愁霖の秋

(壱)―― 懐古

 


この季節、この街では雨が多い。
一雨ごとに秋は深まって、いつしか季節を変えてゆく。
私は勤務先へ向い、雨の中を歩いている。
傘を差して歩く人の波は、深い水底の魚のとおなじ。
何処を目指して歩いているのか、ゆらