藍い夜空に鳴く不如帰

3・そして再び夜空


世の中で『美意識』というものに一番縁遠い場所は国公立大学と、役所と、そして病院だと僕は思う。
補佐官殿から伝えられて訪れた病院も、どうやら例外ではなかったようだ。
忙しそうな看護婦さんを申し訳ないと思いつつも呼びとめ、病室の場所を聞く。
集中治療室のある棟。3階にそのひとはいるそうだ。
さて、と僕は足を止める。
ここまで来たはいいけれど、僕はその病室の中へ入って何をしようというのだろう?
今更といわれそうだけど、そう考えてしまったものは仕方がない。
真っ直ぐ病室へ行く気になれず僕は休憩所になっているフロアのいすに腰掛けた。
この病院の医師だろう。白衣を着た40代のくらいの男性が、まずそうに缶コーヒーを飲んでいた。
そんなにまずそうに飲むのなら、はじめから飲まなければいいのに。そう思うくらいに。
心の声が聞こえたわけではあるまいに、彼は僕に気づき、肩をすくめた。

《世の中で『美味いコーヒー』というものに一番縁遠い場所は国公立大学と、役所と、病院だね。》

そう言いながら。
僕は彼に心から賛同したので、そうですね、そう答えた。
次に彼が言葉を発した時、てっきり僕は世間話の続きかと思っていた。
でも、予想は裏切られた。何故なら、彼は僕の名を呼び、更にこう言ったからだ。

《来てくれたんだね。娘から話は聞いている。いや、聞かなくてもわかっただろうね。母さんに、よく似ている。》

そう言う彼こそ、茶色の髪、青い瞳が彼の娘そっくりであることに僕は気づいた。
彼が、彼女の父親であり、現在のあのひとの伴侶なのだ。

しばらくの沈黙は、僕らの気持ちを正確に代弁していた。
言うべき言葉が見つからない、という気持ちをだ。
しかし、いくらなんでもそのまま、というわけにはいかない。

《あのひとは、いつから ……病気だったのですか?》

彼は意外そうな顔をして言う。娘からは、何も聞いていないのかい、と。
何も聞いていないというよりは、僕が耳を貸さなかったといったほうが正しいかもしれない。僕は黙っていた。
彼は、煙草に火をつけようとして、思い出したように吸ってもいいか、と僕に訪ねる。
普段ならいやな顔をしたであろうその問いは、正直今の僕にはどうでもよかったのでどうぞ、と頷く。
すったマッチの燐の香り。白い煙がゆっくりと曲線を描いて天井へと昇っていった。
彼がゆっくりと煙草の煙を吐き出して、そして話し始めた。

君にどうしろというつもりはない。
ただ私は事実だけを話そう。そして、この後どうするか ―― 彼女に会うかどうか、会って何を話すかは、君の判断に任せるよ。
そう言って。

彼の話によると彼女が今の病に侵されていることを知ったのは、前の夫 ―― 僕の父親だ ―― をやはり同じ病気で失った直後だったらしい。
そして助かる見こみが少ないと感じた彼女は知り合いに自分の子供を預け、育ててくれるように頼んだのだ。
彼らは善人で、その頼みを喜んで引き受けたがひとつだけ条件を出した。
「子供には二度と会わないこと」という条件を。
それは悪意ではなかったろうと思う。「事実」だけを話すといったはずの彼はそう自分の感想を付け加えた。
君を自分たちの子として育てるための、必要条件だったのだと思う。そう言って。
彼女は子供を預けた後、霧の惑星を離れ療養する。
当初の予想とは逆に彼女の病気は改善へと向かった。
医者である氏と知り合ったのも、その頃のことだそうだ。
そして結婚、彼女は再び母親となる。血のつながらない女の子の、やさしい母親に。
幸せな生活の中の唯一の気がかりは、霧の惑星にいるはずの息子のこと。
意を決して会いにいった時、彼はすでにそこにはいなかったそうだ。
それはそうだろう。とっくの昔に僕はそこを出て(養父母に、不満があったわけじゃない。彼らの名誉のために、それだけは言っておく。)一人で生きることを選んでいたのだから。

