の水筒は甲高い悲鳴をあげて岩の上を跳ねた。
 その時、突然近くの繁みで野鳥のけたたましい鳴き声と共に、羽音が響きわたった。
 今の金属音でびっくりしたわけではない様子だった。
 何かがいる!
 ただならぬ気配に香坂は、腰のサバイバル・ナイフに手を回して身構えた。
「マジでいるのかよ、ヤツらはここに……」
 葉と葉がかさかさと擦れ合う音に極度の緊張を覚えた。
 だが、それが野うさぎと知って一気に力が抜けた。
 このところ、ろくに食事をしていない。疲れきっている今襲われたのでは、対応のしようがない。かと言って本当にここに彼女らがいるという確信はない。だが、逃げだそうにも身動きがとれない状況では八方塞がりもいいところだった。
 とにかく…作りかけの地図に手を加えようと腰をあげた。
 この地図と言うものも余り役に立つとは思えなかった。気のせいか、昨日と今日では距離が違うようなのだ。
 テントに入ろうとしたその時、後ろで風を切る音がした。
 ひゅん! そして続けざまに2、3回、事の重大さに総毛立った香坂の太股にそれは集中した。
 自分の身に何が起こったのか正確に把握するのに数瞬の時間を要した。
事態は急変していた。毒の仕込まれた黒光りする矢をただ呆然と見おろしている間に、今度は両方の肩口を貫かれた。
 しまった、やっぱり、奴らは……いたんだ。
 後悔先に立たず、やはり香坂の直感が警告した通り、何者かがいたのだ。
 今となってはそれが何者かは知る由もなかった。ただ、香坂は苦痛に顔をゆがませ、うつ伏せにつっぷした。
 香坂は、遠退く意識の中で死んでたまるかと呟いていたが、それもしばらくの間だけで、近づく闇の淵へと静かに,そして確実に引きずり込まれて行った。

     U 

 明け方が近づいていた。
 辺りは白いもやが立ちこめ、植物は湿気を帯びて、鮮やかな緑彩色を演出している。
 野鳥達のモーニングコールまでには、まだ時間があった。
 この静寂な薄明りの中、一つの影が動いていた。自分の背丈以上ある雑草に、少々歩き辛そうだった。
 肩にはまだ目覚めきらない、小型のインコをお供に連れた小柄な少女の姿がそこにあった。いや、本質的には<美しい女性>となるのだろうが、見かけで判断できる次元の生き物ではなかった。
 栗色の長髪はきれいに編んで頭の周りに巻き付けている。
 彼女、エコナは誰よりも早く泉へ水浴に行くのが大好きだった。まだ眠りから覚めていない動物達にいたずらをするのが楽しみの、動物の側から見れば小悪魔的な存在の女の子だった。今日も陽の出る一時間も前から起き出して、友達のミュウシャを無理やり引き連れてきた。
 ミュウシャとしては早起きよりも朝寝の方が嬉しいようである。
 雑草によってキトンの様にまとった薄布の裾がはだけ、すらりと伸びた双脚があらわになっているが、ここにはそれを好奇の目で見つめる男性はいない。男の姿を目にしなくなって、丸2百年の歳月が流れていた。
「もうすぐメルスナの岩場だけど、ミュウシャ、何か感じない?」
 彼女らミネーリアンは、好奇心の塊だった。
 ここ数年、一度も起こらなかった磁気嵐に、エコナは興味を示していた。だからこそ今日はわざわざ遠回りをしてまで、ミネーリアンでも迷子になり易いメルスナの岩場にまで足をのばす気になったのだ。
 メルスナの岩場とは、百年前に初めてこの島に5人の仲間と共に足を踏み入れた時に、仲間の長が人間界との間に結界を張った場所だった。この島で最も空間のねじれたところだけに、何か起こるとすればここだと確信していた。
 やっぱり何か変だわ…
 あと少しで岩場というところで、ふいに立ち止まった。
 間髪をおかず、額にある三つ目の瞳が蒼く冷たく光った。実際は水晶に似たコバルトブルーの貴石なのだが、成人女性のミネーリアンにとっては特別な意味を持つ装身具なのである。
「凄いわ。なんなのこれ、気持ちが悪い……」
未だにあどけなさの残った少女顔をしかめて吐き気をこらえた。ここ数百年も味わった事のない、背筋を凍り付かせるような”恐怖”がエコナを不安に陥れた。
「生き物、ね。かなり弱っているわ。いえ、死んでいるのかしら」
 今にも尽きようとしている生命に、どうして吐き気を催すほどの”恐怖”を感じさせられるのか。
 自分の無意識が伝える情報の意味を正確に把握できず、恐る恐る近づくことにした。青いテントが目に入ったが、それが何なのか考える気もなかった。エコナは、”恐怖”を感覚させる未知の生き物にのみ好奇心を抱いていたからである。
 この短絡思考がエコナの良いところであり、悪いところでもあった。
「どこにいるのかしら……」
 一歩踏み出したエコナの足に冷たいものが触れた。
ねっとりとしたその嫌悪感を伴う感触に驚いて、小さな悲鳴をあげた。
 少しだが凝固しかけた血溜まりがある。エコナはそれを踏みつけたのだ。
