月さえも眠る夜〜それぞれの夜明へ〜

6.ティムカ



日の曜日。日が暮れかけた聖地。
外出から学芸院の私室へ戻ろうとした僕は、廊下に佇む彼女の姿を見つけました。
「アンジェリークではないですか。どうしたんですか?」
僕の声に振り向き、彼女はらしくなく目を伏せて言います。
「ヴィクトール様を探して ―― でも、いいです」
ヴィクトールさんの部屋の前を離れ、僕に会釈をすると出て行こうとする彼女。
その様子にただならぬものを感じて、おせっかいとは思いつつ僕は彼女を引き止めました。
「そう仰らずに。よかったら、僕の部屋へどうぞ。待つあいだ、お茶でも」

◇◆◇◆◇

所在なさげに椅子に座り、日の暮れた窓の外を見ながら彼女が呟きます。
「 私、彼に謝らなければいけないのに。でも、部屋にいなくて、すこしほっとしているというのも、本当で。
―― 情けない」
それは、僕に向けれれた言葉というよりは、独り言のようでした。
だから僕はそれには答えず、彼女の前に黙ってお茶をだします。
彼女が言った、『彼』とは、もちろんヴィクトールさんのことでしょう。
ヴィクトールさんは、父様と同い年で。
だからこの聖地で何かと面倒を見てくれる彼を、僕はこっそり父様のようにも思っていて。
独身の彼から見れば、そうと言ってしまえばショックを受けかねないので黙ってはいますが、 そんな僕の思い入れもあって、日頃からこのふたりのことを気にしていた、というのも事実です。
僕は多くのことを知っているわけではないけれど。
ヴィクトールさんがいつか話してくれたお友達の話。
それが彼女の―― 亡き ―― 父君であることは知っていました。
だから彼女を気にかけている様子のヴィクトールさん。
でも、気にかけてるのは多分、それだけじゃないんじゃないかと。
大きなお世話なのはわかっているのですが、そんなことも感じていたわけで。
……そしてもうひとつ。
これは、本当に僕の個人的な事情から。
彼女と一度話をしてみたいと、そう思ってもいました。
彼女の話を、聞いてみたかった。
ただ、それを聞くことは、おそらくは彼女の傷に触れることでもあって。
多分、それはかなわないだろうと、思っていたのですが。

「ご家族の写真ですか?この子、ティムカ様によく似てる……。弟さんですよね、私にも、弟がいます。三歳の」

机に飾ってある家族四人の写真を見て、彼女が言いました。
「あはっ、僕の弟と同い年です。弟のカムランも、三歳なんですよ」
「お父さん、お若いですね。―― 優しそう」
その言葉に、彼女の部屋に飾ってある二つの写真を僕は思い出していました。
彼女と、弟君と、母君が三人で写った写真。
そしてもうひとつ、父君の ―― おそらくは遺影。
四人の家族。二つの写真。
話が家族の話になったのも、何かの導きなのでしょうか。
僕は、四人そろって写った自分の家族の写真を手にとり、決心して続けます。

「父のような人物になりたいと、ずっとそう思ってこれまできました。父の後を継ぐにふさわしい人間になりたいと」

民を導き、慕われている父様。
立派な国王でありながら、僕やカムランにとっては優しくときに厳しい父親で。
いつか父様の片腕になれるような。
そんな人間になりたいと、そう思ってきたけれど。

「でも、それはいつかの話で、僕の中ではもっと先の話のように思っていたんです。
自分の年齢 ―― 幼さに甘えて、僕は事実から目を背けようとしていました。
なのに」
僕は目を閉じました。
「……父が病いに倒れて。その時が決して遠くないことを思い知らされました。
いつ、その時が来るかと思うと不安で。
何よりも」

―― 王位を継ぐことなどよりも。

「父を失うことが ―― 恐ろしくて」
震える声でその言葉を口にしながら、胸が塞がれる思いがしました。
わかっていながらも。
口にするのを恐れていた言葉。
見たくない現実。
この試験が終わり、僕が国に戻ったら、王位を譲ると言った父。
それでは、まるで。
まるで――。
僕の言外の想いを汲み取ってくれたのか。
言葉を紡げなくなった僕にかわり、彼女が語りだしました。

「私の父が逝ったのは、弟が母のお腹にいたときだから、私が十三歳。今のティムカ様と同い年だったんですね。私、本当に子供で。いまだって、子供だけど。
たくさん、たくさん後悔しました。
些細な日常の喧嘩、あのときのことまだ謝っていなかったとか。
あのときのこと、まだありがとうっていってなかったとか。
大好きだよって。愛してるって。
私、言葉でちゃんと伝えたことが無かった。
ただ。
時々、ちゃんと伝わってたのかもと思うときもあって。
都合の良い感傷かもしれないし、思い過ごしかもしれないけれど。
写真のなかでこちらを向いて笑んでいる父をみてると、そう思うんです。
大切なことは、言葉でなくてもちゃんと伝わっていたって」

