藍い夜空に鳴く不如帰

2・不如帰の鳴く理由


それからはたいしてそれまでと変わらない日々が続いた。
彼女がそれきり、僕の元へ教えを請いに来なくなったことを除いては。
なんてこった。
それだけの違いなのに、どうして僕はこんなに不機嫌にならなくっちゃいけないんだ?
まったく彼女には …… 調子を崩されっぱなしだ。
もう1人の候補に、やだぁ、ナニそんなに不機嫌なんですか〜?なんていう実に在り難い突込みを頂くほどに。
僕は窓辺に立って外をみやる。
普遍的に存在しうる美の象徴だろうと思える光景がそこに広がっている。
いつの講義のことだったろう。彼女が『伝統美』とはつまるところ『馴れと郷愁』だ、と見解を述べたのは。
その惑星の代々の美的感覚は大概にして知識なくしては他文化の人間に理解されない。
簡単に言えば、聖地の自然はほぼ全員がなんらかの美しさを感じるだろうけど、現任の夢の守護聖殿の服装を万人が美しいと評すかどうか、ということだ。
言っておくけど僕は彼のポリシーには好感をもっているよ。ただ、僕にまで着せようとするあの執念には参る。代々の夢の守護聖がああ言った服装をしていたんだろうか?だとしたら、その伝統美に僕は心からの敬意を表しよう。

《きっと美しいのは、懐かしいから。懐かしいのは、馴れと、郷愁 …… 》

教官室に用意されていたパソコンのキーボードをぱこぱこと叩きながら彼女はそう言い、不意に笑い出した。

《あら、やだ。感性の先生の教室にあるパソコンにしては、無機質な変換されるんですね。私のは、きっと一発変換できるわ。
あ、でも、『先生』としてなら、それらしいのかしら。》

覗き込んだディスプレイには、こうあった。
『教習』
と。
( …… 『知りたい』が『尻隊』に変換される、某HPオーナーの馬鹿パソコンよりは数段ましだと思うけどね。
そのパソコンも、ついにOSをバージョンUPされて、そのせいでメモリ不足に悩まされてるらしいけど。
まあ、僕には関係ないか。(註:ああ、関係ないとも。))
あの時僕は、どう返事をしただろう、と思い起こす。
ああ、そうだ、確かこう言った。

《残念ながら僕に世間一般にいわれる所の『郷愁』という概念が存在しない。存在しない概念には、言葉も、ましてやパソコンの文字変換も、必要ないからね ―― 》

そして僕は彼女からマウスを取り上げて新しいエディタを立ち上げると、変換第一候補に登録されてしまった『郷愁』を変換して『教習』『共修』『キョウシュウ』と変えていく。
上書きされて、『郷愁』はどんどん遠ざかっていった。
彼女は面白がって、対抗してエディタを立ち上げ、『郷愁』を浮かび上がらせる。

《こうしてみると、人間も同じようなものかしら?》
《何が?》
《上書き保存して、記憶を塗り替えて。少しずつ、遠くへ行くのね。だから、時々思い出してあげないと。》
《面白い説だけど、人間をコンピュータに喩える感性、ってけっこうシュールだね。》
《あらそうかしら。》

僕はちょっと不機嫌になった。
見ればパソコンの画面は、ふたりで立ち上げたエディタのウインドウだらけだ。

《けっこうに似てるわ。許容を超えると、すぐ「不機嫌になる(フリーズする)」ところなんて。ね。》

彼女はそう言って笑うと、アプリケーションの立ち上げ過ぎでフリーズしたパソコンを強制終了した。
そして、一瞬悲しげな顔をして言った。
《何かの理由で強制終了されてしまって保存されなかった「記憶(メモリ)」は、人間だったら、どうなってしまうのかしら。》

