月さえも眠る夜〜それぞれの夜明へ〜

10.ヴィクトールとアンジェリーク



その日、学芸館の自室の窓を開けるとどこかでひらいた金木犀の香りが風と共に運ばれてきた。
常春と聞いていた聖地にも、四季はあるのだと変なところで感心をする。
アンジェリークと森の湖で偶然出会いわずかな会話を交わして以降、彼女がここを訪れることはなかった。

―― それは、義務感ですか?守れなかった部下の娘に対する

彼女に言われた言葉を反芻する。
そして、言った彼女の表情を思い起こす。
いつもまっすぐ前を見据え凛として立つ彼女が、そのときは今にも泣き出しそうに。
そう俺には見えた。
似合わないそんな表情をさせてしまったことに罪悪感を感じて。
―― すまない
そう言うのが精一杯だった。

彼女が、俺の過去を責めてあの言葉を言ったわけではないくらいわかっている。
強い物言いの裏側に隠れる、彼女の優しさ。
そう、心配をしてくれているのだ。苛立ちを感じている、と言ったほうが近いのかもしれないが。
『守れなかった部下に対する義務感か』と問われて、とっさに『違う』と答えることのできない、現在の俺のあり方を。
そんな自分が、精神の教官などと、お笑い種だ。

―― 己の内の弱さを認めよと、そういう意味なのではないでしょうか

ジュリアス様に問われて答えた己の言葉を思い出し、自嘲した。
偉そうに、何を言っているのか。
己の弱さに蓋をして。
外側の器だけをただ頑丈に囲いあげている、そんな自分が、よくもぬけぬけと。
けれども、その言葉にあの方は普段見ることのなかった驚くほど穏やかな表情を見せた。

―― 礼を言う。よい答えを得たと、そう思う。

あの方も心の奥に抱える何かがあったのかもしれない。
そして、俺の言葉が自分自身の実感の伴わぬ、虚ろなものであることくらい気づいていらしたのかもしれない。
だからこそ。
自責はするなと。
過去を見るだけの自責はするなと。
そう仰ったのだろう。

何故、己を責めるという行為を人はするのだろう。
悔いたところで過去を変えることなどできはしない。
『あの時ああすればよかったかもしれない』などと考えることは、そうする事によって訪れたかもしれない未来を夢想して、ただ己を慰めているだけに過ぎないのか。
きっと、そうなのだろう。
変えられるかもしれない現在からの未来を見ずに、変えられない過去からの未来である現在を夢見ている。
未来を見ずに過去を悔いることは己の苦しみを減らしたいがための欺瞞だ。
強くありたい。
誇り高くありたい。
この器のなかの、脆い己の心も含めて、俺は俺でありながら、過去を見据え、それからまっすぐと前をみつめたい。
その勇気を持ちたいと、そう思った。

その時、執務室の扉を叩く音が響いた。
入ってきたのはアンジェリークだった。

「今日は学習を ―― お願いします」

◇◆◇◆◇

当り障りのない会話の中で、私の学習は終了した。
長い間、ここへはきていなかったから。
育成の進み具合に比べて安定度が伸びず、仕方なく訪れたと、思われてるかもしれない、などと。
ずいぶんと自虐的な考えが浮かんだ。
彼の顔を見るのが少し怖くて、目を伏せたまま、私は言った。
声が、少し震えたかもしれない。

「機会が無くて、遅くなってしまったけれど。あの日のことを謝りたくて。
ごめんなさい。私 、父のことであなたに責任があるなんて思ったことなんかないです。
でも ―― 」

でも、あなたが自分を責めているのが辛くて、我慢できなくて。
私の言葉の前に、彼が言った。

「俺が、自分のせいだと思っているのが我慢ならなかった、そういうことだな」

はじかれたように、面を上げると、彼の真剣な眼差しが、こちらを見ていた。
ああ、この人は。
すごい。
心から、そう思った。
私の子供っぽい感情に任せた動言の奥の心などお見通しで。
あんな嫌なことを言った私を責めもせずこうして真剣に向き合ってくれている。
少し涙が出そうになって、でも私はきっと満面の笑顔を浮かべていたと思う。

「すごい」
「何が、だ?」
彼は戸惑ったようにそう聞き返してきた。
「ちゃんと、伝わってたんだと、そう思って。いえ、だから私が言ったことが正しかったとか、無かったことになるとか、そういうわけではないんですけど。もうひとつ、確認させてください。やっぱり、言葉でいわなければ伝わらないこともたくさんあるから」
そう、確認したい。
こっちは、きっと勘違いされたまま。そんな気がする。

「確認?」
「ええ。私に嫌われてると、思ってませんか?」
「なっ」

それは、あまりに単刀直入すぎたのか。
彼は珍しく、慌てふためいていた。
なんだか、可愛いと思えてしまうくらいに。

「図星、みたいですね」

私は思わず声を立てて笑った。
「ヴィクトール様のそんな表情、初めて見ました」
彼の目は、私のそんな表情も初めて見ると、そう言っていた。

「ああ、やっぱり勇気を出して確認してよかった。私、物言いがきついでしょう。
きっとそう思われてしまっているんだろうなあって、自覚はあったのですけど。
―― いつも、ありがとうございます。
感謝してます。心から」

