月さえも眠る夜〜それぞれの夜明へ〜

14.みたび・クラヴィス



森の湖から、再び宮殿へ戻るというアンジェリークを送りながら、ふたりで猫の名前を決めようとした。
が、私にはどうもその能力が欠如しているようで、ようやく提案した案はアンジェリークに瞬時に却下された。
「クロって、そのまんまじゃないですか」
「…… だめか?」
「ええと、だめではないですけど ……」
だめなようだ。
だが、ということは五白(ウーパイ)もそのままの名だったわけだ。
あの方も、詩才はあってもネーミングセンスとやらは欠如していたのか。
「あっ、そうだ、いいこと思いついた。セイランにお願いしてみようっと。いいでしょ?」
あの気難しい芸術家に応じさせるほうが名を考えるよりよっぽど難しいように思えるが、まあどうでもいい。
しかし。
あの方と同じように、詩才はあってもネーミングセンスには期待できないかもしれぬが。
「詩才とは …… 遺伝するのか」
「さあ、育った環境の方が影響しそうですけど」
「そうか」
ならば、心配ないかもしれない。

そんな会話をするうち、我々は正殿へついた。
アンジェリークは自分の執務室へと小走りにかけてゆく。
忙しいところを、無理させてしまったか。
まあ、息抜きは必要だろう。
さて。
途中、すれ違ったオリヴィエに声をかけ、了承を得てから、私は、あの男の執務室へと向った。

◇◆◇◆◇

「…… つきあえ」
言った私に、この男は片方の眉をあげて言う。
「どこへ」
「夢の館の …… 五白のもとへ」
「何故だ」
「新しい猫を飼うことになった。挨拶に」
「だから、何故私がそれに付き合わねばならぬ!」

答えずに執務室を出る私を、それでも追ってくるところが律儀というか、真面目というか。
どちらにしろ、頭に馬鹿がつく。

馬車の中、交わす言葉もないかと思っていたが、ふと思い出し尋ねる。
「あの青年には …… 話したか?」
星の明るい夜の空の青と同じ名を持つ青年。
「いや」
短い答えに、さもあらん、とも考える。
「ずいぶん、嫌われているようだな」
「―― 関係ない。それに、話してどうなることでもない」
それは、そうなのだろう。
今更、愛別離苦という呪(しゅ)故に、母御が断腸の思いで手放したなどと、話したところでどうにかなるものでもあるまい。

―― 育った環境の方が影響しそうですけど

アンジェリークが言ったとおりなのなら。
あの青年の生み出すものが、人の心を打つというのなら。
それはそれで、用意された結末にたどり着いたということか。
「気になるのなら、そなたが話せばよい」
「…… 別に」
気になっているのは、この男とてきっと同じだ。
ただ、感傷的になっているだけとも言うのか。
そして、沈黙が降りた。

◇◆◇◆◇

馬車は夢の館に到着した。
勝手知ったる庭に向う。

ふと猫の鳴き声が耳によみがえる。
それは先ほどの子猫の声か。
いや、おそらくは、五白の声。
それは私がはじめて知った『死』だった。
この目の前の男もそうだったろう。
私は再び口を開く。
珍しく、饒舌になっている気がした。

「…… 死とは何かを、考えていた」

彼がこちらに視線を向けた。
その瞳は未だに、草原の空を閉じ込めたままの青。
「アンジェリークが言うには、死にゆく魂は闇に抱かれて、ただ安らかであるのだと。
だから、悲しみも後悔も、それは『死』ではなく、『生』なのだと」

彼女はそう言った。
あの虚無から帰ってきた後に。

「昔五白が死んだ時、私はメイファン殿に死とはなにか、闇の力とは何かを訪ねた。
あの方は、言った」

―― いつか、そなたは光の守護聖と共に、そなた自身の答えを得る時が来るであろう。

「私と、共に?」

何故、この男と共になのか。
それは、司る力ゆえに。

幼い頃に作った墓標は、とうになくなっている。
しかし、変わらずある空木が今もなお眠る五白を見守っている。
茂る空木の前に、我等は佇んだ。

「『生』と『死』と。対であるが故に、分けて考えることはできぬ …… そういう意味なのだと、今ならわかる。
死だけをみつめても、答えは見えぬ。生だけを見ても ―― 答えは見えぬ」

