月さえも眠る夜〜それぞれの夜明へ〜

7.再び、ジュリアス



日の曜日。既に日の暮れた聖地。
己の館へ帰る途中、私は無心といった風情で走るヴィクトールに出会った。
「鍛錬中か。熱心だな」
彼は足を止め、私に一礼した。
「ここでは教官ではありますが、私は根っからの軍人ですから。体を鍛えておかないとなにやら落ち着かなくていけません。それに雑念を追い払いたいと ―― いいえ、なんでもありません」

実直な男だと、そう思う。
彼のような人間ならば、友の。
エドゥーンの遺志を余さず継いで、その任務に身をおいていたのであろうに。
サラトーヴの悲劇の後、将軍職に昇進しながら彼は休職を願い出たと聞く。
目の前で、友を失うと言うこと。
それは。
どれほどの、痛みを。

私はまた己の感傷に引きずられている自分に気付いた。
だが、湧き上がる記憶をとめれられない。
目の前に草原と、赤い、血が広がる。

◇◆◇◆◇

きっかけをたどるなら、草原の惑星で百年ほど前に大国ツァルファールが滅びたところまでさかのぼる。
その後、その国を滅ぼした国も、時の流れに押され王制から共和制と姿を変えた。
惑星上の勢力図は大きく変わり、星は民の世論の元、女王直轄領となる道を進み始めたのだ。
しかし、幾つかの民族がそれに反対した。
急激な変化で、独自の文化を失うことを恐れたのであろう。
本来なら、それを無視して直轄領とすることなどありえない。
だが。
王立軍が惑星の民を攻撃するという、あり得べからざる事件がおきたのだ。
三十年程前の事件だ。
今思えば、軍の出すぎた動きは宇宙崩壊を目前にしていたサクリアの乱れも関係していたのか。
それは、わからない。
ただ、その事件をきっかけに草原の惑星で反乱が勃発した。
関係者リストにあった、反乱の首謀者の名前。
それは。
エドゥーン。

どう判断をすべきか私は迷った。
なぜなら、王立軍への反乱、それは女王陛下に対する反乱でもある。
許されることではない。
しかし、乱を起こした彼の真意に、私は気付いてしまった。
この平穏な聖地で。
時折視察といって惑星を訪れてはいても、いったいどれだけ、そこで息づく民の生活を私たちは実感しているのだろうか。
私と同じ、五歳で聖地へ来た友人。
彼は外の世界を見て、それを痛烈に感じたのではないか。
そして王立軍の横暴。
それを、おまえたちは知っているのかと。
聖地にいるおまえたちは知っているのかと。
彼は、そう伝えたいのではないか。
事実、聖地への軍部からの報告は真実を捻じ曲げられ、反乱のきっかけとなった王立軍の民への攻撃はなかったことにされていた。

とはいえ今彼をかばうような行動を取ったなら、それは私の私情と受け取られても仕方が無い。
実際、それが多くを占めているのであればなお更だ。
そんな私を救ったのは、オスカーだった。
迷って判断を下せずにいる私に、彼は女王陛下からの勅命の書を差し出した。
添付されている資料には。
調べ上げたのだろう、当時の軍上層部のこれまでの軍律違反、越権行為、報告内容の詐称などの ―― 彼らの権限を剥奪するに十分な ―― 情報が揃えられていた。

「ジュリアス様、あなたはこの草原の惑星の事件を俺に隠さず教えてくれました。 俺は、その信頼に足る人間でありたいのです」

調査には、こういう事の得意なルヴァとダグラスをはじめ、他の守護聖も協力してくれたらしい。
カティス、リュミエール、オリヴィエ、ランディ。
クラヴィスでさえも。

「陛下は、王立軍の軍規を改定せよと仰せです。
そして、その改定には反乱をおこした者の意図を汲むようにと。
草原へ行って下さい。この休戦命令を携えて、早く、彼の元へ!」

彼は真剣な眼差しで私を見た。
彼とても。
この惑星の出来事に心を痛めていないはずは無い。
憎く思うのは、再び故郷に戦乱を起こしたエドゥーンか。それとも王立軍か。両方か。
だが彼はその私情を押し込め、私の信頼に答えようとしてくれたのだ。
その強さを、私も持ちたいと思った。
「オスカー、礼を言う」
言うやいなや、私は執務室を飛び出した。
星の小道は、既にディアの手によって開かれている。
一瞬であるはずの移動はその時の私には長すぎるように感じた。
私は何を迷っていたのか。
己の感情に惑わされて、やるべきことを見失っていた。
なんと、愚かな。

しかし、結局。
私は、あの時。
―― 間に合わなかったのだ。




君不見青海頭 ―― 君見ずや 青海の頭(ほとり)
古来白骨無人収 ―― 古来 白骨 人の収ることなく
新鬼煩冤旧鬼哭 ―― 新鬼は煩冤し 旧鬼は哭す
天陰雨湿声啾啾 ―― 天陰(くも)り 雨湿るとき 声 啾啾(しゅうしゅう)たり

