日の曜日、万緑の中の森の湖。
私はいつもの似合わぬ制服などは着ずに、動きやすい格好で湖のほとりの大樹に登る。
この大樹の上から見上げる、空の色が好きだ。
そして、空の青さと太陽の光に隠された、天の星々に思いを馳せるのが好きだ。
青い空の向う、凛と冴えた宇宙と煌めく星を想う。
見えぬ月を想う。
時折筋を画くように、かと思えば、燐が一瞬の白い閃光を放つように。
星屑がこの大地に惹かれて、焔をあげて燃え尽きてゆく姿。
天に在る星と、地に落ち逝く星と。
誰の目にも触れない、彼等のその煌きを感じながら、私はただ、青空を眺めている。
長い、生命の営み。
幾人の先人達がこの空を眺めたんだろうか。
私はかつての星空を知らないけれど、今在る星達はかつて地上で生きた生命達を知っている。
そしてこの先。
阿由多、那由多の時の流れをずっと煌き巡りつつ、いつか流れ散っていくんだろう。
触れた大樹の幹の内側に流れる生命の水と。
私の体を流れるこの血脈の一滴がなる、その最も細かい粒子。
それは、星々を―― 大地を ―― 構成する要素といささかの違いも無い。
そのことは不思議なようでいて、実は少しも不思議でないのだと。
なんとなく思う自分があった。
女王試験が始まって、過ぎ去っていった慌しい毎日。
聖地にもなれて、刻々と増えていく新しい宇宙の星々の煌めきを、喜びと、不安を込めて見守る日々。
命が何処からきて、何処へゆくのか。
力強い螺旋の命の営みのたどり着く先、その目的。
その答えを、知りたいと思っていたけれど。
結局それは理屈で理解することではないのだと、私は学んだ気がする。
今はただ。
私を頼りにしてくれる宇宙の意思と、広がる幼い宇宙を、ただ愛おしいと思う。
守っていきたいと。
そう思う。
もうひとつ、私の中で変化があった。
ヴィクトール将軍。
今は、将軍ではなく教官だけれど。
父の友人であった彼とは、聖地に来る前からの顔見知りではあった。
けれどこの試験の間、私たちはこれまでよりも互いのことを知る機会に恵まれたと、そう感じている。
―― 良くも、悪くも。
「落ちて怪我をするなよ」
かけられた声、その方向に視線を移動する。
今まさに、心に思い描いていた人の姿。
どう反応していいのか、一瞬わからなくなってしまって、浮かべた笑顔はもしかしたら少し引きつっていたかもしれない。
「ご心配は無用です」
言って、私は木から飛び降りた。
騒、
騒、
騒騒騒……
風が、木々をゆらし通り過ぎてゆく。
そして、少し困ったような、彼の表情。
「そんなところで、いったい何をしていたんだ」
「星を、見ていました」
青空の下で発したこの言葉に、どんな反応を示すだろうかと。
少しだけ興味は持っていたけれど、あとの反応を見るかぎりではやめておけばよかったと、そう思った。
「星?―― そうか。だが、危険な真似は、極力するな」
もしかして、その瞬間、彼は父や昔の仲間のことを思い出したのかもしれない。
いや、私の姿を見て思い出さずにいろというほうがむちゃな話なのか。
彼の。
私を見つめる目の、優しさ。そして哀しさに彼自身は気づいていない。
そんな目で私を見ないで。義務感だけで気にかけているのなら。
心がざわざわと騒ぐ。まるで、風が通った森の木々の梢のように。
「いつも、気にかけていただいてありがとうございます。でも。
それは、義務感ですか?守れなかった部下の娘に対する」
―― それとも、私が女王候補だからか。
言った瞬間、後悔をした。
その言葉で、彼を傷つけてしまったと。
―― なんていうことを、私は。
後悔しても、言った言葉はもう取り戻せなかった。
私の言葉に一瞬だけみせた、悲しみの表情。
そして発せられた次の言葉は、いったいどういう意味で言ったものなのか。
「―― すまない」
精神の教官である彼の心。
頑丈に出来た器の中に、彼自身気づいていない弱さがある。
器が強ければ強いほど、彼はそれに気づかない。
何かの拍子に器が欠けたとき。
むきだしになった柔らかな心は、あまりに傷つきやすくもろい。
それが、きっと彼の生身の心。
けれどその心をすぐに頑強な器に隠して、父のような、穏やかな笑みを見せる。
「あまり、遅くならないうちに帰るんだぞ」
言って、彼は森の湖を去った。
ひとり残されて、私は想う。
―― なんていうことを、私は。
本当は、あんなことが言いたかったわけじゃない。
『守れなかった』だなんて。
そんなこと、思ってない。彼を責めたりなんかしていない。
彼を責めているのは彼自身。
『守れなかった』と。
彼は今なお、塞がったはずの体の傷から見えない血を流している。
その、いつまでも自分を責めている彼が。
彼に。
どうして、素直になれないのか。
気にかけてくれて嬉しかったと、でも私は大丈夫だと。
弟も母も元気でいると。
なぜそう素直に言えないのだろう。
幸せであって欲しいと願ってた。逝ってしまった人たちは、残された人たちを守りたかったにちがいないから。
残された人たちの幸せを望んでいたはずだから。
だから、過去にとらわれていつまでも前を見ないのは。
それは愚かなこと。
それを伝えたら、彼は少しでも前を見てくれるのでは、と気づいているのに。
―― どうして、素直になれないんだろう
多分それは、私の気持ちの問題。
彼が私を気にかけてくれるその理由が、『部下の娘』だから。
十以上も年の離れた私をきっと、彼はそれ以上になんか見てはくれないから。
彼を見ると思い出す父の面影に、心が痛んだのは初めのあいだだけ。
いつしか、その痛みは、別の理由であることに私は気付いて。
―― 軍人さんを好きになど絶対にならない
自分で言う台詞の、なんて滑稽なことだろう。
意思など関係のないところでおきる感情を恋というのではないのか。
好きにならないといって、ならずに済むのなら、誰も叶わぬ想いに苦しんだりしない。
忘れてしまおうと思って忘れられるのなら、誰も失った人を想い悲しんだりしない。
そして。
部下の娘ではなく、ひとりの女性として見てと言ったところで。
それで人の気持ちが動くわけもないだろう。
でもそれで、いいのかもしれない。
私がいるのは、主星の我が家ではなくて、この宇宙の聖地。
今や女王候補と教官のとなった私たちの間に、きっとそれ以上の感情なんて必要ない。
騒、
騒、
騒騒騒……
風がまた。
私の心を乱すように通り過ぎていった。
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