ああ、よかった、やっとちゃんと伝えられた、と。
小さく呟いて、私は清々しい気持ちで深呼吸した。
そして、そのあと、もうひとつの気持ちが残っていることに気づいた。

まだ硬い花の蕾から花びらを剥ぐように、複雑に絡み合った想いをときほぐしてはみた。
悲しみを乗り越えて。
痛みを優しい懐かしさに変えて。
愚かな自分ゆえの過ちを謝罪をして。
だから見えてきた感謝を伝えて。
それでも、結局残ってしまった。

その中心にある、『恋』という気持ちが。

でも、これは ―― 言うべきではない。
彼は教官で。
そして私は女王候補で。しかも私は、あの宇宙のことをとても。
とても、大切に感じていて。
そんなことを考えた時、彼が空いている私の隣の席に腰掛けながら言った。

「少し、話をしよう。今まで想いが複雑に絡み合いすぎてきちんと話したことが、無かったように思う」

私は、頷いた。

◇◆◇◆◇

―― 少し、話をしよう。

俺はそう言いながら、空いている彼女の隣の席に腰掛けた。顔を見ればあまりに複雑な想いが絡み合いすぎて、彼女とはきちんと話をしたことがないように思えたからだ。
今まで禁忌であるかのように彼女には話せなかった軍でのコレットニ尉の話をした。
軍に配属され、彼と出会い、厳しいながらも充実した日々のこと。
そして、彼が何よりも家族を愛し、守りたいと望んでいたことを。

語りながら、何かが氷解していくような気がしていた。
己を責めて、後悔をして、過去を思い悩むことはあっても。
それらの感情に振り回されて、その根本にある友への愛情を俺は忘れてはいなかったか。
胸が塞がるような、この感情は、後悔でもなく、自責でもなく。
ああ、そうか。
これは

―― 悲しみだ。

ようやく俺は、ただの純粋な悲しみのうちに、彼らを悼むことができたのだと。
そう思った。
そしてこの悲しみに気づいてやっと、人は過去を懐かしい思い出に変えて、前へと歩いてゆけるのかもしれない。
目の前の少女が、それを教えてくれたのだ。

彼女も、また家での彼の話をした。
彼が、どれだけ優しい父親だったか。
彼女がどれだけ父を慕っていたか。
そこには、俺の知らない友人の姿があった。
この少女はとうの昔に、逝った人への変わらぬ愛情から生まれる悲しみを、懐かしさへと昇華する術を手に入れているようだ。
「私、父のような軍人さんになるのが、将来の夢でした」
友が愛した娘は、そう言って笑んだ。

「父は、何故『軍曹』と呼ばれていたのですか?」

「少し、長い話になるぞ」
彼女は物語をせがむ子供のような表情で身を乗り出し頷いた。

俺が生まれる少し前の話だから、三十数年前の話だ。
当時の王立軍は大きな軍規の改定を行い、現在の『王立派遣軍』となった。
そのきっかけとなったのが、辺境にある草原の惑星で起きた反乱だ。
いいや、原因は、その前に起きた事件と言うべきか。
惑星を女王直轄領とすべく派遣されていた当時の王立軍が些細な理由で起こした、起こしてはいけない事件。

―― 本来守るべき住民を、攻撃するという、在り得ざるべき事件。

かくして、草原の惑星で、王立軍に対する反乱が勃発する。
反乱軍(当時の王立軍からみればだが)の首謀者の名は、エドゥーン。
反乱軍と王立軍の対立は苛烈を極め、結果その惨状が聖地へ伝わるに至った。
そして、聖地から光の守護聖が直接の使者としてその地に赴き、調停を行ったことで乱は終結したと聞く。

そこまで話してふと思った。
今考えれば、それはジュリアス様ということか。
頭でわかっていたことだが、普段、何気なく言葉を交わしていた彼らが、自分とは違う時間を生きているのだということを、今更ながらに実感した。
目の前のこの少女も、女王となれば、当然 ――

「どう、したのですか?」
言われて、我に返り、俺は話を続けた。

首謀者だったエドゥーンは、民を逃がすために戦いつづけ、壮絶な最期を遂げたと、聞いている。
そして今、彼は『英雄』として、その名を知られているのだ。
民を守るため、命を賭して戦った英雄。
彼の信念は、新しく生まれた『王立派遣軍』のなかで、いきつづけている。
軍という名ではある。
しかし、戦争をするための軍隊ではない。
民の―― 彼らの生活と命を守るための、盾であり、剣なのだ。

そんな中で何故、当時の階級呼称である『軍曹』が、兵卒から下士官へと登ったたたき上げの軍人に対する、最上級の尊称となりうるのか。
なお、俺のような士官学校出の上官が、この尊称で呼ばれることは決してない。

