月さえも眠る夜〜闇を見つめる天使〜

10.涙


「アレス、落ち着け、アレス!!」
カイルの声がしたかと思うと、ジュリアスの執務室のドアが乱暴に開けられ、 炎の守護聖が優美な身のこなしでつかつかと入ってきた。
窓辺に立ち、ひとり何かを想うような様子の光の守護聖に歩み寄る。
常に毅然とした光の守護聖の、どこかいつもとはちがった様子にはアレスは気付かない。
何事だ、と言う間もなくアレスの拳がしなやかに、しかし激しく唸りを上げてジュリアスの頬を打った。
もう一発、と、振りかぶるアレスを後ろからカイルが必死の思いで羽交い締めにしている。
守護聖の中で一番がっしりとした水の守護聖が、全力で押さえなければいけないほどアレスの感情は爆発していた。
彼の全身から冷ややかでいて灼熱する青白い炎が立ち昇っているのが見えるようだ。
激しく打たれて少し体勢を崩したものの、すでにいつもの冷静な表情を瞳にたたえ目の前の激した青年を見据えるジュリアス。

「なぜ、などとは、聞かないで下さい。貴方のしたことです。貴方が一番ご存知の筈」

森の湖の一件が、どこからか伝わったのだろう。
クラヴィス自らが語ったとは到底考えられないので、 おおかた聖地で働くもの達が逢い引きでもしていて偶然居合わせたに違いない。
仕方の無いことだ、人の口に戸は立てられないのだから。

激しい燐気を含む鋭いシルバーグレイの瞳。
この瞳に睨み付けられても、怯むことなく真っ向から受けて立つことのできるのは 光の守護聖の、一点の曇りも無い紺碧の瞳だけであろう。
そしてまた、逆も然り。

「何か、言うことはないのですか?」
「誰に、何を言えと?私はただ、自分の信念に従ったまで」
そう、後悔などしていない。私は、けして ―― 。
憎らしいほど冷静に言い放つジュリアスに再び詰め寄ろうとするアレスを、カイルがまたも必死で押し留める。

「信念、ですか。それは、それは、ご立派なことですね」
静かにも聞こえる声が、実は今迄以上の押さえがたい怒りを秘めている。
その場に走る一瞬の緊張。
しかし、アレスは水の守護聖の手を引き離すと踵を返し部屋の外へ向かう。
「貴方の血が本当に赤いのかどうか、確認できなくて甚だ残念ですよ」
そう、言い残して。

後に残ったカイルはジュリアスをみつめる。そのダークブラウンの優しい瞳に、責めるような色はなかった。
「大丈夫ですか」
彫像のような整った顔のその頬に痛々しく残る赤い痣を見て、水の守護聖はそう問う。
「たいしたことはない」
とだけ答えるひとを、カイルは少し悲しげに見やった。
この人は、自分の心の流す涙にさえ気付いてはいない。俺はクラヴィスより、アレスより、この人の方が心配だ。
そう思ったが、それを口にすることなく一礼すると彼は静かに執務室を辞した。

ひとり執務室に残されたジュリアス。
打たれた頬は赤く腫れ、血の流れるその鼓動とともに疼く。
しかし、その疼きは本当に打たれた頬のものなのか。
問答無用の暴力をふるったアレスに一言の注意も与えなかった、いや、与えることのできなかった自分。
あの森の湖で、クラヴィスは言った。もう、私にかまうな、と。
幼い頃から共にあり、陛下の両翼として力を尽くしていこうとそう思っていた。
時がたち、成長するに伴ってすれ違うことも多くなった。けれどあの幼い頃の想いはふたり変わらない、心の中でそう信じていた。
けれど今、自分たちの間には埋めることの出来ない溝ができてしまったのかもしれない。

「…………」
彼は再び、光に満ちた、その窓の外へと無言で目を移した。

◇◆◇◆◇

風はいささか強いが、今日も良く晴れた気持の良い天気であった。
炎の守護聖は宮殿の中庭で、煌く噴水の縁に手を置き身を乗り出し、風に煽られて落ちてくる水を頭に受けていた。
水が与える心地よい冷気とは裏腹に次から次へと熱い血が身をたぎり体を灼熱させる。
その理由が、ジュリアスに対する怒りだけでないことを彼は知っている。
何もできなかった自分への怒り。
新女王決定の詔以降、自らの闇に閉じこもったままのクラヴィスに対する怒り。
そしてこの結末をもたらした宇宙への怒り。
謁見の間で、初めてアンジェリークを見た時、強い意志を秘めたようなその凛とした姿に好感を持った。 この女王候補が闇の守護聖に惹かれつつある事に気付いたとき襲った激しい悋気。
けれど、こればかりは仕方の無いことだ。人の心は思うように動かせない。自分の心でさえも、だ。
―― だからせめて、幸せになって欲しいと望んだ。
たとえ、最終的に女王となったとしてもそれは彼女の意志であるべきで、 間違っても、そう、たとえば伝言が歪められた結果であってはならない。
くっ、と、やるせない想いに声にならない声がこぼれた。

