「……寒くは、ないか……?」
夢の守護聖の館の庭における、梨の花見の宴はそろそろ「花より団子」というべきか、
「花より酒」状態へと変わりつつあった。
そんな中で、
酔いに熱くなった頬を風に冷まそうとひとり梨花の下で舞う花弁をみつめていたアンジェリークに
クラヴィスが声をかけたのである。
いいえ、と小さく首を振りつつも、彼女は既にひろげられている彼の腕の中へと身を預けた。
ふわりと、背から彼女をつつみこむように抱きしめ、彼はその頬にそっとくちづけする。
「……成る程な、少し……火照っているくらいかも知れぬ……」
くつくつと笑う声に、アンジェリークも零れる花のように微笑んだ。
月は満月に近かった。
その月に照らされて、白い花は朧に霞み、夜の闇に浮んで自ら淡い光りを発して輝いているようにさえみえる。
時折吹く風が花を散し、そしてすぐに散った花を再び天高く舞い上げた。

「綺麗……まるで、夢みたい……」
アンジェリークの呟きに
「……夢、などではない……」
そう囁くとクラヴィスは大切な人ををいだく腕に、微かに力を込めた。
そう、夢などではないのだ。
この闇の中で咲く白い花の美しさも、腕の中で微笑む人の温もりも……
そういえば、とふと思い出しクラヴィスは腕の中の人に尋ねる。
「随分遅くまで陛下―― いや、ロザリアと何やら相談していたようだな……。何か、あったのか……?」
この宴の席に、随分と遅れてきたふたりであった。
また何か ―― 以前アンジェリークの体と心をひどく傷つけたあの事件のような何かが ――
再びこの宇宙のどこかで起きようとしているのではないだろうか?
そんな不安がクラヴィスの心を過ぎる。
彼の不安を感じ取り、心配はいりません、というように自分の体にまわされている大きな手に自分の小さなそれを重ねる。
そして、執務時以外は敬称で呼ばれることを好まないロザリアのことを、律義に『陛下』から呼び捨てに直すその人が、なにやら意外で妙に微笑ましく、彼女はついくすくすと笑ってしまう。
「…… 何が可笑しい ……」
見えはしないが、おそらく相当不満そうな表情をしているであろうクラヴィスの顔を想像しつつ、アンジェリークは答えた。
「いいえ、なんでも。
心配はいりません。今日遅くなった理由は明日にでもきっとお話があると思います」
微笑みながらも最後に
「ですから、寝坊などせず、きちんと出席してくださいね」
と、付け加えることも忘れなかったのは、有能な補佐官たる所以である。
「―― 女王とは……、大変なのであろうな」
その突然の呟きはどのような想いで発せられたものなのであろうか。
その人の抱く痛み故に、彼女の心を過ぎる想いもある。
アンジェリークは微かに目を伏せて答えた。
「はい……。ですから私も、私のできうる限りロザリアを支えていこうって、そう決めているんです。
昔、約束したんです。どちらが女王になっても共にって。そう、まだ女王候補だった頃に。だから―― 」
「そうか……」
騒、
騒、
騒騒騒……
風が木々を渡る音が辺りに満ちる。
再び白い花が闇に舞った。
「この花を見ると色々と思い出す。……もう、随分と昔の話だ。そう、気が遠くなる程に、な」
クラヴィスが呟いた。
「幼い頃良くこの庭で……
あの光の守護聖と遊んだものだ。信じられるか?……ふ……自分でも信じられん」
アンジェリークはどうやら声も出せぬ程に驚いているらしい。
おそらくはもともと大きな翡翠色の瞳をさらに真ん丸に見開いているであろう彼女をそのままにクラヴィスは続ける。
「梨の花の精に……出会ったのもたしかこの庭だった、ように思う……」
騒、
騒、
騒騒騒……
再び、少し夜に冷えた風がふたりの傍らを通った。
花の精?と瞳で問う彼女にクラヴィスは微かに微笑む。
「そう、黒髪の、な。私が守護聖になったばかりの頃の事だ……。
その時私は彼女に問うた。『あなたは、あの玉座にひとり在って寂しくはないのか』と」
「!!」
「花の精は微かに笑みをみせるとたった一言答えた『寂しい』とな。幼かった私は泣きそうな心持ちになったことを覚えている……。
今思えば、あの時から私は……女王というものになる事が、その者の幸せに繋がるとは思えなくなっていたのだろう。
ただ、こうも思うのだ。当時「補佐官」なる者はいなかった。
だから今、おまえと……そしておまえの友人を見ていると、必ずしもそうではないのかも知れぬ、と、な」
しばしの間の後、それまで驚きに目を丸くする事はあっても黙って聞いていたアンジェリークが意を決したように尋ねる。
その口調は静かであった。
「―― 先の女王陛下は、どうだったのでしょうか?」
ある程度、その問いを覚悟していたのだろう。
クラヴィスは瞳を閉じ、再び開くと天に朧な月を見上げた。
「幸せだったと……それを忘れるなと……あれが逝った日、夢で聞いた声が言っていた。
私の都合の良い解釈かもしれぬ。思い過ごしかもしれぬ。
だが逆に……私はあれが自ら選んだ道ならば、どんな結末を迎えようとも『自分は不幸だった』などと……
間違っても言うような生き方はすまい、と信じていた自分に気づいた。だからこそ」
だからこそ、自分も惹かれたのだ。
あの闇をみつめ続けた優しい天使に。
しばしの沈黙が流れた。
ふいに、流れる涙を拭うかの如く小さな手で顔を覆った彼女に、クラヴィスはすまなかった、と言うかのように問う。
「……つまらぬ話を……聞かせてしまった……か?」
アンジェリークは必死に首を振る。
いいえ、いいえ、という声が闇に舞う花の中を静かに流れた。
「嬉しい……というのは変でしょうか?
あなたが、ご自分のことを話すのをはじめて聞きました。
私の知らないあなたがまだ、沢山、沢山いらっしゃるのでしょう ――?」
お互いのすべてを語ることはおそらくありえまい。
心の中に秘めておく、それぞれの想いも、想い出もあるだろう。
だが今、ふいに語られたその人の幼い日や、切ない記憶は、自分にだからこそ語られた言葉なのだという想いが、彼女の心を熱くしていた。
それは決して『愛されているから』というようなことではない。
今こうして、ふたりがここに寄り添い立つことができるようになった今日までの日々。
それをそれぞれに生きてきた、強いて言うならば『戦友』という言葉が似合うような自分達だからこそ。
痛みさえも分け合えるのだと、そう感じていた。
「……そうか、ならば少しずつ、少しずつ、話して行こう。
この先、おまえと在るであろう長い長い時間の間に、な」
再び瞳から零れ落ちる涙を、今度はクラヴィスの長い指が拭う。
「はい」
アンジェリークはそう囁き、その身を抱いている腕の温もりに身を任せた。
幸せなふたりの想いを喜ぶように梨花は美しくそこに在る。
「―― そう言えば、な」
身近な話を聞かせてやろう、と、空にある丸い月を見てクラヴィスは思いついたように話す。
「昨晩だったか、月を見ていたら落ちてきたぞ」
間 (←アンジェリーク、目がテン。)
「……冗談だ」
(デュエット・お部屋デートの身近な話より)
その後、しばらく笑いの止まらないアンジェリークに、自分の冗談もそれなりに受けるのかもしれない。
など、と、
ちょっとカンチガイしているクラヴィスであった……
向こうの席でも誰かが(こっちと違って笑える)冗談を言ったのだろう、どっと湧くような笑い声が聞こえる。
ふいにクラヴィスが囁いた。
「……今宵は私の館に泊って行くか……?」
闇に見えぬとは言え、明らかに頬を染めて、でも彼女はそっと頷いた。
くつくつと笑ってクラヴィスは言う。
「では、明日遅刻するとしたら、お互い様だな……」
(←確信犯か?!クラヴィスっ!)
◇◆◇◆◇
虚無となった空間に不思議な球体が現われ、再び異例の女王試験が行なわれることを守護聖達が知るのは、
その翌日のことである。
さて、その謁見の場に、
件のふたりが揃って遅刻したかどうか、までは……筆者の知るところではない……あしからず。
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