僕は、さあね、そう言って再びパソコンを立ち上げた ――


ずいぶんとわき道にそれたね。話を元に戻そう。
『馴れと郷愁』
暴言のようでいて、いいところを突いていると思う。
懐かしいと思う気持ちはそれだけで、その情景を美化してしまうからね。
本質的にそれが美しいかどうかは関係ない。それは見る人の中で『定義つけられた美』なんだ。
…… だからきっと、その郷愁を持たない僕は幸運だったと思うよ。心から。
変な先入観などなしに、世界を見ることができる。
そんな郷愁や懐かしさなんていうセンチメンタリズムのフィルムでラップした光景に惑わされずにすむわけだから。
ただ、僕の感性のみで、美しいものは美しい、そう感じることができるはずだから。
…… 恐らくね。
そう普段から考えていたにもかかわらず、どうして、あの夜僕はああも感情的にならなければならなかったのだろう?
強制終了されてしまった記憶。僕にはあの夏の日、すべての郷愁を断ち切ったはずなのに。
それはきっと、何も知らずに鳴く不如帰が、それでも悲しい声をしているのと同じ理由。
でも、僕は、そのことに気づかないフリをした。


花弁アイコン

さて、よく突然起きた、というような言い回しを使うけど冷静に考えれば物事というのは大概において突然起こるものだと気づいた。
毎日の習慣やその他経験から予測しうる物事以外は突然起きたと表現されるわけで、道で誰かとばったり会ったり、予想外の会議が開かれたりするといった些細なことも突然と表現するわけだ。未来予測ができない限り。(そして誰かさん達みたいに僕は水晶で占うなんて器用な真似はできない)だからあんまりこういう表現も相応しくないかもしれないけれど、それでも敢えて言うならばその日は突然に満ちていたと思う。
まず、第一の突然。
いつもは土の曜日に行われる定期審査がいきなり金の曜日に繰上げになった。
その時僕はその理由をしらなかった。
理由を知ったのは第二の突然の時だ。
定期審査のため謁見の間に向かう途中、僕は文字通り「同僚」のふたりに声をかけられた。
そう、突然に。
正殿に向かい彼らと歩きながらこんな話を僕は聞いたわけだ。
で、その話の内容が第三の突然。
彼女の母親が、すなわち彼らは知らないけれど物理的、若しくは生物学的、遺伝子工学的な意味では僕の母親でもあるひとが(すごい表現だね、我ながら。)危篤である、という話だった。
もっともそれは彼女にとって突然ではなかったらしい。
後から知ったことだったけれど、彼女が聖地に来る時点でそのひとは病の床にあったらしいから。
その第三の突然こそが、第一の突然である定期審査の繰り上げ、という事態を招いたということもその時知った。
要は、今日の午後から明日、明後日をかけて彼女は母のもとにかけつける。
そういった道筋だろう。
以外に融通がきくんだね。女王試験もさ。僕はどうでもいいことに感心していた。
その話を聞いた時の僕の感情について、とうてい表現する気力はないので省略させてもらう。
そうだね、強いて表現するなら『極彩色のたれぱんだ』みたいなものだ。
わからない?そりゃそうさ。なんたって、言ってる当人も意味不明なんだから。(想像を絶する、若しくは筆舌に尽くしがたいっていう解釈も在りだ)

そう言った背景は兎も角、定期審査はいつもどおり滞りなく進んだ。
ちなみにどちらの候補への指示が高かったか、ということや、僕がどちらを推したか、ということはどうでもいいことに部類するので言及はしないでおこう。
陛下が退室なさった後のことだ。

まだその場には9人の守護聖方、補佐官殿、僕ら3人の教官、そしてふたりの女王候補が揃っていた。
彼女は、急いでいるような表情で、補佐官殿にそれでは私はこれで。と挨拶をしている。
我侭をお聞き届け下さってありがとうございました、そんな声が聞こえる。
もし、彼女がこのまま退室し、見舞いのために聖地を去ったのなら、あるいはこの出来事は僕の人生に何ら関係もないことだった。
けれど、どうやら物事はそう簡単に進んではくれない。
彼女はきびすを返し、扉へ向かう、と思いきや真っ直ぐ僕のほうへ歩み寄ってきた。

