月さえも眠る夜〜闇を見つめる天使〜
11.飛天
空に、月はない。月の光に邪魔されず、今宵こそはと輝く星々も、クラヴィスの紫水晶の瞳には写らなかった。
果たされなかった約束の日以来、彼はアンジェリークに会ってはいない。 逢いたい想いは身を切るほどに募るのに、今更彼女に何といえと言うのか。 かの女王候補は、自分の意志で、女王となることを選んだのだ。 しかしこのまま何も言わずに女王となったアンジェリークを守護聖として支えることなどできるだろうか? クラヴィスの私邸の庭はいつもにも増して青く、静寂に包まれていた。 冷たく暗い、水底にも似て、大気は淀みさらに深い闇へと落ちてゆく。 微かに吹いた風が、白檀の香を運んできた。 夢の守護聖が好んで使う香だ。彼の執務室はいつもこの香りで満たされている。 「夜が明ければ、新女王の誕生だな。クラヴィスよ」 邪魔をするぞ、とメイファンが姿をあらわす。 その声が聞こえないわけでもあるまいが、微動だにせず、彼はまだ闇を見つめていた。 その様子に軽く溜息をつくと言葉を続ける。 「今宵は星月の夜。月さえも安らかな眠りにつき美しい夢を見る。 いにしえに、強い想いは一度だけ、夢を渡ると言うそうな。 そなたにそのつもりがあるならば、力を貸してやっても良いぞ」 僅かに感情の色をたたえメイファンを見るクラヴィスに、 「くれぐれも、陛下には内密にな」 そう言うと、悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべた。 これも天命というものか。 天の乙女はいずれ天に還るが定め。地上に留め置くことは叶わぬ。 クラヴィスの館を辞し、一人降るような星屑の下を歩き、メイファンは思う。 さぞ、辛かろう、と。 しかし、その人恋うる想いはけして罪ではない。 血を流すような痛みはいずれ薄れ、ときおりにぶくその胸に飛来するだけとなる。 ただ、甘やかな美しい想い出とともに。 そしてその時こそ、相思の想いは人の内の華とも玉ともなりえよう。 彼はそれを、身をもって知っていた。 「それがいつとなるかはクラヴィスよ、そなたの心ひとつぞ」 無造作に置かれたようで綿密に配置された石が仙山を型作り、 落ちる水は流れる川を模したせせらぎとなり、桃源郷を渡って大池へ注ぐ。 池の中央にある蓬莱島には、石橋が架かっていて、その橋の傍に見事な梨の老木が花を咲かせていた。 闇に咲き馨る華もこの世にはあるものを。今のクラヴィスには、その美しさは見えまい。 つ、と足を止め、その花にやさしくふれる。 「梨花(リーホア)か、今宵に最もふさわしい」 そのとき、メイファンの胸に浮かぶはなにか ―― 遠いむかし、やはりこの花の下で語り合い、そしてくちづけた 自分とおなじ、黒髪、黒曜の瞳のひとを想いだす。 「 風に、雪のような花弁が舞う ―― ![]() 冷艶全欺雪 ―― 冷艶全く雪を欺き 餘香乍入衣 ―― 余香たちまち衣に入る 春風且定莫 ―― 春風しばらく定まることなかれ 吹玉階向飛 ―― 吹かれて玉階に向かって飛ばん (冷ややかに艶めかしく梨花は雪かと見紛うばかり たちのぼるその香はたちまちこの身に染みわたる 春の風よ、どうかしばしやまずに。 花びらを愛しいひとの眠る場所へはこんでおくれ) (左掖の梨花/丘為作) ◇「12・星月の夜の夢」へ ◇ ◇「彩雲の本棚」へ ◇ ◇「月さえも眠る夜・闇を見つめる天使――目次」へ ◇ |