月さえも眠る夜〜それぞれの夜明へ〜

12.ルヴァ



常春といわれる聖地でも、わずかに移り変わる季節があります。
風の中に混じる金木犀の香りと、窓の外の錦に染むる木々。
それらに時の移り変わりというものを感じながら、午前中に育成を頼みにきた女王候補のことを、私は考えていました。
これで、私にとっては三度目となる女王試験。
けれどもいくら経験を積んでも慣れないことというものはあるものなのだと感じます。
ましてやそれが、人の悲しみや苦しみにつながるのであればなお更に。

まるでそうなることが定めであるかのように。
どうして宇宙を統べる王が選ばれるたびに、行き場のない思いを抑えて苦しむ人々がいるのか。
これまでも、そしてこれからも、傍観者でしかない自分自身。
その私には、何一つできることがないのもまた、定めであるかのように感じてしまい思わずため息が零れました。

苦しみを乗り越えて、新たな夜明けを迎えた人たちを思えば。
過去のすべてが過ちなわけでもなく、苦しみだけなわけでもなく。
未来へのただの過程だと考えることも、もちろんできるのでしょう。
けれどもそう割り切れないでいるのは。
過去に一度だけ。
私が傍観者であることを許してくれなかった ―― 彼女のことが気にかかっているのかもしれません。
ひとりこの地を去ったあの人は。
あのあでやかな、それでいて愁いを帯びた満開の桜のようなあの人は、今ごろどうしているのでしょうか。

橙色に染まった桜の葉。
それが散って訪れるであろう冬。
秋はどうやら、人を少しもの悲しくするようです。

だから、ここは、考え方を変えてみればいい。
冬がきたその時に既に、その桜の木の中では、翌年の春の花の芽がひっそりと生まれる準備をしている。
そう考えれば。
そう考えれば少しだけ、心が軽くなったような気がしました。
気休めに過ぎなくても。
それでも。
―― 彼女は自らの人生をしっかりと歩んでいけるだけの強さも持った人だと。
私はきっと信じているのです。

そんなふうに思いをめぐらせながら眺めていた窓の外。
とある人物の姿を見かけて思わず私は彼に声をかけました。

「こんにちは。今日は少し風が強くて冷えますねー。ヴィクトール」

いきなり声をかけられて彼は驚いたようにこちらを振り返りました。
「あー、もし時間があるようなら、お茶でもいかがですかー」
彼は笑みを零し、それでも生真面目に一礼して言います。
「では、お言葉に甘えて」

◇◆◇◆◇

彼に声をかけたのはやはり、先ほど育成を頼んで行ったアンジェリークのことについて、彼に話しておいたほうが良いのかと思ったからなのは確かです。
けれども実際こうしてお茶を飲み始めてしまうと、何をどう話したところで、余計なお世話でしかないように思えて。
ましてや、私が口をはさむようなことではないという意識が先に立って、結局いつものように世間話をしている自分がいます。

「こうしてルヴァ様とお茶を飲むのも、これが最後かもしれませんな」
彼もまた。
試験が終わりを告げようとしていることを十分に意識しているようでした。
「あなたにとっても、この試験が意味あるものとなってくれれば、いいと思いますよ」
「意味、ですか」
「ええ。多くの出会いと、経験が」
彼はふと表情を曇らせました。

「難しいものです。答えがすぐ側にあるようでいて、結局は、自分の迷いを深くしたような気もしているのです。
まるで、先の見えない夜の道を手探りで歩いているような」

―― でも。明けない夜はないのです。
心のなかで、私はそう語り掛けました。

『明けない夜はない』
かつて、この言葉を聞いた時、私はそれは夜が明けるまで、じっとまっているべきだということなのだと、そう思いました。
けれど、違う方法があるということに、今ならば気付いています。
歩き出せばいい。日の昇る、方向へ向って。
もちろん、じーっと夜があけるのを待つのが向いている人もいるのでしょう。
でも、人によっては、歩き出してみるのもいいのではないかと感じるのです。
雨がなかなかやまなかったら、雲の切れる方向へ。春がすぎて、花が散ってしまったら ――

―― 今これから咲こうとする地へ?

いいえ。
そう、たとえば桜の花が散ったなら、『桜が終わった』と、そう人は言います。
けれども、桜にとって緑の葉を萌芽するそれからの季節こそが、逾(いよいよ)盛りとなるのだと。
そう、考えたなら。
違った道がそこに見えてくるのではないでしょうか。

口に出さなかったのは、彼の心の痛みのすべてを、私は恐らく理解していないであろうことを知っていたからです。
何も知らぬ私が、深く考えもせずに、ありふれた気休めを言ったりしてはいけない。
けれど、この試験についてなら、私は語る言葉を持っている気がしていました。

「実はですね、女王試験は、私にとって三回目なのです。ヴィクトール。
私はこれまで傍観者でしかありませんでした。
そして、そうであったことを今でも時折、後悔する時があるのです。
あの時私が何か行動を起こしていたなら、幸せになれた人たちが、いるのではないかと。
そう、思わずにはいられない日も、あるんです。
だから、今度こそ、そんな後悔をせずに済むようにするにはどうしたらいいかと考えているんですよ。
ああ、言葉にするのは難しいですね。
でも、これだけは。
過去は変えられませんが、それに連なる未来は、変えていくことができるのだと、信じています。
時には、心のもち方ひとつで」

