海鳴りの子守歌

(壱)―――潮騒〜しおさい〜

 


◇◆◇◆◇

(ざざ)……(ざざ)……(ざざ)……

遠くから、ざわめきが聞こえていた。
懐かしい、心に響くこの旋律は、いったい何の音であろうか。
繰り返し、繰り返し、単調に、そして規則正しく。
まるで心臓の鼓動のように穏やかに、温もりに満ちた音。

ああ、これは。
これは ―― 潮騒。

そして潮騒に紛れ微かに聞こえる別のもの。こちらは、歌声であろうか。
やさしく、瞳を閉じていてさえも輝く光がこの眼に届くような、慈愛に満ちた声。
この歌声の主はいったい誰であるのか。
なんと温かく、懐かしく、優しい。
確か、遠い、遠い昔。私は、この歌声にいだかれて ――

◇◆◇◆◇


窓を叩く風の音に目を覚ましたジュリアスは、しばし、夢の続きを漂い、自分がいま何処にいるのかわからずにいた。
しかし、再び強い風ががたがたと窓をならすのを聞き、彼はすぐ本来の彼へと立ち返る。
―― ここは、そうだ。飛空都市。
女王交代の際の試験で、守護聖としてこの場所を訪れているのだ。
「今日は、日の曜日か」
ひとちごち、時計を見る。まだ普段起きる時間にはまだ早いようである。

外は、雨のようであった。強い風が吹き、梢を鳴らして渡ってゆくさまを窓の向こう感じ、彼はこの木々を渡る風の音を、夢の中で海鳴りと間違えたことを知った。
ひどく、懐かしい夢だった ―― ような気がしていた。
夢とは大抵あやふやなもので、覚めれば朧気な印象しか残らないのが常であり、今回の夢もまた例外ではない。
けれども確かに胸を満たしたはずの「懐かしい」という感情に、彼はひっかかりを覚える。
そのような感情を喚起する何かが己に存在したことを、彼は不思議に思ったのだ。
幼い頃の夢だったのかもしれない、とは思う。
ただ今の彼には、幼い頃育った場所の側に海があったのかどうか、知るすべも思い起こすすべも持ち合わせていなかった。
それでもしばし、記憶をたどるように、思いを廻らせてみたが、諦めたように軽く頭を振る。
―― 覚えているわけがない。
5才の時に聖地を訪れ、首座の守護聖として日々女王陛下に仕える日々を過ごし、今に到る。
だから彼の記憶にある思い出の風景とは、時折職務で訪れる惑星を除けば、女王の力に守られた、永遠の楽園 ―― 聖地のみ、だったのだ。
一つの瑕疵もなく煌くように美しい聖地の風景。彼はそれらを間違いなく好いていた。
けれども今朝の夢で淡く懐かしさを抱いた後で改めて振り返ると、その光景は何故か哀しみを湛えているかのように思え、彼は僅かに戸惑う。
しかし、夢などと言う曖昧なものに対して、いつまでも逡巡していても埒が明かぬ、いつもより少しばかり早いが起床しよう、と気持ちを切り替え彼は身を起こした。 が、不意に目眩が襲い、ふたたび彼は寝台へと身を沈めてしまった。
「……?」
ひどく体がだるかった。
少し、寒気がするような気もしている。

―― 自己管理も職務のうち、と常日頃、他の者たちにも言っていたというのに、その自分が体調を崩すなどと。

彼は至極真面目に己の不徳の致すところを反省してから、
「今日が、休日でなによりだったな」
と呟いて、彼は横になると静かに目を閉じた。
その脳裏に、今日、共に過ごす約束をしていた、愛らしい少女の笑顔が浮ぶ。
彼女の碧瑠璃の瞳が残念そうに曇るさまを想像したが、仕方がないと一旦は諦める。
しかし後で家の者に伝えさせようと思いながらも、あの笑顔をみれないことを、やはり残念に思っている自分がいることは知っていた。
女王候補である彼女と、共に時を過ごせるのは間違いなく、残り僅かな時間でしかない。
解かりすぎているほど解かっているが故に、時折()ぎる心の痛みについては、彼はあえて気付かぬふりをした。

徐々にまどろみが訪れる。
体調が悪いせいなのだろう。心地よい眠りとは言い難かった。
夢か、現か、わけのわからぬ境界を行きつ、戻りつ、ジュリアスは再び、騒々(ざわざわ)と潮騒の音を聞いたような気がした。

―― ああ、また、風の音か。

彼は真っ先にそう考えたが、もしかすると今度は本当に波の音かも知れぬと思いなおす。
その波音に、心当たりがあったのだ。エリューシオンの、潮騒であった。
ここまで思い至り、彼は得心する。

―― そうか、だから私は、あのような夢をみたのか。
―― あの女王候補が。アンジェリークが、どうしても私に見せたいからと。

いつしか、彼の意識は、昨日のことを写し出していた。

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