愁霖の秋

(弐) ―― 秋霖

 


私の職場と、彼が逗留している宿が近いこともあって、それから幾度か私たちは昔話をする機会を持った。
外はあいかわらずの秋霖。
日がたつごとに、雨は冷たくなり、ふたりで向かい合って飲むあたたかな飲み物が愛おしい。

ふたりでする思い出話がこんなにまで自分の感情を揺さぶると、思っていなかった。
ひどく懐かしくて、少し哀しみを帯びて、そして ―― 切なくて。
けれども私は愛おしいとも感じていて。
それは、ひとり秋の日の雨音を聞きながら繰る、本の頁にも似ていた。
彼は、どんな気持ちであの頃のことを思い出しているのだろう。
そして、昔と変わらぬ彼の笑顔の奥に、ひとつ場所に留まることのできぬ彼の孤独を再び垣間見て。
それがひどく、切なかった。
そう、過去の想い出などよりも、ずっと、それは切く私の心を満たした。

いつからか、彼は図書館にも訪れるようになって、 まだ見ぬ惑星の情報を集めて、思いを馳せているようだった。
ある日、彼が見ていた写真集の風景をうしろから覗き込んでみた。
そこにあったのは。

田園を渡る風。
暮れゆく日と、黄金色の麦の穂。
遠くに見える家明かり。

そこから立ち上る干草の香をかぎ、遠く空を横切る渡り鳥の声を聞いた気がした。

これは、彼女の故郷の星ではなかったかしら。
いつか私に、親友が懐かしそうに話してくれた風景、それが長いときを経てなおそこにある。
嬉しく想い、そのことを彼にも話すと、彼が笑んで私を見た。
―― 鼓動が、早くなった。
でもそれは、きっと気のせい。
そのとき何故か私は、そう自分に言い訳した。

それでも私は彼が図書館に来るのを楽しみにしている。
彼が時折語ってくれる惑星の話を聞くのが好きになっている。
そして。
彼の話を聞きながら、ひとつの不安を抱えてる。
いつしか、彼はここを旅立つのだろう。
これまでも、そうしてきたように。
私は、その日が来るのを明らかに恐れていた。

そうありながら、私は考える。
私が彼に微笑を向け、彼が私に笑顔を向ける。
そんな時間を互いに大切に思いながらも。
自分たちが今こうしているのは、ただ寂しいだけなのかもしれない、と。

◇◆◇◆◇

その日。
雨は珍しくやんでいた。
雲の隙間から橙色を帯びた日差しが零れて、秋の風景を、いっそう感慨深くする。
硝子を透かしてその日が入る閉館まじかの閲覧室。
人もまばらなその部屋の窓際に、いつものように彼がいた。
その日差しと同じ金色の髪と、琥珀の瞳と。
その姿から、目をそらせずにいる私がいる。
この時を、このまま留めたいと思っている私がいる。
この図書館にに溢れる、古い、本の香り。
何も伝えぬまま去った遠いあの場所を、いつも思い起こさせていたその光景は、いつしか私の中で新しい記憶を紡いでいて。
彼が旅立ったあと、この場所はきっと私に今日の日の彼の姿を思い起こさせるのだろうと、そう感じた。

この風景を壊すことに名残惜しさを感じながら私は彼に声をかける。
「今日は土の曜日なので、いつもより早い閉館なのですよ」
彼は我に返ったふうに私をみやり、ぼんやりしていた、と詫びた。
手にされた惑星の本に、聞かずにはいられなくなる。
「近いうちに、別の惑星に発つのですか?」
うまく笑顔を作れなくて、私は中途半端に目を伏せた。
そんな私を、彼はどう思ったのだろう?

「ああ、次の目的地が決まったら……すぐにでも」

言葉の中に、彼の旅立ちへの躊躇いがないかどうか私は探そうとしている。
彼に行って欲しくないと、明らかに感じていた。
けれど。

―― この気持ちは、ただの懐かしさか、寂しさか。それとも。

それとも?
唯の寂しさに、決まっている。
人に深く関わるのを恐れてひとり過ごす秋の日が。
ただ、人恋しくて。
思いもかけず出会った昔の知り合いとの別れの寂しさを増幅させているだけ。
彼だって。
あてもなく、何処かに帰るわけでもなく。
気ままと言う名の孤独を背負い渡り歩く星のあいま。
偶然であった古いなじみとの時間が少し珍しくて、いつもより長居をした。
ただ、それだけのこと。

◇◆◇◆◇

閉館と同時に仕事を終えた私を、彼は駅まで送ると言う。
並んで隣を歩くひと。
長雨のあいまの秋の日は傾いていて、風は冷たい。
その冷たさに、恋人同士だったなら、もう少し身を寄せ合ったろうかと。
考えた自分を子供っぽいと思い心の中で苦笑する。
落ちた街路樹の葉を踏む音が、無言の私たちのあいだに、よく響いた。

宿の前、彼は立ち止まる。
「よければ、今日は一緒に夕食でも」
その申し出に、素直な感情のままの笑顔が浮かんで。
けれど、すぐに気がついた。
そうか。
彼は、ここを去ろうとしている。
だから、きっとそれは。
「それは、お別れのご挨拶?」
何ごともでもないように。
「そうかもしれない」
と答えた彼に、私は向けていたほほえみを消さないように努力した。

◇◆◇◆◇




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