 びっくりしたミュウシャは羽根をばたつかせたが、それでも虚ろな目には違いなく、すぐに何事もなかったようにうとうとし始めた。
 エコナは尻もちをついて、しゃがみ込んでいた。
「とんでもないものをみつけちゃった……どうしたらいいの」
 途方に暮れた顔がそこにあった。
 眼前には、霧がぐっしょりと濡らした香坂の遺体、いや、そうなろうとしている肉体があった。
 エコナはそっとうつ伏せになった顔を覗き込んだ。
 土気色した死人顔だが、ほっそりとしていて彫りが深い。それに何より若い。きっと元気なら、なかなかの美男子だろう。
「元気なら……ね」
 そう呟きながら、男の身体に刺さった深紅の矢羽根を見ていた。
 明かに仲間の矢だ。矢先はすべて後ろから前へと貫ぬいている。
「確かに、人間の、男、よね。でも、何でこんなへんぴな所にきたのかしら」
 ここには人間が求めるような動植物もなく、何の変哲もない小島だったのでエコナが不思議に思うのも無理はない。
 香坂にとってみれば、それが重要だったのだが。
”恐怖”は消えていた。今度は久しぶりにみる男と言うものに好奇心をかき立てられていた。
 しかし問題は『人間』だということだ。
 ミネーリアンのエリアに勝手に足を踏み入れた、いわば侵略者だけに殺されても文句は言わせない。今でもそうやって全ての生き物の土地を奪い続ける相手である。自分達を絶滅に追い込んだ、憎んでも憎みきれない人類に同情する謂れはないのだ。
「このことを、パラミアス様はご存じなのかしら」
 深紅の矢羽根はパラミアスと呼ばれた女性のものではなかった。だが、パラミアスがこの矢の持ち主ならどうしただろうか。
 あの方なら卑怯な殺し方はしない。
 エコナは、とある、かすかな期待を胸に抱いた。
 香坂の方は絶息しかかっていた。首筋にそっと手を当てると、かすかで、しかも不規則に脈を打っていた。完全に心臓が停止するにはあと1時間もいらないだろう。
 助けるのなら悠長なことは言っていられない。
「せめて、あたしにパラミアス様の能力のひとかけらでもあれば……」
 なにしろ二百年ぶりである。エコナはだんだんと元気になった男の顔が見たくて仕方なくなってきていた。男と言うものを良く知らないエコナは、この機会に学びたかった。相手が人間でも構わない。
 助けるにはまず、ここにパラミアスを連れて来る必要があった。
「でも、どうやって」
 肩のミュウシャに目をやった。
 相変わらず目を閉じて、舟を漕いでいた。
「んもう、少しは私の役に立ってよ」
 エコナは少々乱暴にミュウシャを自分の人差し指に移した。ミュウシャはされるがままにのろのろと指に移った。
 その動作を見てひらめくものがあった。
「そうよ、これだわ。これでいきましょ」
 混迷から抜け出したエコナは、嬉しそうにミュウシャに口づけすると、そっと男の側の小枝へと移した。
「居眠りミュウシャちゃん、良い子だからしばらくここにいてね」
 そう言って頭を軽く撫でてやると、嬉々とした表情で飛び跳ねて、いま来た道を急いで戻り始めた。
 ミュウシャは居眠りの邪魔をする女の子がいなくなったことを嬉しく思ったのか、小さな口をめいいっぱい開けてあくびをし、片羽根づつ伸びをすると、もう一眠りしようとくちばしを背中に埋めたのだった。


 半時間も過ぎぬうちに、今度はそこにパラミアスが立ち尽くしていた。
 エコナよりも長身で、柔らかな金髪がそよ風になびいている中で、早起きの小鳥達がさえずりを始めつつあった。
 その昔、ミネーリアン最高の戦術家で知略に長けた武神と詠われた人物でも、エコナの単純な画策を看破出来ないこともある。
 まさか自分の侍女に謀られたとは考えたくもなかったのだが。
 思えば、青いテントが何の気にもならなかった事が自分でも不思議だった。
「エコナはこのことを知ってたのね」
 パラミアスは困惑した表情を隠しきれずにいた。
 着衣はどうやら身分階級によって異なるらしい。エコナとは違った、カラシリスという綿布で作られた衣を乳房の下で止めてあり、剥き出しの胸を隠すようにギャザーを寄せた青い絹の帯を首に回し、両肩から垂らしている。
 胸元には《ペクトラル》と呼ばれる、宝石と黄金によって装飾された首飾りをつけていた。
 いずれにしても妖艶なボディラインを演出する衣装である。エコナがギリシャ庶民風ならパラミアスはエジプト王族風だった。
 そのパラミアスが今、事態の重大さを痛感していた。
 ミュウシャが居眠りしている小枝の下で、人間の男が転がっていた。
 発見する前と後ではまるで状況が違う。発見してしまえば、男の生命は我が手にある。生かすも殺すもパラミアスのほんの些細な決断で事が済むのだ。
「まあ……どうしましょう」
 エコナは素知らぬふりをして駆け寄り、不安げに傍らから覗き込んだ。
 パラミアスは恨みがましくエコナをにらみつけたかった。