《兄さん、一緒に来てくれませんか?》

この時、彼女はわざと僕のことを『兄さん』と呼んだのだと思う。
それは、周囲と僕自信に、僕に一緒に来てくれ、と彼女が請う理由を実に有効に、かつ明確に表示していた。
この機転の良さが彼女の最大の魅力であることはわかっているけれど流石にこの時は素直に感心はしていられなかった。
とりあえず、周囲の驚きと好奇の目は無視して僕は答える。

《理由がない。》
《いいえ、あるわ。》
《それは、君の理由であって僕のじゃない。》
《私の、では何故いけないの。》
《言わなければいけないほど君は愚かだった?》

そんな不毛なやり取りがしばらく続いたと思う。それに終止符を打ったのは

《君の感傷を押しつけられる筋合いはない。》

という僕の台詞だった。
彼女は、ふ、と表情を崩した。泣きそうな、という形容が近いかもしれない。

《そうね、その通りかもしれない。いいえ、その通りだわ。私の母は突然事故で逝ったから。》

もちろんそれは今死に瀕している女でなく、彼女の実の母親のことだろう。
彼女は続けた。

《若し、時間が与えられていたなら、もっと別の言葉を言えたのにって思う。その後悔 …… 感傷をあなたに押しつけてるのね。私が母に最後に言った言葉、なんだと思う?「だいきらい」よ。些細なことだったと思う。喧嘩の理由さえ忘れてしまったわ。なのに、その言葉だけ、覚えてるの。可笑しいでしょう。ケーキの箱がね、車に引かれてめちゃめちゃになってたわ。私の好きなイチゴのショートケーキだった。》

彼女はもう一度呟いた。

《可笑しいでしょう …… 》

言葉とは裏腹に、その様子は少しも可笑しそうではなかった。
彼女の使った『突然』という言葉は、まさに『突然』というに相応しい使われ方をしている。

《後悔を、するんじゃないかって思ったの。このままでは。
…… 貴方も、母さんも。
思い出を上書きするチャンスが残されているのに、それを使わないのは愚かなこと。って。でもそれは私の勝手な思いこみ。余計な真似して、ごめんなさい。》

扉が閉り、彼女の足音が遠ざかる。周囲の人達は相変わらず僕を見ている。
その視線にこめられた感情は様々だったけど、先ほどの審査で彼女を推した人間の方が非難めいている確率が高いように思われる。
この見解は正解だと思うね。理由は推して知るべし、だ。
すべての視線を無視して一礼し、その場を後にしようとした時、彼女と同じ名の補佐官殿が僕に歩み寄って言った

《行ってあげてくれませんか?彼女と、彼女のお母さんと、そして、もしかしたら貴方自身のために。
貴方はそれを、許されているのだから ―― 》

貴方はそれを許されている、その意味をすぐに僕は理解できなかった。
けれどすぐに気づく。
ああ、ここにいる彼等は、それさえも、許されていなかったのだ、ということを。
彼女(若しくは彼ら)もまた、僕に感傷を押しつけているのかもしれなかった。決して …… 悪い意味ではなく。
僕は腹を決める。
そうさ、勘違いしてはいけない。行く理由がなかったように、
行かない(行きたくない)理由だって僕にはないはずだ。(我ながら表現が素直じゃない。)
でも、本当に彼らが想像するような感傷は僕は持っていないつもりだったんだ。少なくともその時は。

『思い出を上書きするチャンスが残されているのに』

こう彼女はいった。けれど、上書きしなければいたたまれないような記憶は僕は所有していないと思ってる。
ただ新規作成されて困るほど容量不足でもないだろうから …… 。
肩を竦め、そして言った。彼らの感傷に乗せられるのも、まあ、一興だ。そのくらいのつもりだった。

《今日の午後から数日間、私用があるので聖地の外へ出ることを許して頂けますか?補佐官殿。》

僕の言葉に補佐官殿は、ええ、もちろん。そう言ってほっとしたように笑った。


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