月さえも眠る夜〜それぞれの夜明へ〜

4.ヴィクトール



彼と出会ったのは、何年前のことだろう?
俺が王立仕官学校を卒業して、軍に配属されたとしだから、もう十年近い年月が流れていることになる。
軍隊というのは、どこでもきっと同じようなもので。
俺のように仕官学校出で、若くして幹部官になるような奴を、たたき上げの兵士は嫌うと相場が決まっていた。
しかし、それを放置しておけば重大な弊害が現れる。
指示に対する反応と、それに続く動き。そういった些細なところから、不信感はにじみ出て最終的に円滑に軍隊が動くのを妨げることになるのだ。
この不信感をどう消していくか。それが、あのときの俺のような新米尉官の、最初に乗り越えるべきお決まりの壁ということになる。
俺にとって、幸運だったのは軍でのひとつの出会いだった。
たたきあげの軍人の彼は、「軍曹」と呼ばれていた。
階級で言うなら、「軍曹」ではなく「一曹」が正しいのであろうが、部下たちから信頼得たもののみが呼ばれる「軍曹」というニックネームは、彼自身の人柄を強くあらわしていた。
なお「軍曹」というのは、三十年程前軍規が大幅に改定され、名称も『王立軍』から『王立派遣軍』に変更された際、廃止された階級呼称だ。
俺が生まれたか生まれないかの頃の話で、かつて本物の「軍曹」という階級をえたことのある人に、残念ながら俺は会った事がない。
軍規改定前はいろいろ軍部内に問題もあったと聞く。
当時を知る人が少ないのは、そんなことも関係しているのだろう。
話を戻そう。
彼――コレット一等陸曹は、上官であるが新米の俺を気にかけ多くのことを教えてくれた。
実戦での注意点、部下たちの心の見方、現在の隊の人間関係、果ては効率的な手の抜き方まで。
上官に手の抜き方を教えてどうするんだと、俺が言うと彼は、知っていれば手を抜いている兵士を見つけやすいでしょう、と豪快に笑った。

我々の関係は、階級でこそ上官と部下であったが、俺は彼を先輩として心から慕っていた。
時がたち、階級も変わり、俺は三等陸佐に、彼は既に准陸尉となっていた。けれども呼び名は、相変わらず親しみを込めた「軍曹」のまま。
特殊な理由でやはり幹部官となったセリオーンという名の友人も加わって、俺たちは厳しいながらもそれなりに幸せな、軍隊生活を営んでいた。
なかなかひとつ処に留まれない我々の中では珍しく、妻帯していた彼は、いつか嬉しそうに家族の写真を見せてくれたことがある。
深い青の瞳のやさしそうな女性。そして彼女の隣には、彼と同じ茶色の髪の少女。
その少女は、当時の我らの最高指揮官であった美しい女王補佐官殿と同じ名なのだと、彼は教えてくれた。
それをいとおしそうに、本当にいとおしいそうに眺める彼。

「実は今度、もうひとり生まれることになりまして」

でかい成りをして照れ隠しに頭を掻く彼に、我々は散々冷やかしの言葉をかけたものだ。
彼は言った。

「この大切な人達を守るためならば、私は命を投げ出すことも厭いません」

正直、そのときの俺にその気持ちが理解できたかといえば甚だ心もとない。
それまでに、心惹かれた女性がいなかったわけではない。けれど、自分の命をなげうって守りたいかと問われたら。
愛の言葉としてささやかれるだけなら、もしかしたら使い古された言葉なのかもしれない。
しかしどれだけの人間が、本当にそれを実行できるものなのだろうか。
そんな俺の気持ちを見透かしてかどうか、傍らにいたセリオーンが言った

「本当に守りたいのなら、生き延びなければ」

言葉すくななこの青年の心に秘めた想い。
それを知っていた俺はコレット准陸尉と一緒に柄にもなく恋の片棒を担ぐような真似をしたものだ。
後日、その恋が実ったと報告をもらい、今度はセリオーンを冷やかす。
次はおまえの番だとばかり、女性の好みを聞き出されたりもした。
当時、心を寄せる相手のいなかった自分。
待つもののいなかった自分。
だからこそ。

だからこそ、ひとり。
生き残った自分を、責めずにはいられない。今でも。

◇◆◇◆◇


俺が彼女に気づいた時、彼女は森の湖の大樹の枝の上で空を見つめていた。
いや、見据えていた、といった方がいいかもしれない。空ではなく、もっと、その先の遥かなものをまるで射るような、そんな瞳だ。もっとも、俺は詩人ではないので彼女のあの目を、上手く表現できるとは思ってはいないが。
落ちて怪我をするなよ、そう声をかけた俺に気付き、彼女はこちらをへ笑顔を向けた。しかし、やはり瞳だけは射るような、何処となく挑発的で攻撃的な、そんな表情をしている。
彼女の笑みはいつもそうだ。もっとも、俺に対してだけかもしれないが。
隣の部屋の同僚である詩人殿が言うにはあのアルカイックな表情が創作意欲を刺激するのだそうだ。
―― 俺には良く分からん。
彼女は「ご心配は無用です」そう言うと、ひらりと木の枝から舞い降りた。そう、舞い降りたという表現がきっと相応しいと思う。
洗いざらしのジーンズにシャツ。少年のようにすらりと伸びた手足。いつもの制服姿よりも、彼女らしい、そんな印象を与える。
()()騒騒騒(ざざざ)……

風が、彼女の髪を揺らして通り過ぎていった。

彼女をこうして目の前にして、俺は少し身構える。
彼女が苦手であるとか、嫌いであるとか、そういうわけがあるのではない。いや、俺の感情だけで言うのならその逆なのだが……まあ、それはともかく。
身構える理由は、自分が彼女に嫌われているであろう、という推測があるからだ。
あれはいつだっただろう。
女王試験の経過報告のため、宮殿に赴いたときのことだ。
中庭に、彼女と、そして炎の守護聖オスカー様の姿を見かけた。
あの守護聖様のことは、非常に尊敬もしているし、いちど剣の手合わせを願いたいとも思っているのだが、あの女性に対するマメさだけは、どうも俺には真似できん。いや、真似する必要もないのだろうが。
とにかくその時、彼らの会話が聞こえてきたのだ。

「お嬢ちゃん、俺に惚れると火傷するぜ」
とかなんとか、言っていたように思う。
そして、すれ違った俺の耳に、風が運んできた彼女の言葉。
「ご心配なく。私、軍人さんを好きになることはないですから」

――軍人さんを好きになることはない

彼女にそれを言わしめる、その理由をおそらく俺は知っている。少なくとも、からかい半分のくどき文句をかわすために言った一時的な言葉でないことを知っている。
だから。
だから、どこから見ても間違いなく軍人である俺に対して、彼女が好感を持っているとは思えない。
いや、彼女に「好きになることはない」と言わしめるのは、間違いなく彼女の父親の ―― コレット……二等陸尉の死に起因しているにちがいない。
(註:殉職のため、死亡時の階級より二階級特進しています)
もう痛むはずのない体の傷が、痛んだような気がした。
だから俺は、憎まれこそすれ好意をもたれるわけもないのだ。

それで、いいじゃないか。
俺はそう思う。
はじめは、彼の娘が、幸せでいるのかが、どう成長したのかが、気になっていただけだと思っていた。
けれど、時を経るごとに、彼女の色こそ違うが、父親に良く似た見据えるような、強い瞳。それにいつしか惹かれていた自分。

だが、女王候補と教官の間に、きっとそんな感情は必要ない。


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