月さえも眠る夜〜闇を見つめる天使〜

7.恋 ―― アンジェリークとクラヴィス ――


日の曜日、ダグラスが、ディアの部屋を訪ねていた頃、クラヴィスは森の湖にいた。
―― 今日は、いないのだな。
辺りに人のいる様子はなく、湖は、ただ静かに煌いているだけ。
自分の思考にふ、と自嘲する。
―― 私はあの者に会うために、ここへきているのか?
いつもの散歩道の筈だった。しかしあの日、湖畔の大樹の枝の上で眠っているような少女をみつけた時。
天使が、羽根を休めているのかと思った。
金色の光をまとい、まるでつぎに天へと飛翔するまでの、束の間の休息のように。
地上にとどめておきたい気持に駆られ声をかけた。尤も我に返った少女は、ただのおてんば娘だったわけだが。
その日から、クラヴィスは以前にも増してこの湖に来るようになったのである。 そしてそこには、たいていアンジェリークがいたのだ。
あの者とて、私に合うためにここへ来ているのではあるまいに。
そう思うと、何故か心が痛んだ。それを気付くまいとするように軽くかぶりを振ると、大樹に近づき幹に触れる。
そういえば、あの時以来、アンジェリークは木に登っていないようだ。
少なくともクラヴィスは目撃していない。
さすがに、懲りたか。
制服ではやめたほうがいい。と自分が言った時の少女の顔を思い出し、つい笑みがこぼれる。

と、そのとき
「きや〜〜〜っっっっ!!!」
上から聞こえた突然の悲鳴に振り仰ぐと空から物体 ―― アンジェリークが落ちてくる。
考える間も無く受け止めた、つもりだったが、反動でクラヴィスは仰向けにひっくり返ってしまった。

「いたたたた……。もっ、もうしわけありませんわ。クラヴィスさま。ご無事ですか?私ったら、どうしましょう〜。」
クラヴィスはむくっ、とおきあがり、目の前でおろおろしている少女の肩に手を当て、おちつかせる。
「だいじょうぶだ、怪我はない。おまえはなにをしていたのだ……?」
声に怒気が含まれている。しゅん、としてアンジェリークが答えた。
「最高記録を目指してましたの。木登りの。クラヴィス様の気配を感じて、声をかけようと思いましたら、落ちてしまって……あ、でも、きょうはちゃんと、動きやすい服着てますわ」
確かに、ジーンズにシャツ、といった軽装だ。ね、と笑う少女につい声が大きくなる。

「怪我でもしたらどうする!」

彼がこんなに声を荒げたのは、長い人生で初めての事だったかもしれない。
「私が下にいたからよかったが……」
驚いた顔をしている少女に、大きな声を出してすまなかった、と彼はつぶやく。すでにいつもの溜息にも似た微かな声である。
アンジェリークは、いいえ、とかぶりを振った。
「ありがとうございます。助けていただいたこともですけれど、それよりも。心配して下さって、ありがとうございます」
嬉しそうに微笑んだ。
クラヴィスはふいっ、とそっぽを向いて言う。
「おまえは ―― 女王候補だからな。……心配して、当然だ」
照れ隠しである事にアンジェリークの気付かない筈が無く、くすくすと笑う。
「そのおっしゃりよう、まるでジュリアス様のよう」
心底、嫌そうな顔をするクラヴィス。
その表情を見る事のできないのが、ちょっと残念なアンジェリークであった。

◇◆◇◆◇

「この花、なんて名の花でしょう?」
湖のほとりに腰掛けようとして、手に触れた花の名を尋ねる。
いつもしている会話である。森にあるいろんな木や花に触れ、形を確認し、色と、名前をクラヴィスに問う。
「色は……むらさきだな。名は、知らぬ」
「すこしは、調べてやろう。と言う気にでも、なりませんの?」
たいていの場合、名を知る事ができない。クラヴィスが知らないのである。
それは、まあ、花の名前に詳しかったら、それはそれで不思議ですけれど。
自分も調べないくせに、ぷう。とふくれる。それを見て、
「わたしは、意地悪だそうだな」
突然、クラヴィスがいう。声には笑いが含まれている。 もちろん、昨日の、ディアの大暴露台詞の事を言っているのである。
「それが、意地悪だと、言うんですわ」
少なくともアンジェリークはクラヴィスに逢うためにここへ来ていた。 共に過ごす時間が、女王候補として(協調性の無い9人の奴らと)日々多忙に過ごし、疲れた精神を癒してくれる。
いつも神経を研ぎ澄ました彼女を癒すのは、闇の安らぎではなく、もはやクラヴィス、彼自身なのである。

―― その意地悪な方に逢うために、毎日ここまで通ってしまう私も、よっぽどですわね。
また、ぷう、とふくれる。それを愛しげにみつめる瞳には、さすがの彼女も気付かない。

