海鳴りの子守歌

(参)―――海荒〜うみあれ〜

 


◇◆◇◆◇

(ざざ)……(ざざ)……(ざざ)……

ふたたび、潮騒がざわめく。ここは、エリューシオンそう、あの愛しい天使が育てた大陸。

(ざざ)……(ざざ)……(ざざ)……
ひどく潮騒がうるさいように思えた。
何故、こんなにざわめくのだろう。海が、荒れているのだろうか。
さっきは、あんなに晴れていたというのに。
―― さっき?
ここは、何処だ?エリューシオン?いや、違う。ここは、ここは ―― 。
頭に響く潮騒に、思考がはっきりとしなかった。
ぐるぐると、風景が、廻っている気がする。
そうか、私は体調を崩して部屋に。
違う、私は、エリューシオンの。
いや、ちがう。私は、私は、私は―― ?

◇◆◇◆◇

うつらうつらと、ゆらめく意識の奥、彼は幼い日の事を思い出していた。
それはまだ、彼が守護聖も、聖地も、実感として知らずにいた頃の記憶。

◇◆◇◆◇

「ははうえ、ははうえ」
「どうしたのです。ジュリアス」
こころもち厳しい声が、返される。けれども、それを聞いて、今の彼ならばわかる気がした。
その奥にある、母親の、やさしい想い。
ああ、これが、この声が、私の母の声なのだろうか。
記憶のなかの幼い少年は不安な面持ちでその女性の顔を見上げている。
少年 ―― 己自身の姿 ―― が見えているということは、それは記憶などではなくただの夢にしか過ぎないのかもしれなかったが、どちらでもあまり違いはないと、彼は思った。
記憶か、夢か。その中で会話は続く。

「そとは、あらしなのですか?うみがさわいでいます」
「そうね、少し、風が強くなってきたようね」
「………」
言いたくて、言えぬ言葉を閉じ込めたまま、幼子は下を向いてしまう。
海が荒れ、幼子には恐ろしくも感じるだであろう海鳴りが、外から容赦なく聞こえてくる。
「ひとりで、眠れぬ、というわけではないでしょう?ジュリアス。
いつか、そう遠くはない将来に貴方は、この母や父の元を離れて……」
聞き飽きた言葉を遮るように、幼子が言う。
「わかっています。ひかりのしゅごせいとして、はずかしくないよう、こころがけなくてはいけないのですね。
もう、やすみます。おやすみなさいませ。ははうえ」
蒼穹の瞳を、きっと上に向け、しっかりと一礼すると、幼子は重い扉の向こうへと去っていく。
おそらく、彼は、その後ろ姿をやさしく、哀しげに見送る美しい母の表情を知る事はないのだろう。

幼子は、(ようよう)う穏やかな眠りに就いたようである。
まだ、外からは海の荒れる音が聞こえてくる。
(ざざ)……(ざざ)……(ざざ)……
ざわめきに混じり、やさしい声が響く。
「ジュリアスは、もう、眠ったのか?」
「ええ。漸く、ねむりについたみたい。可哀相な事を、してしまいましたね。いくら大人びているとはいえ……。甘えたい、年頃でしょうに……」
「それは、もう、言うな。お前も、辛いだろうが」
「この子のためになるというのなら、いくらでも、私は」
母は言葉を途中で詰まらせて、寂しげに笑う。
「でも、せめて、こうして寝顔を見る事は、許してくださいませね。あなた」
「許すも何も、私も、こうして、みていたいのだよ」
交わされるふたりの言葉は、いつのまにか、やさしい歌声に変っていた。

ああ、この歌は。
ジュリアスは思う
あの時、夢で聴いた歌であろうか。
あれは、そうか
―― 母の歌う、子守歌だったのだな

遠く、意識の向こうに。
海鳴りとも、木々を渡る風ともつかぬざわめきが心地よく響いていた。


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