私の反応に彼は少し慌てたようです。
先ほどの彼の言葉は、彼にとって、もしかしたら本音であるが故に、本来なら心の奥に閉まっておくべきものだったと、考えているようです。
「申し訳ありません。つい、愚痴のようなことを。どうやら、いろいろな方にご心配をおかけしているようです」
「色々、ですか?」
私以外の他にも、何かを彼に言ったのでしょうか。
その疑問を察したように彼は苦笑しました。

「ジュリアス様にも ―― 少し、意味あいは違いましたが」
「ジュリアスが、ですか」
「あの方は、もしかしたら過去に誰か ―― いえ、失礼しました。余計なことです」

唐突に。
懐かしい声が耳の奥によみがえりました。

『おい、ルヴァおまえ一番若いくせにじじくさいなー』
『そのターバンの中、禿げてんじゃねえのか?』
『あんまり、悩むなよ。なるようにしかならねえって』

―― ああ、そうでしたか。
王立派遣軍の将軍である彼の姿に、否応なくたたき起こされた記憶。
私は古い同僚の心中を思い苦しくなりました。
彼もまだ、苦しみを抱えていることを、今更ながらに認識したのです。
でも彼はそれを決して表に出そうとはしないのでしょう。
苦しみを抱えたまま。
彼は彼らしくあろうとするのだろうと感じました。

では、私は。
私が、私らしくあろうとするためには、どうすれば良いのでしょう。

この地を去っていった多くの人たちを次々に思い出しました。
迷った時に道を示してくれた人々。
いま、彼らに会うことができたなら。
私にどうせよと言ったでしょうか。

かつて、やまない雨はないと私を諭したメイファン、あなたなら?
乱雑なようでいて人の心の機微をとらえるのが得意だった、エドゥーン、あなたなら?
いつも皆を気にかけて場を和ませた、カティス、あなたなら?
そして、我が良き友、良き理解者。ダグラス、あなたなら?
―― はじめは妹のようだったのに、いつしか姉のように私たちを支えてくれたディア。あなたも。

これから私が言おうとしていることは余計なことなのかもしれません。
けれども、傍観者でしかないのなら、だからこそできることもあるのではないかとも思いました。
既にほとんど見えてしまっている結末。
行動を起こしても、起こさなくても、私のことです、きっと後悔をするのでしょう。
だからこそ、少しでも流れを変える可能性のある選択肢を私は選びたいと、そう考えたのです。

「私はこの言葉をあなたに言ってまた後で後悔をするのかもしれません。
そして、言わなかったらそれはそれで後悔をするのでしょう。
そう、伝えるべき言葉と言うのは、いつだって後悔と背中合わせなのかもしれませんよ、ヴィクトール」
彼が、真剣に私を見ていました。
私は、ひとつ深呼吸します。

「―― 今日頼まれた力を私が新宇宙へと注げば、おそらくアンジェリークが女王に決定するでしょう。
あなたは、その前に、彼女に伝えるべき言葉があるのではないですか?」

◇◆◇◆◇

「ずいぶんと、おせっかいを焼くんだな」
ヴィクトールが去ったあと、かけられた声がありました。
中庭に面した窓越しに、オスカーがこちらをのぞいています。
「聞いていたのですか、人の悪い。―― お茶、いかがですか?」
私は苦笑しながら、彼にお茶を勧めました。
そう、おせっかい。
けれどもそれが、私にできる唯一のこと。

席についたオスカーに私は言いました。
「―― あなたは、後悔はしていないようですね」
彼は不敵に笑いました。どうやらそれが私の問いへの答えのようです。
陛下も ―― ロザリアも、きっと同じなのでしょう。
そういう愛情の形もあるのだと、私は思いました。

「俺にはルヴァ。あんたは別のことで後悔しているんように見えるがな」
「―― 何を、ですか?」

「ディアを行かせてしまったことを」

その氷のような瞳が、鋭く私を見ていました。
私はゆっくりと首をふります。
「そんなことは、ありません」
これは、本心。
花を散り終えた桜。
それは、決して、桜の季節の終わりではありません。
夏に向かい、萌えいずる若葉。そのあざやかで柔らかな緑。
今聖地は秋ですが、こことは時の流れの違うどこかで。
彼女はそんな桜の若葉のように、しなやかに生きているに違いないのですから。

そしてさっき、古い友人たちを思い浮かべながら私は、何故かひとつの確信を得たのです。
もう、逝ってしまった人たちもいます。
けれど、どこかで今を生きている人たちもいる。

―― カティスが不思議なめぐりあわせの末に棠花殿と出会ったように。

それなら。
彼らは ―― ディアと、ダグラスは。
もう一度、どこかで出会っていても不思議ではないと。
いいえ、きっと、どこかで再会して。
ふたり、ときおりこの地にいる私たちのことを思い出してくれているのではと。
そう、感じるのです。

「今日は、風が強いな」
「ええ、そうですね。 ―― オスカー」
「なんだ?」
「ジュリアスに何か変わった様子はありませんでしたか?」
「―― いや」

短く答えた彼の表情は少しだけ硬く見えました。

そう、きっとジュリアスは誰にもその苦しみを見せたりはしない。
その誇り高さを尊敬しつつ、彼はその内側に抱える脆く危うい部分を。
―― いったい誰にさらけだせば良いのでしょう?

冷たい風が飄と吹いて。
木の葉を散らしてゆきました。


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