月さえも眠る夜〜闇を見つめる天使〜

9.約束


「どうかなさいまして?」
いつもの湖、大樹にふたりよりそいもたれかかり、ただ、時の流れるまま静かな時間を過ごしていた。 いつもにも増して無口なクラヴィスに、アンジェリークが尋ねたのだ。
「なんでもない。ただ、ずっと。こうしていたいと思っただけだ」
アンジェリークの頭をやさしく自分の胸にいだく。
それが、叶わぬ事かもしれないのは、ふたり、痛いほど感じていた。
―― なんでもない、わけが、ない。
女王交替の時は刻々と迫っている。
いずれの女王候補が女王になるかはまだ解らないが、もし、アンジェリークが選ばれたとしたら 手の届かぬ人になってしまったとしたら。
宇宙はこの自分からようやく手に入れた片羽を奪おうというのか。
これまで自分から、全てを奪っておきながら ―― サクリアという忌まわしい力と引き換えに。
アンジェリークを抱く腕に力が入る。答えるように少女も手を背中にまわした。
彼の心の痛みは同時に彼女の痛みでもある。
このまま時が止まってしまえばいいと思う、けれど、それ以上の答えは出せなかった。
この宇宙を支えるべき使命はあまりに重い。

「女王候補など、やめてしまえ」

抱きしめられながら囁かれた突然の言葉。強い決意の後に囁かれたものであることは間違いない。
アンジェリークが、最も聞きたくて、そして聞きたくなかった言葉。
無言の少女になおも語り掛ける。
「……私には、おまえが必要だ。おまえのいないこれからの時間など、もはや考えられない。 これからもずっと、私の傍に……」
すぐにでも、はい、と言ってしまいそうなのを懸命にこらえる。
心が、いや、体全身が悲鳴を上げていた。
ずっと、あなたのそばにいたいと。
いつまでも、いつまでも、あなたと共にいたいと。
「明日、またここで逢いましょう。約束です。その時に、お返事……いた……します……わ……」
やっとの想いでそれだけを言う。自分の心に逆らう事は、こんなにまで痛みを伴うものか。 最後は、声がつまって言葉が続かなかった。
けれど、涙はない。けして、泣くまい。
微かに震える少女を慰めるように、やさしく頭をなぜているクラヴィス手の温み。
それが、いまは鋭い刃物のようにアンジェリークには感じられていた。

ひとり寮へ戻ったアンジェリークは自室の隣のドアをみやる。
ディア、あなただったら?あなただったら、どうする?
返事のあるはずも無い問いに、ふいに涙がこぼれそうになりぐっ、とがまんする。
泣いた所で、答えは出ない。答えは ―― 。

◇◆◇◆◇

翌日、アンジェリークは執務の上でジュリアスをたずねていた。
約束の時間はもうすぐである。この仕事を終えれば、あとは自由な時間だ。
答えは、まだ出ていない。
でも彼女は一晩考えて決意していた。クラヴィスの姿を見て、そのときの心のままに行動しようと。
ジュリアスの執務室を辞そうとした時、光の守護聖が女王候補を呼び止めた。
「女王陛下がお呼びだ。この後すぐ謁見の間へ行くように」
「私、ひとり、ですか?」
突然の謁見に戸惑いを隠せない。
ジュリアスは頷く。
「陛下は、そう、仰せだ」
女王陛下の呼び出しではしかたがない。 アンジェリークはすこしためらったが急ぎでもあるので目の前の守護聖に伝言を頼んだ。
―――必ず行きますから、待っていてくださいませ
そう、闇の守護聖に伝えて欲しいと。

しかし、その伝言が正しくクラヴィスに伝えられる事はなかった。
森の湖で、女王の白き翼の片方を支えるべき光の守護聖としてジュリアスは言うのである。
アンジェリークはここへは来ない、彼女は女王となるのだから。
と。

◇◆◇◆◇

謁見の間に女王の姿はなく、アンジェリークはその奥の間に通された。
その部屋に入った時、まずそのえもいわれぬ香りに気付いた。香が焚かれているのである。
すうっと、こころが軽くなるようなこの香、どこかでかいだような?
アンジェリークはそう思ったが、特に深くも考えなかった。

「ここへ、おすわりなさい」
やさしく手を引かれ、椅子に腰掛けた。その声が、女王その人とわかり多少戸惑う。
「ここは、わらわの私室。固くならずともよい。ここに茶を置くぞ」
かちゃり。
目の前にあるらしいテーブルにカップの置かれる音がし、たちのぼる温かい湯気が顔にあたる。
手探りでカップに触れ、アンジェリークはお茶を飲んだ。
かすかに花の香りのする、やさしい、ハーブティー。ほっと、一息をついた途端、女王が言う。

「クラヴィスを、愛しているのか?」

単刀直入、間も置かず聞かれた台詞にアンジェリークはカップを落としそうになる。
しかし、そこは持ち前の気丈さですぐ立ち直り前を見据え
「はい」
とだけ答えた。

「良い、答えじゃ」
ほほほ。と女王は笑う。心から、そう思っているらしい。
「だがな」
彼女の声から笑いが消えた。
「わらわは、そなたに女王となって欲しい。いや、言いたい事もあろうが、とりあえず、みなまで話させておくれ」
アンジェリークは頷くしか無かった。

この宇宙が今、どのような状態になっているのか、少女は薄々勘付いていたのである。
長い間発展を続けてきたこの宇宙は飽和状態にある。
そして見える未来は「滅び」である。
そうなってしまえばいかに女王とはいえ手の尽くしようが無い。
宇宙の崩壊は天の定め。それを止める事はできない。
しかし、この世界に息づく生命達をみすみす見殺しにできようはずが無かった。
現女王も力を尽くし少しでも宇宙の寿命を延ばそうとしているがそれも限界である。
すべては、ディアか自分の次期女王 ―― そしておそらくは、 遠い未来に生まれ来るその次の代の女王の肩にかかっているのだ。
その使命の前には、少女の恋など、取るに足らないものであろう。
そう、他人にとっては。
だから、女王はその事を自分に話すのだろう、と思っていた。 が、聞こえてきた言葉は想像と少し違っていたのである。

「恋をしたことの無い者に女王になれ、と言うてもそれは無理ぞ。 残酷では有るがな。人を愛しゅう想う心があってこそ、宇宙も愛しゅう想えるというもの……」
意外な女王の言葉にアンジェリークは思う。
では、この人も、誰か恋する人がいたのだろうか?そして、かつての女王達も。
苦しい想いを内に秘め、それでもなお一人孤高に宇宙を導く。
それが、彼女達に与えられた定めだと?
アンジェリークの心を見通したように女王は続ける。
「わらわは幸せものぞ。 普通の恋人達の過ごす何十倍、何百倍、という時間を愛しい人と過ごせたのじゃからな。この ―― 聖地で」
恋人としての言葉も交わさず、その身に触れることも叶わない。
けれど、心はいつも供にあった。そして、きっと、これからもずっと。

部屋の空気が優しい想いに満たされるのをアンジェリークは感じた。
そして再び少女を包み込む香の香り。夢へ誘うような、そんな心地。
―― そうか、この香りは、あの方の執務室でも香っていた
どこかでかいだことがある、と思った理由に行き当たり、少し切なくなる。
その方と接していた限りではそんな想いを抱えていたなんて、気付きもしなかった。

「アンジェリーク。天高く飛ぶ鳥は、身も心も軽そうに人には見える。 じゃが、其の身の内には熱き血と、重き臓腑を抱えおる。 そのことを、そなたは初めから知っていたように見えたのじゃ。これからも、それを忘れるでないぞ。
―― 無理強いはせぬ。答えは自分で見つけよ」
そう言ってから、明るい声で付け加える。
「その様に暗い顔をするな。ま、物事とは、なるようになるものだ。そなたが女王とならずとも、な」
これが、夢の守護聖に「豪胆」と言われる所以である。
ほほほ、と笑う声に、アンジェリークは少しだけ、気分が楽になった気がした。

そう、彼女は答えをたった今、自分の中で見つけたのである。

◇◆◇◆◇


アンジェリークが新たな女王となることが、現女王によって守護聖達に告げられたのは、翌日のことであった。

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