おまえたちには、見えているか、この青い草の海が。
かつての争いに散った死者の骨を拾うものもいない。
新たに戦いの犠牲となったものの魂の恨みと古い霊魂の嘆き。
その曇った天の向うから見えているのか。
雨に濡れて 啾啾と泣く彼らの悲しみを聞いているのか ――

(杜甫:「兵車行」。『鬼』とは、魂の意)

寥々と風に翻る草。何処までも続く青い草の海。
駆けつけた私の腕の中で横たわり、彼は既にか細い息だった。
反乱に加わった仲間と、彼らの家族を守るため。
彼は、ほんのわずかな手勢で王立軍の攻撃を迎え撃って。
これほどに傷ついて。
なのに彼は私に笑顔を向けた。

―― 本当はおめえに……介錯してくれってたのみてぇけど、そうもいかねえよなぁ。 その手、汚れさせっちまうわけには……

―― 介錯などと。今から、手当てを。

気休めにしかならぬ言葉だった。
施す術がないのは一見してわかる。
彼の弱まりつつある鼓動に合わせて、赤い血が私の白い衣と、青い草原とを染めていった。

―― 仮に生き残ったとしても、処刑は免れねえだろ。

―― そのようなことは……!

―― すまねえ……重い枷をあたえちまって。おめえに、甘えてたのかも知れねえ。 乱を起こせば、軍の実情が聖地に……おまえに伝わる。
絶対、来てくれるって、信じてた。
俺の死にざま、忘れんな。
…… 桃花(タオホア)と、娘を、頼む ……

そう、彼は知らなかった。
その時既に彼の妻も。

―― わかった、そなたは、何も案ずるな。

そういうのが、精一杯だった。
安心したように笑む友の、その瞳からは既に光が失われようとしていた。
しかし、彼はおそらくは円形に広がる草の地平線と、その上に浮かぶ空を心の中に描いていたに違いない。

―― 空が、青いなあ。まるで、おまえの目の色みたいだ……




それが、彼の最期の言葉だった。
既に物体となった友の体の重み。
その体は、まだ温もりがのこっているというのに。
こんな再会を望んでいたわけではなかった。
たとえ、ふたたび会えなかったとしても。
この宇宙のどこかで、いつまでも風のように自由にな彼があることを時折想像できればそれでよかった。
いつか、命あるものの定めで彼が闇に導かれ、その生涯を閉じるときが来ても、それは少なくとも、こんな形では ――

石で喉の奥を塞がれたような悲しみ。
それに反して私の目から涙が出ることは無かった。
声を出して泣いて、友の死を悼むことが出来たなら。
私は、この痛みをもっと早くに忘れることが出来たのだろうか?

◇◆◇◆◇

「ジュリアス様?」
ヴィクトールが怪訝な顔をして私を見ていた。
「すまぬ、つい」
「では私はこれで」
「―― ヴィクトール」
思わず、呼び止めていた。
「はい」
真摯な眼差しに、私はごまかさずに言った。
「ある方が言った。人は、泣きたい時には泣くべきなのだそうだ。だが、私はそういうふうには生きてはこなかった。
精神の教官であるそなたは、どう思う」

「―― 己の脆さを認めぬまま、いくら外側の器を鍛えたところで何にもなりません。 泣きたい時に泣く、それはあくまでも比喩で、己の内の弱さを認めよと、そういう意味なのではないでしょうか」

己の内の弱さ。
その言葉が、沁みた。
「そうか、礼を言う。よい答えを得たと、そう思う。…… 同じ方に言われた言葉がある。己を責めるなと。過去を見るだけの自責ならするべきではないと」
余計なことかも知れぬ。だが彼にも伝えておきたいと思った。
そう、あの方は私を責めなかった。
ただ、エドゥーンの死について、泣きたい時は泣くべきだと言い、己を責めるなとそう言った。
言われてそのとおりにできるほど人間は簡単ではない。
だが。
少なくとも私はその言葉に僅かなりとも救われたのだ。
そしてあの方のことだ。そんな私の心の内などお見通しだったに違いない。
だからこそ。
今なお傷を抱えているこの者に、それを伝えたいと思ったのだ。
この言葉は私から言われたところで何の役にも立ちはしないだろうが。
だが、彼は少しだけ表情を変えた。
僅かなりとも。
彼の心に伝わる何かがあったのか。
彼は黙って一礼するとその先の道へと走っていった。
闇に消えていくその姿を見送りながら、ヴィクトールの言葉を反芻した。

「己の内の弱さを認めよ、か。そのとおりかも知れぬな」

己の弱さを完全に克服することなど、人である身では叶わぬことなのかもしれない。
だからこそ、目を背けてはいけないのだ。
過ちにも、苦しみにも、悲しみにも、弱さにも。
だから。
あの日の痛みを忘れる必要もあるまい。
この痛みと共に。
私は、私であるまでだと思う。
二度と、同じ過ちを繰り返さぬために。

見上げた空は、満天の星。
しかし必ず夜は明けるのだ。
吹く風が、少し冷たかった。もうじき、あまり目立たぬ聖地の夏が終わる。
女王試験の終わりも、おそらくは、そう遠くはない ――


一言メモ:
途中の漢詩は、エドゥーンが語っているイメージ。
「青海」は実際は中国の西方、青海省東部のココノール湖を指す。

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