月さえも眠る夜〜それぞれの夜明へ〜

11.クラヴィス



木々が色づく秋。
歩くごとに、踏んだ落ち葉が軽快な音を立てる。
その音が聞こえたのだろう。
森の湖に足を踏み入れた私を見つけ、青い目の娘は大樹の上からこう語りかけた。

「アンジェリーク様と待ち合わせですか?」

かつてこの湖で。
私の司る闇がどこまでも透明であるかぎり恐れたりしないと言った盲目の娘がいたが。
この娘も、はじめから私を恐れることをしない。
たとえ私自身が変わったとしても、私の司る力が変わったわけではない。
あの幼い占い師などは明らかな畏怖をもって私に接していることを思えば、恐れる理由が私から消えたとも、考えにくいのだが。
だが、私はおそらくこの娘に、なぜ自分を恐れぬのかと問うことはあるまいと思う。
先日、アンジェリークの元へ訪ねてきた娘。
彼女の言葉は十分にその答えを語っていた。
彼女は、すでに見てしまったのだろう。
闇よりも遥かに暗く深い、悲しみの淵を。
そして、自らの意思でその淵を超え、今ここにいる。
その青い瞳の中に、記憶の中の青空を閉じ込めたまま。

その青い目が一瞬、他の人間のものと重なった。
紺碧の空の、蒼。
この女王試験が始まる前にひとり、古い仲間の名を呟いていた男。
光の中に在るが故に、己に潜む闇を払う術を知らぬ男。
かつての私のように、すべてを闇に鎮め琥珀の如く封じ込めるような真似もできるまい。
―― あれはまだ、淵を越えられずにいるのか。

私は浮かび来る雑念をおいやり、まずは女王候補のいる木の根元まで歩み寄った。
今日ここへ来たのは、あの男のことを考えるためなどではない。

「……いや、今日はおまえを探していた」
射るような青い瞳の娘に私は言った。
しかし、どうしてこうも女王候補というのもはこの木に登りたがるのか……理解に苦しむ。
「礼を言いたいと……思っていたのだ」
柄にもなく。

何の礼なのか。
言わずとも理解したのだろう。
「お礼だなんて。私自身、ずっと気になっていたことでした。それに、お二人の姿をみてて、勇気も貰いました」
「『英雄』に……言うべきことは言ったか」
娘は首をかしげてから笑んだ。
「半分だけは。残り半分はあとは私の気持ちの問題なんです。アンジェリーク様と話した時のようには行かない。だって」

自分は女王候補だから、とそう続くのだろう。
試験はあと数日で。早ければ明日にでも結果が出る。
だがそれは私にとってもあまり好ましい結末ではない。
ただの感傷か。余計なお世話、とも言うか。
だが。

「なりたくなくば、女王になどなる必要もあるまい」

結局は口にしていた。
この宇宙と、もうひとつの宇宙の未来を思うのなら、口にすべきでないことはわかっている。
かつては我等が生きた宇宙であり、それを飲み込んだ虚無であり、そこから新たに生まれた宇宙である場所。
それを命がけで守った盲目の女王や ―― その他の多くの人々の想いを受け止めるのであれば。
なるべき娘が女王となって、あの幼い宇宙を繁栄に導いていくのがおそらくは正しいのであろう。
だが正しいことが必ずしも人々を幸せにするわけではないことも、私は知っている。 そして逝った彼らは、この娘やもうひとりの女王候補が贄となることを、決して望んではいまい。
そう。

『贄』だ。

聖地と言う美しい牢獄。
宇宙に捧げられた女王と守護聖と云う名の贄。
この神鳥の宇宙で、かえられぬ理(ことわり)だったとしても。
その理を。
何も新たな宇宙にまで引き継ぐ必要などない。

私の思いをよそに。
娘は意外なまでに愁いを含まぬ声で言った。

「やはり、二択なのでしょうか。
でも、これってそんな単純な選択肢で語ることができるものなのでしょうか。
宇宙という視点ではもちろんのこと、私の人生という、ごく狭い範囲での視点でも同じことです」
娘は大樹を見上げた。その葉はなかば色づきつつ、日の光を受けている。

「これまでに、いくつもの分岐点があったわけですよね。たかだか十七年しか生きていない私にさえ、です。それをひとつひとつ選択した結果、私は今ここにある。そのわかれ道を、この大樹の枝葉にたとえるなら、私の現在はどのあたりになるのでしょう」

太い大きな幹から、幾つもの枝分かれを繰り返し、その先端は飽くことなく天を目指す大樹。
先端の一つ一つを、違う選択をした人生の結末にたとうるのなら、人の生とはなんと限りなき可能性を秘めているというのか。

「自分でも、よくわからないんです。
でも、新しい宇宙は、新しい理で廻ってゆくのなら。
―― ならば、もっと違った形の答えもあるのではないかと。
そう思っているのです」

そう言った娘に半ばあきれながらも、この娘はもしかしたら、すべてを新しく作り変えてゆくのかもしれない。
そう思っている私がいた。
かつての女王たちが変えることの出来なかった理さえもかえて。

昨夜水晶球に映し出されたひとつの予兆がある。
それは、あきらかな ―― 凶兆。
だがこれを吉兆に変える力を、この娘は秘めている。
遥か古代に、神鳥の宇宙にかけられた永遠の呪い。
その呪いを解く力。
いずれ生まれくる、もうひとりの娘が秘めているであろう力とともに。
何かが、二つの宇宙の中で変わっていくのかもしれない。
―― いや、変わるのではなく、変えていくのか。

まだ見ぬ未来を、私が期待することがあるなどとは思っていなかったが。

「……望むように、するがよかろう」

日が傾き黄金色の西日が、湖面を金色に煌めかせていた。
「本来なら寮まで、送ってゆくべきところなのだが……」
実は、このあと本当にアンジェリークと待ち合わせをしているのだ。
お見通しとばかり、娘は首を振った。
「一人で、大丈夫です。それに、ほら。待ち人来たりて、ってかんじですね」
そう言うと彼女はひらりと木から飛び降りると、向うから来たアンジェリークにかるく挨拶をし、楽しそうに走って去っていった。

私を見つけ笑顔になったアンジェリークの黄金の髪に。
色づいた木の葉が舞い落ちて。
秋の日はどこかもの哀しくもあり、美しくもあった。


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