あのひとは、今まで幸せだったでしょうか、と僕は彼に聞いた。
彼は頷き、自惚れていいならね、と付け加えた。
それならいい、と僕は思う。その時僕は、きっと泣きそうな顔をしながら微笑んでいたに違いない。
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白い部屋の中、彼女はそこに静かに横たわっていた。
血の気のないその顔。
本当に、これがあのひとなのだろうか?
彼女は歳をとったと ……そう思った。
記憶の中のあのときから、もう十年以上の時が流れている。だからそれは当たり前なのになぜか僕はそれを不思議に思った。
彼女は魔女のように歳をとらないとでも思っていたのだろうか?
静かに瞳が開いた。藍色の目が僕の目を見た。微かに唇が震えたのがわかったけど、それは言葉にはなりえなかったようだ。
僕は言った。

《僕は不幸ではなかったよ。たぶん、これからもね。》

彼女は微笑んだように見えた。いや、気のせいだったかもしれない。
何かをいいたげに再び唇が震えた。
彼女が言いたかった言葉は、ごめんなさいとか、ゆるして、の類の言葉ではなく、『ありがとう』だったのだろうと。 今でも僕はかってにそう思っている ――
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葬儀は静かに始まり、静かなまま終わりを告げた。
来客も去り、更なる静けさが訪れる。
僕は彼女の家のソファーに所在無く腰掛けていた。
そして彼女は僕の隣に黙って腰掛けていた。
着なれない喪服のネクタイはこれ以上ないくらいに(『鬱陶しい』という漢字と同じくらいに)鬱陶しい。
足元に、茶色い毛の犬が転がってあくびをしている。
親父さんはきっと、まだ遺影の前だろうと思う。
彼が病院で言ったように、きっとあのひとは幸せだったろう。決して彼の自惚れなどではなく。
僕が歩んできたこれまでの人生と同じくらい、幸せだったはずだ。
そう思った時、僕は気づいた。自分が泣いていることに。
あとから、あとからとめどなく涙が流れていた。
理由はわからなかった。
ふと、長い間、使う機会もなかったであろう喪服の樟脳の香りが濃くなったかと思った。
そして不意に身を包む彼女の腕とそのぬくもり。
それは僕があの霧の惑星で永遠に失ったと思っていたものに似ているような気がした。
懐かしさや、郷愁(ああ、そうか。この涙の理由は郷愁というものにに似ているに違いない。)や。
淡い悲しみに満ちた、でも切ないほどの美しさをもったそれを、僕はようやく自分の中に定義することができたようだった。
僕は唐突に思った。
ああ、世界はなんて美しいのだろう、と。
そして思い出す。あのひとの言葉を。
昔、霧の惑星で、あのひとは確かにこう故郷の詩をくちづさんでいた。

壯哉造化功(さかんなるかなぞうかのこう)   ――   世界はなんて美しいのかしら》

と。
保存されていなかったはずの記憶(メモリ)
ずっと、無意識か、意図的にか、その存在さえ忘れていた優しい思い出。
何一つ、失っていたわけではなかったのだ。
だた僕が、気づこうとさえしなかっただけで。

僕は窓の外を見る。その昼と夜の合間の光景を刻み付ける。
あふれいずる(ことば)に余分な修飾(かざり)は、必要なかった。
なぜなら、それらはありのままで十分だったからだ ――


枯藤老樹昏鴉 ―― 枯籐 老樹 昏鴉
小橋流水人家 ―― 小橋 流水 人家
古道西風痩馬 ―― 古道 西風 痩馬
夕陽西下 ―― 夕陽西に下りて
断腸人天涯在 ―― 断腸の人 天涯に在り
(「秋思」馬致遠)

枯れた藤 老いた樹 黄昏の鴉。
小さな橋 流れる水 人住まう家。
古くなった道 西の風 痩せた馬。
陽は西に 夜は青く
そして
そのひとは天涯の果てに


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