もうひとりの、英雄がいたのだ。
当時の王立軍の中に。
彼女 ―― そう、女性だった ―― は王立軍軍曹という立場で在るが故に、軍の行いに疑問を感じた。
当然だろう、戦場を知らぬ上層部から、民を攻撃しろと命令されて疑問を持たないほうがどうかしている。
はじめのうちは内部から正そうと奮闘したらしい。
しかし、階級がすべてである軍の中で、下士官如きが何を言っても無駄であったろうことは想像に難くない。
結果。
彼女は軍を脱走、反乱軍へと身を投じたのだ。
当時の軍規では、脱走は死罪。
にもかかわらず、彼女を慕い従った兵が幾人もいたという。
最後には、彼らもやはり、戦いの中で草原の大地に散った。
けれどその心を受け継いで兵たちは、 判断力、行動力、人格、人望それらを兼ね備え、何よりも命を預けるに足るとみなした上官を敬意を込めて呼ぶのだ。
『軍曹』と。

「父は慕われていたのね」

アンジェリークは嬉しそうに、そして少し切なそうに呟いた。
彼女の言葉遣いが、教官に対するものでなくなっていることに気付いた。
今、彼女はコレット二尉の娘として話しているのか。それとも、ただの少女として話しているのか。

「そのふたり英雄の話、知ってるわ。父に聞いたもの。でも、少し、違うの。だって、私が聞いたそれは恋物語だった。
ふたりは、恋に落ちたの。
その『英雄』達が草原で命を落としたとき、彼らの間には生まれたばかりの娘がいたそうよ。
―― 死んだあとに英雄と呼ばれたって、残された側の悲しみは変わらないのにね」

うつむいて黙った彼女が、あまりに儚げに見えた。
手を伸ばし、その肩を ―― 引き寄せたい。
その時、彼女が再び口を開いた。
―― 俺は、何を、しようとしていた?

「あなたは、英雄と呼ばれるのが嫌いでしょう」
「あ、ああ。そうだな」
慌てて俺は答えた。
今自分がしようとしていたことを吹き飛ばすぐらいに、彼女の問いは単刀直入だった。だから俺も正直に答える。

「はっきり言って好きではない。英雄と呼ばれるべきなのは逝った彼らだと、そう思っている。だが、そうか、英雄と言われても悲しみは変わらない、か」
「英雄かどうか、決めるのは宇宙に生きる人々と歴史だわ。あなた個人じゃない。 だから、英雄だとか、そうでないとか。些細な呼び名でしかない、くだらないことを気にかけたりしないでいて。ね?」

そういい切って、先ほどの儚さなど、何処へ消えたのか。
俺の目をまっすぐ見て笑顔を見せた彼女の強さが、ひどく愛おしかった。
複雑に絡み合った感情を紐解いて、こうして彼女と語り合ってみれば、結局は強く認識せずにはいられないひとつの感情がある。
そう、彼女を愛しいと、そう感じている。
重なり合った瞳をそらせずにいる自分がいる。
だが、これは、この感情を表に出すわけにはいかない。
俺は彼女の父親と大差ない年齢だ。
同僚の少年などは、以前うっかり俺のことを父親のように思っていると口にして慌てていた。
違う。
年齢などと言う些細なことが問題なのではない、自分たちはもう軍人とその部下の娘ではないのだ。
教官と女王候補。
長い迷宮をやっと抜け出したその先で、深い夜の森に迷い込んだような、そんな心持ちがした。

重なった視線の端で、彼女の指が動いたのが見えた。
その指はそのまま俺の右頬に優しく触れて、線を描く。
傷跡を、なぞっているのだと気づいた。
とっさに、その手をにぎりしめる。

俺は、この手を突き放そうとしているのか。
それとも、引き寄せようとしているのか。

◇◆◇◆◇

言葉が途切れたのと同時に、瞳が重なって、私はそれを逸らせなくなった。
彼の方から、逸らしてはくれないだろうかと願いながら、このままみつめていて欲しいとも願っている。
切なさがあふれて、そして私は我知らず、彼の頬の傷を自分の指でなぞっていた。
その手を強くにぎりしめられて。
実際は、きっと一瞬だったのだろうけれど、長い、時間が流れたように感じた。
その手を。
彼は、突き放すためにつかんだのか。それとも、引き寄せるためか。

どちらでもあって欲しくない。

その考えは、正確ではない。
引き寄せて欲しいと、そう思った。けれど、そうしたらきっと私は自分の気持ちを止められなくなる。
だから、どうか、突き放して。
いいえ、どうか。
引き寄せて、抱きしめて ――

ふと、痛いほどに握られていた指が軽くなった。
彼が手を離したのだ。突き放しも、引き寄せもせずに。
私から目をそらしてうめくように言った。

「もう、夕方だ、寮に戻れ」

部屋を出ると、廊下に差し込む秋の西日が眩しかった。
それをひどく切ないと感じながら、あの時、彼は。
彼も、引き寄せるべきか突き放すべきかで悩んだのではないかと。
そんなことを思った。


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