愁霖の秋

(参)―― 冬来

 


その夜、そうすることがあたりまえのように。
私たちは肌を合わせた。
特別な言葉は何も要らない。

ただ、彼のぬくもりが欲しかった。 きっと彼は、私に触れた時に。
理由は何であれ私の体が彼を欲していたことに気付いてる。

互いの気持ちの最たるものが寂しさだったとしても。
肌を合わせてしまえば湧き上がる情がある。
目がさめて、隣に眠る人を見た。
彼の瞳を再び見てしまったなら、今以上に離れがたいと感じるに違いない。
けれども、彼はここを去っていく人だから。
断ち切りがたい想いを無理やり振り切って。
私はそっと、部屋を出た。

外に出て、吐く息が白いことに気付く。
もう、秋さえも去った。
石畳を歩く自分の靴音が、大きく感じる。

別れたくないと、感じている。
これが懐かしさでも、寂しさでも。
―― 私は、また、あのときのように何も言わず去るのかしら?
いだきあうだけで伝わる想いもあれば。
言葉にしなければ伝わらない想いもある。
足りないのは、何か。
恐れているのは、何か。
伝えたところで結局去っていってしまうかもしれない彼を恐れているのか。
わかっているのは唯一つ。
伝えずにこのまま、私が電車に乗れば。
きっと、もう会うことはない。

人気の少ないホームに、電車が滑り込む。
散りはじめていた霙がその風を孕んで舞った。
目の前で車両の扉が開く。

そして。
私は。

私は、そこに立ったまま、電車を見送った。
電車が去ったあとの。
線路に落ちる白い破片。
落ちては溶けて、染みをつくってゆく。
私の心の一部はまだ、あの遠い場所にあるのだろうか。
それともそれは既に。
地に触れて消えた雪のように。
もう、跡形も無いのだろうか。

きっと、それは。
どちらでもいいこと。

だから私は傘を差して。
きっと今朝のうちに旅立つであろう彼を待った。
舞う霙の中を、近づいてくる人影。
名を呼ばれて少し気恥ずかしくて、私はうつむいてしまったけれど。
もういちど顔をあげ、彼をみつめた。
再会した日も濡れていた。
彼の金色の髪は、濡れてきっと太陽の香りがする。

「貴方は、傘をお持ちではないの?再会した日も、濡れてらしたわ」

何も言わず私をみつめる彼に触れたいと、心から思った。
懐かしさで、ふれたいなどと、思うだろうか?
答えは。
―― 否。
では、寂しさでは?
答えは。
―― わからない。
それでもいい。
だから、私は霙に濡れて額にかかった彼の髪の雫をゆっくりとぬぐった。
戸惑うように、彼が何故、と聞いた。

「昨夜のことを、過ちだったと思っていらして?」

質問に、質問で答えるのはずるいとわかっていて。
そう聞いてしまった私に彼は言う。
「君への想いが、懐かしさなのか、寂しさなのか。それとも違う感情なのかがわからずにいる」
彼らしい、正直さ。
だから今度は私も正直に言うことができる。

「私だって、この気持ちがただの懐かしさなのか、寂しさなのかわからない。でも、あなたと離れたくないと思っているのも本当なのですよ。朝一番の電車を待つ間、それに気付いてしまったの」

けれども私だけが離れたくないと思っているのなら、こんなに滑稽なことはない。
そんな思いが過ぎった。
だから、

「貴方がそうお思いではないのなら、仕方ありませんわよね」

と。
口にしてから、大人になるというのは、なんて不便なのだろうと思った。
言葉もなく、肌を合わせることはできるようになっても、我を忘れて『行かないで』と言える勇気と身勝手さは、きっと若さにしか存在しない。
手にもった傘を彼に押し付けて踵を返す。
涙が、零れそうになった。

そのとき。
腕をひかれて強く抱きしめられる。
背後で傘が石畳に落ちる音がして。
頬にひとひらの霙が触れた。
目の前にある、彼の胸と、強く回された腕と。
その腕に、はじめて抱かれた気がするのが少しだけ可笑しくて、嬉しくて。
―― 愛おしくて。

「俺も君を。このまま離したくないと、思っている」

己の手を。
彼の体にまわして、身を預けた。
この温もりがあれば。
萌えいずる緑の季節は。
きっと遠くない。


―― 了

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