「水に落ちて溺れるなよ。助けてやらないぞ」
優しい声がする。普段はかなりがさつなそのひとの、こういった声を聞くたび親友が水の守護聖であることを実感する。
「噴水で、どうやったら溺れると言うのです。実演して頂けますか?」
相変わらずの毒舌で、振り向きざま水滴の落ちる髪をぴしゃりと掻き揚げ白皙の美貌を露にする。
「おーおー、水の滴るいい男だ事」
カイルはそう言うと、赤銅色の顔に少し目尻が下がる人の良い笑みを浮かべた。

「で?何か言いたいことがあるのでしょう?」
わざわざここまで、自分を追ってきたのであろうカイルに尋ねる。
「いや、とくにない。おまえは?」
そう、切り替えした。
なにを、話させたいのだ、この人は。とばかりにアレスは水の守護聖を睨み付けた。が、次の瞬間言葉が零れ落ちる。
「―― この宇宙で、彼女でなく、いったい誰が幸せになるべきだというのですかね」
自嘲交じりのただそれだけの言葉。
だが、カイルには友人の想いが痛いほど解る。冷ややかにみえるその態度とは逆に、内に秘められているだろう熱いなにかが、だ。
ふと、アレスの少し伏せられたけぶるような睫の奥に一滴の涙を見て取った。
ぽん、とカイルは友人の肩をたたく。
「今日は、飲むか」
ふん、と鼻を鳴らし
「飲めないくせになにをおっしゃる。それとも私にオレンジジュースで付合えと?」
そう、アレスは応じた。速攻でいつもの調子に戻った炎の守護聖に、
「まあ、たまにはいいさ」
と笑い掛け、ともにカイルの私邸への道を歩き出した。

歩きながらアレスが言う。
「こうなったら、ダグラスにはいやでも頑張ってもらわなければいけませんね」
いつももう一人の女王候補、ディアと連れ立っていた鋼の守護聖。
しかし、女王決定の詔の後、ふたりが供にいる姿をみかけない。
「大方、気を使って、あの二人までおかしくなっちまったんだろうな」
カイルも頷く。せめて、もう一組の恋人達は幸せであって欲しい。アンジェリークとて、親友の悲恋を望んではいないだろう。
「ま、おまえがダグの事を気にするとは思っても無かったよ」
その言葉に対する返答はなかった。ゆえにカイルは話題を変えて続ける。
「……アンジェリークは、どのみち、女王になる決意をしていたと思わんか」
例え、森の湖でふたりが逢えたとしても、それは女王の呼び出しの後だった。
アレスとカイルの二人が知る由も無いが、事実アンジェリークは女王の話を聞いた時点で決心をしていたのである。
暗にカイルはジュリアスに咎はないと言っている。
そしておそらくこの件で、誰よりも傷ついているのは、そうせざるをえなかった彼自身なのではないか?
――時として、傷つける方が、傷つけられるよりも辛い時がある。
「解っていますよ。あれは、単なる八つ当たりです」
けろりとして言う親友にさすがに冷や汗が出る。
「……おい」
八つ当たりであれだけ殴られてはたまらない。 冷や汗をだらだら垂らして二の句を継げずにいるカイルをほったらかしてどんどんと歩いてゆく。そして、小さくつぶやく。
「たまには、いいでしょう。あれは、私からの餞別です」
「………!」
言葉の意味にはっとして、炎の守護聖をみるカイル。
サクリアの、衰え ――
振り向いたその、白皙の美貌には、今迄カイルさえ見たことの無い悲しげな表情が刻まれていた。
かすかに、肩さえ震わせて、顔を覆い、うずくまってしまったカイルに今度はアレスが慌てる。
「いつかは来ることのはず。なにもそんなに」
「がう」
「は?」
「違うんだ」
声が、笑っている。呆れたような、諦めたような、そんな表情で顔を上げる。
「なあ、俺達、とことん腐れ縁だな」
「……!じゃあ、あなたも……!」
先程の悲しげな表情は何処へやら、秀麗な眉目をしかめて心底嫌そうな顔をして見せる。
親友と呼べる間柄になったのは聖地へ来てからだが、同期の二人はなにを隠そう、守護聖になる以前から顔見知りだった。
聖地に来て、新しい同僚を紹介され、意外、かつあまり嬉しくない再会を果たしたときの二人は今と同じ表情をしていた。

ふう、と、諦めの溜息をつくとアレスは言う。
「と言うことは、次の炎の守護聖と水の守護聖も同期と言うわけですね」
「そうだな。まあ、同期がいるのは心強いことだ。仲良くやってくれるといいんだが」
どうせ、「ただの腐れ縁です」と言われるだけなので、「俺達みたいに」と言う台詞を彼は省略する。
「確かに。炎と水の守護聖は代々反りが合わない事も多い様ですが、今現在、闇と光が史上最悪の相性ですから。 これ以上仲の悪い奴等が増えては、他の守護聖の皆さんの寿命が縮まります」
自分もかなり聖地の人間関係悪化に協力していたくせにぬけぬけと言う。
「ま、大丈夫だろう」
「そうですね」
そう言いながら、日の傾いてきた聖地の空を見上げ、歩みを進めた。

―― 知らぬが仏
その格言を身を持って実証する、炎と水の守護聖であった。


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