「クラヴィス様?」
オスカーに声をかけられクラヴィスは我に返る。
女の姿は既にない。
―― なるほど、な。
オスカーは女の姿に気づかなかったようである。
黙っているクラヴィスを怪訝そうに見ている。
それを無視して踵をかえし、宿舎への道を帰ろうとするクラヴィス。オスカーは慌てて言う。
「調査はしないのですか」
しかし面倒とばかりにちらりと視線を向けただけで、彼は無言で去っていく。
―― やれやれ。貧乏くじを引いたな。
普段のジュリアス様の苦労が偲ばれようというものだ。(←リュミエールの苦労も偲んでやってくれや)
明日から現地の調査をするよう研究員に指示をすると、さて、とオスカーは思案する。
「久々の聖地の外だ。今夜は街にでも行ってみるか」
貧乏くじの元を取り返すべく、彼はそうひとりごちた。
そして、今日も夜が更ける。
◇◆◇◆◇
冬の夜のはずのその場所に。
風は生暖かく吹いて、飄と鳴る。
そして、風に紛れて聞こえる細い声は女のもの。
貴方、貴方
ああ、花が咲いております。
帰って来て下さると約束した季節になりました。
わたくしは待っておりましょう。
そして、あの幼い日と同じように貴方とこの花を愛でましょう。
花が散るまでに帰って来て下さりますね。
花よ、花よ、散らずにいて
あの方が戻るまで散らずにいて。
花よおまえは幾年月、経てど変わらず美しい。
されど。
わたくしは年を経る毎老いてゆく。
だから。
散らずに、散らずに。
―― あの方の戻るまでこのまま
桜の元、女が立っている。
昼間とおなじ、しろの
小袖にしろの帯、しろの
打掛。
長くひく
垂髪は
濡羽色。
そこを訪れた、闇のごとく黒い影をまとった男。
お待ちしておりました。
女の言葉に、男は答える。
「…… 私はおまえの待つ者ではない」
でも、あの方の。御館様のおつかいでございましょうや?
そして、女は語り始めた。
今の言葉で言うなれば、政略結婚と。そう申すのでしょう。
生れた時から決められた許婚。
でも。
あの方のわたくしをみる瞳の深さに。
かけられる言葉の優しさに、惹かれずにはおれませんでした。
ただ、素直になるにはわたくしは、若すぎたのにございます。
結局わたくしは、あの方に、笑顔のひとつもみせぬま。
あの方はきっと、わたくしが望まぬままに輿入れするのだと、そう思っていたに違いありません。
祝言の日。
西の都で乱が起きたと知らせが入りました。
御館様は、兵を連れて赴いて。
花が咲くころには戻るからと。
そして幼い頃のように共に花を見ようと。
―― 桜の花の下でそなたの笑顔を見たい。
と、そう申されて。
ですから、帰っていらしたその時こそ。
わたくしはこれまでの意地も恥をも捨てて、あの方のもとへ駆け寄って。
そして笑ってお帰りなさいませ、と。
そう申し上げるつもりなのでございます。
なのに何故。
何故帰って来ては下さらない。
恨めしい哉、哀しい哉、愛しい哉
ああ、あの時、どうして一言なりと
貴方をお慕いしているとお伝えしなかったのでしょう。
あの方の苦しみを、痛みを、何故知ろうとはしなかったのでしょう。
あの方と共に、痛みを分かち合えたなら、苦しみを知っていたのなら
今、此れほどまでに後悔などせずに済んだものを ……
御館様、貴方はわたくしを厭われましたか。
それ故にかえってきてはくださらぬのか。
さあ、言うてくだされ。
あの方の文
なり、言伝なりと、お持ちくださったにございましょう?
