藍い夜空に鳴く不如帰

1・きっかけの藍い夜空


捨是耶不捨非耶 人間恩愛斯心迷
哀愛不禁無情涙 復弄児面多苦思
焦心頻属良家救 欲去不忍別離悲
橋畔忽驚行人語 残月一声杜鵑鳴
(「棄児行」部分:雲居竜雄)

―― 残月の 藍い夜空に 鳴く不如帰(ほととぎす)
不如帰はなぜに鳴く。

(註:不如帰(ホトトギス)杜鵑(とけん)
鶯等の他の鳥の巣に卵を産み捨て、自ら子育てをしない)



《兄さん …… なんでしょう?》

それは僕が一生のうちでまさか足を踏み入れることがあるなんて思ってもいなかった聖地でのできごとだ。
目の前の少女が発した言葉は唐突過ぎて、馬鹿馬鹿しすぎて、しばらく声もでなかった。
そう、この、僕がね。
この馬鹿馬鹿しさから、どうやって逃れようか。そんなことを考えている僕とは対照的に、目の前の栗色の髪の少女は真剣だ。

『人間』というものに余り興味を示してこなかった僕にとっての珍しい例外が彼女だった。
僕が投げかける少々意地悪な質問に帰ってくる素早く的確なレスポンスや、まったく違うというのにどこか納得させられる彼女の持つ独特な考え方やものの見方、そして感性。
そんなものが積み重なって僕に興味を抱かせたんだろうね。
いつだったか、こんなことがあった。それは休日の森の湖で僕は彼女にこんな質問をしたときのこと。

《君は僕を美しいと思うかい?》


この質問に若し、『YES』という答えが返ってきたなら思いっきり彼女に、なんだ、君も他の人間と同じ事を言うんだな、つまらない。
そう言ってやるつもりだった。
ところが彼女はこう答えた。

《下らないことを聞くのね?
私は正直あなたを美しいと思っているけれど、それを言ったらどうせ機嫌を悪くするんでしょう?
あなたの機嫌をとるために『NO』と言える性格じゃ私はないし、だからといって正直に言ってあなたの嫌味を拝聴するのも癪。
だから、こう言うわ。
『下らない質問をしないで。あなたは他人がどう思っているかなんて気にする人ではないでしょう?』
って。
どう?満足いく答えかしら。》

散々なことを言っておいて、そして華のように笑うんだから、まったく、参るね。
僕が、期待以上の答えだよ。そう言うと更にこんな答えが返ってきた。

《花を美しいと思うのは何故かしら。詩人さん?
色が綺麗だから?形が綺麗だから?じゃあ、その『綺麗』という基準はどこからくるのかしら。
幼い頃から、気づかないうちに『美しい』ものの『定義』を教え込まれ洗脳されているのかしら。
私は、まだよくわからない。でも思うのは、生きてるものは、みんな綺麗。
毛虫だって、ミミズだって、私、綺麗だと思うわ。 …… 触れないけど。 …… まあ、 …… 兎に角。
さっき、あなたの顔の話をしたのだと思うかもしれないけれど、本当は私、あなたの手が一番美しいと思うの。》

毛虫と同類ね。やれやれと思いながら僕は自分の手を見る。
そういえば、明け方までやっていた創作の名残でつめに粘土が詰まっていたり、油性の絵の具が洗いきれないままこびりついていたり、更には時折扱う薬品のせいで結構荒れていたりもする。
これが?という風に僕は彼女を見やる。彼女は微笑んだ。

《芸術家さんの手だわ。とっても綺麗。
たとえば、日向ぼっこをしているおばあさんの笑い皺が彼女の人生を物語っていて美しいと思えるように、あなたはあなたの手が、一番あなたを物語っているように、そう思うわ。もっとも、あくまでも私の独断だけど。》

『あくまでも私の独断だけど』最後に付け加える一言が、僕に反論の隙を与えないためなんだから、彼女の頭の回転の速さには感心する。
兎に角、そんなわけで僕は彼女に興味を持ったわけだ。
そして、ふと夜空の星にいざなわれて彼女を訪ね、この夜の庭園で霧の惑星の話をした ……

遠い記憶
咲き乱れる白い秋桜
涼しい風の吹く午後
西に傾く太陽はいつしか(あお)い夜を連れてくる。
そして遠ざかる後姿、季節はずれの不如帰(ほととぎす)

執着という意味で、憎しみという感情は愛情に似ていると僕は思う。
だから僕は、あの(ひと)に対するこの感情が世間一般になんと呼ばれるものなのかを知らない。
知ろうとも思わない。
ただ知っているのは、時はどんな記憶も淡くぼやけた肖像にしてしまうということだけ。
そしていつしか人は ―― 思い出すことさえも忘れてしまうんだ。
だから
あの(ひと)が誰だったのかさえ、僕はもう忘れてしまった。
そのはずだった。

《その女性が、その後どうなったか、私知っているわ。》

彼女が不意に言った。
僕は目を見張った。

《彼女はね、その後ある男性と結婚するわ。その男性は昔奥さんを亡くしてね、ひとりの女の子を連れていたの。
彼女は女の子のお母さんになったの。
女の子は、はじめ戸惑ったけど …… いつしかお母さんが大好きになったわ。
そして、ある日、お母さんから聞くの。彼女には実は男の子の子供がいて。そう、だから、血はつながっていないけど。
彼は、その、女の子のお兄さん ……》

そして、彼女はさっきの言葉を言ったのさ。
『兄さんなんでしょう?』とね。
なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。
そもそも兄妹という『定義』っていったいなんだろう。少なくともこの場合血のつがなりでも、戸籍でもなさそうだ。
それじゃあ、何でもありだよな、そうか、だから人類皆兄弟か。こいつはいい。
なんて、いつのまにか僕はこの場にはほぼ関係ないことを考えている。
そんな僕の様子にはお構いなしに、彼女は続ける。

《『星藍』って …… 書くんだって。辺境の惑星の文字で。そう、今日のような星の明るい夜空のような色。
髪と瞳の色から取ったって聞いた。
本当の発音は違うんだけど、(註:中国読みだと『xing-lan(シンラン)』であるため)その霧の惑星では、今のように読むのね、きっと。
何度も何度も聞いていたわ。だから会ったとき、もしかしたらって思った。そして今、確信したの。
母さん、ずっとあなたのこと気にして ―― 》

《だから、どうだっていうんだい?》

彼女の言葉をさえぎるように僕はそう言った。これ以上聞きたくなかった、いや聞いていられなかったのかもしれない。
きっとその時僕は今迄にない冷たい声をしていたろうと思う。
彼女の『定義』はわかっていた。
同じ母親をもっているから、だから兄妹。
だけど、残念ながら、僕に母親はいない。存在しない。だから彼女の『定義』も成立しない。
彼女の説ははじめの条件付けからこけてるってわけさ。
僕はさらに続ける。
その時、こんなにも感情的になっている自分を軽蔑しながら、でもそれをとめることができなかった。

《言ったろう、僕は彼女が誰だったかさえ忘れたんだ。
今更そんな話は何の意味もないということに君は気づかないのかい?
そういや話し始めたのは僕のほうだったね。でもこれでわかったよ。いくら星が美しいからといってそれに誘われたことが間違いだったってね。》

そのまま、僕は彼女のほうを見ずに庭園を後にした。
だから、そのときの彼女がどんな表情をしていたか、どんな目で僕を見ていたかを知らない。
そして、そのときから僕は彼女に会っていなかった ――


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