「なぜ、初めから、おまえは私を恐れない?」
突然の問い。
しかしそれはずっと、クラヴィスが不思議に思っていた事だった。 ディアは、はっきりと言ったではないか。始めは恐かった。と。
アンジェリークは応える
「私の方が聞きたいですわ。なぜ、怖がる必要がありますの?角か牙でも生えてらしゃるんですの?あ、すっごく、変な顔してらっしゃるとか」
なにか、ちがう、と思いながら、クラヴィスは一応答える。
「いや……。角も牙もないが……。顔は……アイソが悪い、とは言われるな……」
エドゥーン辺りにだろう。
気を取り直し、もう一度尋ねる。
「私は、死をも司る闇の守護聖だ。それが、恐ろしくはないのか?」
たぶん、それが聞きたかったのだろうことは、アンジェリークも解っていた。
でも、ほんとにこの人は、その理由がわからないのかしら、と、少し不満である。
「人は、誰でも死にますもの。私も、あなたも。だからこそ今、私達、生きているんですわ。そうでしょう?」
すうっ、と深呼吸する。生命の営みの、確認をするように。
「それに私、闇しか識りませんもの。風も、大地も、水も ―― 光も、触れたり、感じたりはできます。 でも、私が識っているのは、闇だけですもの。夢さえも、ですわ。闇だけを、みつめているんです」
微かにクラヴィスが息を呑むのを聞いた。
「一度も私、この闇を恐いなどと思った事はありませんわ。 でもそれは、あなたが司る闇がどこまでも、やさしくて、透明だから」
手探りで、クラヴィスの頬にふれる。

「あなたが、このどこまでも透明にすきとおる闇を司る限り、きっと私はそれを恐れたりいたしません」

そう言った少女の瞳は、じっと、クラヴィスの方をみつめていた。 まるでその瞳の奥に、彼の姿を映し出そうとするように。
彼女の指から頬に伝わる体温と今の言葉が、 長い、長い間クラヴィス自身を覆っていた鉛のように重苦しい闇を一瞬にして払拭した。
心の奥が心地よく熱くなり、つられて熱くなる目頭をあわてて押さえる。
人は誰しも孤独だ。この宇宙に生きる全ての人がそれぞれに多かれ少なかれ、孤独を抱えて生きている。
守護聖であろうとなかろうと人間であれば同じ事だ。
親や、兄弟でさえ、突き詰めれば他人にすぎない。
そのことに気付かず生きる人ももちろんいるだろう。それはそれで、幸せな人生だ。
でも、もし気付いてしまったなら、だからこそ、自分の半身を求めるのだという事。
―― 誰かを愛しいと想うのだという事
それを目の前の少女が教えてくれた。

「もしあなたの姿が見えたなら、私はあなたを恐ろしいと思ったでしょうか? こうしてお話する事も無く?それなら、目などみえずとも一向にかまいません」
微笑み、そしてまた言う。
「クラヴィス様のお顔、おしえてくださいませ」
アンジェリークの言葉の意味が分からず戸惑うクラヴィス。
かまわず、アンジェリークは、彼の頬に触れていた手を静かに動かし、顔をなぜる。
初めは片手で、そして両手で。
「ここが額。ここが目。ここが頬。ここが鼻。そして―― ここがくちびる」

静かな森に、彼女の声だけが小さく響く
ひとつひとつ、確認しながらなぞる細い指、その感触。
空を見る瞳はどこまでも澄んでいて、すべてを写し込んでいるようにさえみえる。
心が、震えた。
やさしく触れる少女の温もりに、クラヴィスは掻き抱いて激しく抱きしめたい想いに駆られながらも 天使を傷つけてしまいそうでできないでいる。
クラヴィスは少女の金の髪を優しくなんども、なんどもなぜる。
やっとみつけた、大切な、大切なひとを確認するように。

「くすっ。ちゃんと、美男子さんですわ」
さきほどの、「変な顔」発言の事を言っているのだろう。
「こんどは、私をみてくださいませ」
彼女の髪に置かれていない、もう一方の手を取ると、自分の顔へ運ぶ。

「ここが額。ここが目。ここが頬。ここが鼻。そして ――」

ここがくちびる。
そう言おうと思ったとき、指でない、やわらかい別の何かがくちびるにふれた。
さらりと長い髪がアンジェリークの頬をなぜたのと同時に。
すっと、クラヴィスの指が彼女の目を閉じさせる。
なんども、なんども、そのかたちを確認するようにふれる温かい感触。
しずかに、やさしく、そして甘やかに。

アンジェリークは少しふるえる手をそっと、クラヴィスの背中にまわした。
互いの温もりが伝わる。
―― 私の半身。
ふたりの想いはその唇とおなじに重なった。

くちづけを交わすふたりを、かたわらに咲くむらさきの名も知らぬ花だけが、風にゆられながらみている。
いずれ来るべき悲しい別れをこの花は、知っていたのかもしれない。
その、花言葉に寄せて。そう、花言葉は ――


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