「
言伝か。それならば、ある」
黒い影がひそやかに答えた。
「帰れぬわけができたのだ。
だが、おそらくその者は、帰りたかったはずだ。おまえのもとへ」
◇◆◇◆◇
惑星の史記は曰う。(以下現代語訳)
《都をいずる時、二千騎ばかりあった兵は次第に減り、いまは
僅かに七百騎にも足らず。
前には五千の敵、頼みの援軍は既に敵に寝返り後方を固める。
進退ここにきわまれり。
将、
軍勢共に向って言う。
『当家の滅亡が近いと知りながら、名を重んじ日頃の恩を忘れず、これまで我に従いし皆の志、感謝の言葉もない。
その思いに
報いたくは思えども、我が
命運既に尽きたれば。
何を以って
報いるべきか。
今は我、
方々が
為に腹、
掻捌いて、生前の
芳恩を死後に報いたい。
我、
不肖の身なれども、一門の名を継ぐ者なれば、
敵共我が首にいささかの
恩賞をかけしと思われる。
この首を持ちて敵に下るべし。さすれば
方々の命まではとるまいて』
というやいなや。腹
掻切って果てつ。
忠臣のひとりは
是を見て、
泪こぼれるを耐えながら言う
『我こそ
先自害して、
冥途の
案内したく存じましたのに。
御館様、
暫お待ちくだされ。冥途でとて我が忠誠、変わらず。
死出の
御山、お
共つかまつります』
そして、
主の腹に突き立てられた刀を取ると、
己が腹に突き立て、主の前に臥して
事切れた。
これを始めにその場にいた者たち、我も、我もと後を追う。
その数、
都合、
四百三十二人。
血は
其身を
浸して
恰黄河の流れの如くなり。
死骸はあたりに
充満して、
凄絶を極む。》
◇◆◇◆◇
うそです。
うそです。
あの方はお帰りになります。それをわたくしはお待ちもう押し上げるのです。
散り終わらぬ桜とともに、むかしのままの姿で。
女が叫ぶ。
「……嘘ではない。その
証に、
己が姿を見てみよ」
そう言うと、男は掌中の月のような水晶を女の前に差し出した。
そこに写る女の姿。
ひび割れた唇、深く刻まれた皺、逆立った髪。
悲鳴をあげて、女が思わず己が頭に手をやると
ぞろり。腐肉をつけたまま髪が抜け落ちた。
ぞろり、ぞろり、ぞろり。
手が、目が、頬が、髪が。
腐り異臭を放ち落ちてゆく。
体液とも血ともつかぬ液体が、地を覆う淡い花弁を紅に染めた。
風が、通り過ぎる。
細く聞こえた風音は悲鳴にも似て。
女は震えながらつぶやく。
ああ、わたくしは。
「思い出したか。おまえの待つ者はここへはこない。
先にゆくべき処へゆき、おまえを待っているに違いない」
女はゆらりとゆれて目の前に立つ黒い男を見上げた。
その姿は、元の美しい姿へと戻っている。
ただ、妖しいまでに紅かった唇だけが、青ざめて。
ああ、何故、忘れていたのでしょう。
わたくしは。
わたくしは信じたくなどなかったのです。
あの方が、わたくしをおいて身罷られたなどと。
如何に臣下の命を救うためと雖も。
ましてや、御館様を追って一族郎党果てたとは。
それでは何のために。
何のためにあの方は自らの命を絶つ罪を犯したのか。
口惜し、哀し、恨めし。
―― 恋し。
故に待ちました。幾年も。
けれど
―― 老うる我が身に耐え切れず
我もまたこの桜の前で自ら命を絶ちました。
なのに逝けずに。
いいえ。
ゆえに逝けずに。
あさましき鬼と成り果てたのですね。
―― おしえて下さいませ、闇を司る御方
あさましき鬼と成り果てた我が身にも、死の闇は安らかにありましょうや ――
男は短く答える。
「おそらくは」
ならば、あの方も。あの方も、安らかなのですね。
それならば。
わたくしの憂いは消えました。
女が血の通わぬ指をのばし、そっと男の左耳にある水晶にふれようとする。
「触れればどうなるか、わかっているのだな?」
にっこり。
女が笑った。
すこしだけ。貴方はあの方に、似ておりまする。
女の指が水晶にふれた瞬間。
さらり。
女の姿が崩れる。
さらり、さらり、さらり。
白い着物が、黒い髪が、皮が、肉が、そして骨が。銀にきらめく砂となって崩れてゆく。