そこまで言って、黙ってしまった彼女の頬に、一筋の涙が流れていて。
「す、すみません」
僕は慌ててハンカチを取り出し彼女に渡します。
この話をすれば、悲しい記憶を呼び覚ますに決まっていたのに。
「謝る必要なんてありません。私が、話し出したことだから」
僕の心配をよそに、彼女は思いのほか明るい表情で応じてくれました。
なんて芯の強くて、優しい人だろうと、そう思います。
実は、ほんのちょっぴり。
その涙を僕の指で拭いたかったと。
そう思ったことは、内緒です。

「ティムカ様は、まだ間に合う。だから。
いっぱい、いっぱい、伝えたいことを伝えてください。
言葉で伝えきれない想いはきっとあると思いますが、それはきっと言葉でなくても伝わるものなんです。一緒に在れる時間を、大切にしてください」

僕は自分の目のはしにも滲んだ涙を指でふき取りながら。
彼女の気持ちと言葉とが嬉しくて、自然と笑顔になるのを感じました。
「あなたは、父と同じことを言うんですね。
限りある命ある者である以上、誰とでもいつか別れは必ず訪れるものだと。
ですから、共に在れる今の瞬間を大切にするべきだと。
父は、そう言いました」
彼女は、はっとして僕の方を見て呟きます。
「別れは必ず訪れる……」
そして何ごとかを考えているようでした。
それはもしかしたら。
まだ生ある人たちのことを考えているのでないかと。
そう思いました。
さっき、ヴィクトールさんの部屋の前で佇んでいた彼女。
謝らなければいけないのに、そう言っていた彼女。
だから。
僕は故郷で、何千年も前に道を説いた賢者の教えを口にしました。

「『愛別離苦』というものなのかもしれません。
人として生きていく上で避けられぬ八つの苦しみの中の一つです」

人生にあって避けられぬ八つの苦しみ。
それは、
生老病死、四つの苦と、
愛別離苦(あいべつりく)
怨憎会苦(おんぞうえく)
求不得苦(ぐふとくく)
五陰盛苦(ごおんじょうく)
あわせて八つ。

僕はそれらの言葉の意味を彼女に伝えました。
『愛別離苦』それは、愛するものと別れなければいけない悲しみ。
生あるかぎり、誰かを愛するかぎり、決して避けられぬ苦しみ。
誰かを愛さなければ、愛するものと引き裂かれる苦しみは経験せずに済むかもしれません。
けれど。
だからといって誰も愛さずにいるのは、きっと本末転倒です。
少なくとも、神でも仏でもなく、人間である我が身には。

「―― ヴィクトールさんは、遅いですね」
彼女が顔を曇らせました。
それに気付かない振りをして、僕は続けます。

「アンジェリーク。
あなたが言ってくれたさっきの言葉、逆に考えればこういう解釈もできますよね?
お互いが生きているあいだなら、誤解や行き違いを解くことは、そんなに難しいことではないって。僕は、そう思うんです。
『愛別離苦』を……失うのを恐れて、誰も愛さないのも、きっと本末転倒なんですよ」

◇◆◇◆◇

だいぶ遅い時間になっても、ヴィクトールさんは戻ってきませんでした。
アンジェリークは残念そうな表情をしましたが、すぐに真っ直ぐに僕を見て微笑みました。
「もう、帰らなくては。お話を聞けてよかったと思います」
「それは、僕の台詞です。でも、あなたの中で何かの答えが見えたのなら。お役に立ててよかったです」
くすくすと、アンジェリークが声を出して笑いました。
こうして休日に、いつもの制服ではない服を着ていると、ともすれば彼女は少年のようにすら見える時があるのに、その笑顔は、紛うことない少女のものです。
「あの、何が、おかしいのでしょう?」
少し不安になって、僕は彼女に尋ねました。
「いえ、なんだか、お兄さんみたいだあって。今までは、弟みたいって、失礼を承知で思っていたのですけれど、それは私の間違いでした」
これにはちょっと照れてしまいました。
僕は、ここでは最年少で。
ずっと、至らない自分を情けなく思っていたから。
「あはっ、実は、ヴィクトールさんは父様と同い年なんです。なんだか、父様みたいに思えて。 僕が弟かお兄さんというのなら」
僕の言おうとしたことに気付いたのでしょう。
彼女は声をひそめて悪戯っぽく言いました。

「……お母さんはセイラン様ですか?」

彼女の言葉に僕たちは大笑いをして。
となりの部屋の詩人さんが不審に思って顔を出さぬうち、僕は学芸院を出て、彼女を寮まで送っていきました。
聖地の夜は涼しくて。
遠からず、終わる夏を名残惜しく感じました。


一言メモ:
『愛別離苦』に関し、本末転倒と言うティムカの解釈は実際の釈迦の教えからはずれている。
ただ、彼は僧になるわけではないので、これでいいかと。
苦しみをすべて解脱し、悟りを開いた人間は仏にはなれても現世の王にはなれないだろう。

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