 朝早くから侍女のエコナにたたき起こされ、行方不明のインコ捜しに嫌な顔ひとつせず手伝った報酬がこれでは割に合わなかった。
「エコナは戻っていなさい。後始末は私がちゃんとやっておきますから、決して口外しないように。いいわね」
「こ、殺しちゃうんですか」
 エコナは半ば涙声で期待通り事が運ばなかったことに不満を訴えるが、燐とした表情のパラミアスには逆らえなかった。なにしろエコナが仕える主人である。
「戻りなさい」
 パラミアスの厳しい命令口調に、エコナはミュウシャを連れて泣きながら森の中へと消えていった。
「私にどうしろと言うのか」
 パラミアスはエコナの後ろ姿を見つめながらこう呟いた。
 彼女が最も忌み嫌うのは無用の殺生だった。深紅の矢の持ち主のように何の気兼ねもなく、これから降り注ぐかも知れない危険を早期に摘み取ることはしたくない。もっとも、宿敵とも言える人間を助けることは、他の仲間との争いの火種となろう。
 それだけはなんとしても避けたい。
「ミネア……あの子ならやりかねないわね」
 生体反応はほとんどない。だが、この男からは得体の知れない気配を感じていた。”恐怖”の様な、懐かしいもののような、妙な感覚だった。
 その、潜在的な何かに訴える原因をパラミアスは知りたかった。
 パラミアスにも優柔不断の気がある。
 エコナを恨んでも仕方のないことだった。
 ミネアも、そしてエコナもこれを感じたのだろう。
 このまま死なせるには惜しい。
 問題は、助けた男との生活規範…掟である。
 ミネーリアンにとっての男は主か従の関係しかない。人間の様な宗教を持たないため、彼女らを支配するのは神でも仏でもない、力優位主義である。自分を負かしたものに対しては生涯服従する。そのために大昔の近隣諸国の男達には力自慢の証拠となっていたと言う遍歴を持つ。
 とはいえミネーリアンの強さは人間の比ではなかった。
 恐らく、助けることによってパラミアスに災難をもたらす事だろう。
 充分承知の上なのに、それを敢えて実行するには訳があった。
 それは百年ぶりの人間社会に対する「好奇心」である。
 ……少しは私達を認められる柔軟な人格者として成長しただろうか。
 今こうして人里離れた孤島で暮らしているのも、人間との誤解に伴う争いを避けるためであって対立するためではない。
 パラミアスは男の身体から全ての矢を抜き去った。
 このまま放置しては”見殺し”と言う名の殺人を犯すことになる。
 いっそ死体で発見した方が気が楽だった
 この男がもし、手に負えなくなれば簡単に処分する事はできる。だがそれだけは何としても避けたかった。それに、自分に従わせる趣味は毛頭ない。エコナだって侍女とはいえ、友達みたいなものである。
 なにしろ私達には数多くの表現手段があるのだから。
「私には、生活領域を侵されたからと言って人は殺せないわ」
 ためらっている時間はなかった。
 決心すると、パラミアスは男を上向けにまっすぐ寝かして腰のところで膝立ちした。そして両手をかざして何やら念じ始めた。
 エコナの求めていた能力が発揮されようとしていた。大量のエクトプラズムを放出するためパラミアスであっても危険な能力だった。呪術とは違った肉体を活性化させる振動波、と表現するしかない代物である。
 白煙が無数の帯となって指先から噴き出し、まるで虹のようにいろんな色を放ちながら男の身体を包み始めた。さながら絹を吐き出す蚕の繭だった。
 香坂の身体が煙の中に没したとき、繭の中で無数のスパークが起こった。
 まだ一分も経っていないにも関わらず、着ている衣装がまるで水浴びをしたかのように汗でびっしょりになっていた。
 パラミアスはなおも力を注ぎ込むと、繭の中で香坂の身体は宙に浮び始めた。そして髪を振り乱し、渾身の力を振り絞った。すると少し間をおいて、繭は白い発光体と化した。その光は輝きを増し、どんどん膨張し始めた。
 いつもと勝手が違っていた。
「こ、これは…信じられないわ。私の力に共鳴しているなんて」
 発光体を中心にして、風が渦を巻いていた。樹木はざわめき、鳥達の声は叫びに変わっていた。
 パラミアスは予想外の展開に目を見開いて、これから何が起ころうとしているのか必死で探っていた。すでに力を注ぐのをやめていた。それにも関わらず光量を増している。空間を歪ませたままの岩場で行ったのが直接の要因だったかどうかパラミアスにも理解できなかった。
「裂けるっ!」
 パラミアスの叫びと同時に、繭の中から幾本もの閃光が飛び出した。
 その直後、辺りを破裂音と共に熱風が包みこんだ。爆音と共にパラミアスの身体は吹き飛ばされた。
 エコナはこの時、島全体を揺るがす轟音をメルスナの岩場から聞いたのだった。
当然ながら矢の主であるミネアも聞きつけていたのは言うまでもなかった。


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