崩れた砂は、舞い散る桜にさらわれて。
そして、
―― 跡形もなく、消えた。
◇◆◇◆◇
「いったい、これは、どうなっているんだ?」
一夜明けて、昨日の息の詰まるような気配は消え失せていた。
空が曇って居るとは云え、辺りは初冬の清々しく冷たい空気に満ちている。
そして怪奇の根元たる桜の花は既に散り去り、そこに在るのは如何にも寒々と葉を落し、冬の顔をした桜木であった。
しかしその枝の先には、来春になればまた咲き誇り、散っていくであろう証の冬芽をしっかりとつけて。
オスカーは目を丸くし、呆気に取られてそれを見ている。
「…… もう、長居は無用か」
踵を返しさっさと帰ろうとするクラヴィスを赤毛の青年は慌てて追いかけた。
「ちょ、ちょっとまってください。怪奇の原因も、解決した理由も解からず、このまま帰るわけには ――」
彼としてはジュリアスになんと報告していいのやら、といったところである。
そんなオスカーの内心を見透かしたように
「花の愁いは散ったと。そうジュリアスには言っておけ」
クラヴィスは言って微かに口の端をあげて笑みを零す。
花が涙の如く蕊を散らす夜はもう、来ない。
詳しいことは、王立研究員達が適当に理由をつけて報告するだろう。たとえ最終的に『原因不明』だったとしても。
なんだかんだと結局は何もする気がないんだ、この人は。やれやれ、と、肩を竦めるオスカーに、目の前の御仁が問題解決の張本人だと知れるはずもない。
ふと、彼はクラヴィスを今朝見たときから感じていた違和感の理由に気付き、何気なく尋ねてみる。
「クラヴィス様、左耳の耳飾りはどうしたのですか。確か、昨日は両耳に ―― 」
言われてクラヴィスも、歩みを止め左の耳朶にそっと指を持っていく。
そして、ふ、と溜息のような笑みを零すと
「…… 聞くだけ野暮というものだ。そなたとて、昨夜部屋には居なかったようだしな ……」
そう呟いた。
如何にも、一夜の契りの想い出に、女のもとに置いてきた、といわんばかり。
オスカーは目を点にして、その場に凍り付いてしまった。
―― ひ、ひとは見かけによらない。俺としたことが、甘かったようだ。侮り難しクラヴィス……(←意味不明)
ちょっとした混乱状態のオスカーを放って、クラヴィスは再び歩みをすすめた。
その視界を、白いものが横切る。
―― 道理で冷えると思えば。
それは雪であった。
見上げると、自ら吐く息で視界が白く霞む。
灰色の空から、ちらちらと、ちらちらと舞い落ちる白いもの。
六花、
雪華、
細雪
道の上にそれは落ちて、ぽつぽつと濡れた染みを作ってゆく
風に吹かれて華と見紛う程に美しく。
クラヴィスはその風景を黙ってみてつめ、そしてもう一度、左の耳にそっと触れた。
―― 冬来たりなば、春遠からじ、か。
散らぬ桜の無いように、解けない雪もまた在りはしない。
そして、この世に生まれいでで終には闇にいだかれぬ命もないのだ。
―― あさましき鬼と成り果てた我が身にも、死の闇は安らかにありましょうや
女の言葉が甦る。
永遠に咲きつづける桜はもうない。
咲きは散り、散っては咲く桜の花は、未来永劫子々孫々、受け継がれる繁栄の象徴だ。
そこに繰り替えす廻りの永遠はあれど、永久に変わることの無い「個の永遠」は存在しない。
その
理は、光と闇との司る生と死とにも通じるのだ。
故に、散りきらぬ桜は本来の廻りを狂わせ、その地に生命の生まれるを妨げつづけていたのだろう。
―― 安らかであろう、おそらくは。何も案じることはない。
彼は微かに笑むと、雪華舞う初冬の道をゆっくりと常春の聖地へと戻るべく歩いていった。
◇◆◇◆◇
後の
世人の
誰か言う
瑞穂の国の
真秀場の
谷間に咲きし
桜花
そのいろ
淡紅にあらず
真白き雪な照り返す 気高き
銀輝きて
透かすは
粋たる
紫水晶
淡く 淡く、
紫帯たる色と
―― 幕
◇ Web拍手をする ◇
◇ 「あとがき」へ ◇
◇ 「彩雲の本棚」へ ◇
◇ 「雪待月」目次へ ◇