となりの男は、黙っている。
私が、これから何を話そうとしているのか、気づいているのだろう。
「先の女王が虚無から戻らなかったとき」
私は、目を閉じひとつ呼吸をする。
「後悔や自責や世界に対する憎しみや。いろいろな感情が渦巻いた。だが静かに闇の奥でその感情を昇華してゆけば」
手にした金色の桂花を、墓に手向けた。

「ただ ―― 失ったことに対する悲しみと、亡き者に対する愛情だけが残った」

その感情と向き合わなければ、その先に続く己の歩む道を闇の中に見失う。

「おまえは、どうだ」

エドゥーンの死後。
己を責めただろう。後悔も、しただろう。苦しみと痛みを感じて、もちろん悲しいとも思ったろう。
だが、それらに翻弄されて、その感情の源が愛情であることを。
いつしか人は忘れてしまう時がある。

目の前の男は、天を仰いだ。

その姿に重なって、幼い日の彼を見たような気がした。
五白と共に、この庭で遊んだ頃の。
五白をここに埋葬した日、彼はまっすぐにその瞳と同じ色の空を見上げていた。
その表情に、彼は悲しくないのだろうかと、不思議に思った記憶がある。
今思えば、答えは簡単なことだ。
悲しくなかったはずなどない。
ただ、この男は。
その感情の表現の仕方を、知らなかっただけなのだ。
そしてそれは恐らく今も変わっていない。

「…… 泣きたい時は、泣くものだ」

兄のような人がよく言っていた言葉を口にして、私は背を向けた。
五白の眠る空木の向いには、梨の古木。
今は錦に色づいて、来る冬に、そしてまた花咲く春に備えている。

悲しみさえも彩りに変えて。
壯哉造化功(さかんなるかなぞうかのこう) ―― 世界のなんと美しいことか。

私は風に散りゆく木の葉を目で追いながら、声も出さずに幾粒かの涙を流しているであろう背後の男のことを考えた。
互いに司る力の宿命ゆえに。
我等の間には決して超えられぬ溝がある。
だが。
やはり、その力ゆえに。
そしてこれまでに共に歩んだ長き時故に。
我等の間には、他の誰もかわりになれない、絆があるのもまた、事実なのだ。
もっとも。
溝に関してはもって生まれた根本的性格も大いに関連しているように思うが。
そう思うのは、この男とておそらくは同じであろう。
そう考えて、笑みが零れた。

「―― 何が可笑しい」

泣いている姿を笑われたと思ったか。
怒るであろうことを承知で、つい答えた。

「…… べつに」
「クラヴィスっ」

いつもの、会話だ。
そう、これでいい。

エドゥーンの声が、聞こえたような気がする。
―― あいつ、ああ見えて、おまえのこと頼りにしてんだぜ。
知っている。
迷惑な、話だが。
だが、これでいい。

「おまえは、おまえのままであればいいのだろう。この常なるもの無き世に、変わらぬものがひとつくらいあったほうが ―― 安心する」
「そなたは、少しぐらい変わったらどうだ」
「…… 知らんな」
「クラヴィスっ!!」

歩き出した私を追って、彼はなにやら説教をはじめる。
『変わらない』と言ったのは正しくない。
かわりつつあるのだ、お互いに。けれども、変わらぬ何かもまた確実に存在する。
そう、これでいい。
もう一度、心からそう思い、私は既に暮れた秋の夜の中、夢の館を後にした。



一言メモ:
猫の五白については「美幻の徒然漢詩日記 ―― 風花に五白という猫を弔いたる日のこと」と、「華雪洞」をご参照ください。
ルヴァが、ジュリアスは誰に心をさらけだせばいいかと言っていましたが。
やはり、この人しか。

「15.再び、ヴィクトール」へ続く
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