月さえも眠る夜〜闇を見つめる天使〜

4.出逢い―――アンジェリークとクラヴィス―――


遠くで木の葉をゆらしていた風が、甘やかな花の香としめった大地の匂いを包み込み、ふわりとほほをなぜて通り過ぎていった。
枝のあいだから射し込んでいるであろう太陽のひかりのぬくもりを感じながら、 大樹のざらつく幹の感触にほほよせて、恋の唄を歌う鳥達の声と流れゆく水おとを聞く。

これが私の感じる世界。音と、匂いと、感触の彩やかな、闇。

「おまえはいったいどこにいるのか解っているのか……?金の髪の女王候補よ」

抑揚の少ない、静かだが、あまりに唐突な人の声に、うっとりと夢み心地になっていたアンジェリークは、はっと我に返る。
「あの、どこって、木の上ですわ」
見えてないわけではありませんわよね、私が居るとわかって、声をかけたのですもの。
この声は、どなたかしら?まだ聞いたことのない声。
あ、でもこの静かでおだやかな、心に安らぎが満ちるような。 こんな気配を持ったかたは、きっと。
「闇の守護聖様、ごきげんよう」
アンジェリークは慌てて付け加える。もちろん、微笑みも忘れずに。
「そうか。で、どうやって、おりるのだ……?」
当然のように答える女王候補に少々面食らいおもわず再び尋ねる。だいいち、盲目の少女が独り、この森の湖にいること自体驚きに値する。
闇の守護聖の質問の意図をようやく理解し、アンジェリークはくすりと笑う。
「大丈夫ですわ。だって、そんなに高く登ってない筈ですもの。ほら」
と、枝に手をかけ勢いよくぶら下がると、地面まで残り30cmの高さをとびおりた。
癖のない、長い髪がふわりと舞う。
悪びれず、声のした方ににっこりと笑顔を向け、少し汚れた手をぱちぱちと叩いた。

「そうか」
しかし、どうやって、ここまで来たのだ?帰りとて、独りで帰るつもりだったのだろうか?それに先ほどなぜ自分が闇の守護聖だと分かったのだろうか?
次々と問いが頭に浮かんだが、もともと口数の少ない彼はそれだけ言うと少女をみつめている。
そんな様子を感じ取ってか、
「ディアと昨日、一緒にここまで来ましたの。一度来た道は私、絶対忘れませんわ」
物心ついた時から、そう訓練してきた。独りでも、たいていのことはできるようにと。
元来の記憶力の良さと、外見にそぐわぬ行動力、決断力が、今、それを可能にしている。
見てくださいませ、とばかり、颯爽と歩き出す。が、
「きゃっ」
いきなり躓き上体がぐらりとゆれる。しかも、草も石もない、平らな土の上で、である。
あわてて抱き止める腕があり、笑いをこらえた声がする。
「……よく、わかった……金の髪の女王候補。」
”……”の辺りの笑いの気配に対してか、はたまた体を支える手のぬくもりに対してか、 思わず顔を赤くして体を離すと、少し決まりが悪そうに
「私にはちゃんと名前があります。アンジェリークと呼んで下さいませ!闇の守護聖様!」
と言う
「そうか。私は、クラヴィスと言う。―― アンジェリーク」

◇◆◇◆◇


「ありがとうございました」
独りで大丈夫ですわ。と言うアンジェリークの後を、なにげに歩いていたクラヴィスに結局は寮まで送ってもらった形になって、ぺこり、とドアの前で頭を下げる。
「いや、礼にはおよばぬ。ただ木登りは ―― 」
「やめませんわ。ぜったいに」
目のことで、余計な気を使われるのを嫌ってか、彼女は少し強い口調で言葉を遮った。女王候補が、木登りなどすべきでない、といった考えは頭に存在しないようである。
その様子にクラヴィスは、ふ、と笑みをもらしアンジェリークをみつめる。
「どこぞの石頭とちがい、そのようなことは言わぬ。ただ」
「……?」
少し意地悪な笑いを含む声にアンジェリークは首をかしげる。
「……ただ、制服では、やめたほうがいい……」
「!!!」
真っ赤になって口をぱくぱくさせている少女をそのままに、
「ではな」
とだけ言い残し、彼は寮の外へと向かう。
傾きかけた太陽が辺りを夕映えに染めていた。東の空は澄んだ青から深い群青へと推移しつつある。
そう、これから訪れるであろう夜の先駆けのように。
アンジェリーク、か。そうつぶやくと
くつくつと喉の奥で笑いながら、真昼よりなぜか熱を感じさせる西日のなかをクラヴィスは静かに歩いて行った。

◇◆◇◆◇


「っっっ!!!」
いまだ恥ずかしさのおさまらないアンジェリークは、ぱふっ、とベッドへうつぶせに倒れ込んだ。枕の中へ顔を埋める。
「スッスモルニイは女子高ですもの。そっそんな事、気付きませんでしたわっっ」
ただでさえ、他人から見られる、という事への自覚が乏しい。他人の目には、彩やかな世界がうつっているのだろうが、自分がそれを識ることはあるまい、と思っている。
―― クラヴィス様。いったいどんな方なのかしら?髪の色は?瞳の色は?背は……とても高かったようですけど。
静かな声が、かなり上から聞こえていた。
声は、覚えましたわ。とてもすきとおった、静かな声。そう、あの方から発せられる気配 ―― 例のサクリアと言うものなのでしょうかしら? ―― にも似てる。
ふと、抱きかかえられた時の感触を思い出し、ふたたび赤くなる。
「きゃーっ、私ったら、私ったら、私ったらっっ」
ベッドの中でじたばたしてみた後、でも、と顔を上げて
「性格は少し、いじわるですわ。ぜったいに」
そう言うと力強く肯いた。そういえば
「どこぞの石頭って、いったいどなたのことなのでしょう?」

彼女が聖地の少〜しだけ複雑な人間関係を知るのは、もう少し、後。

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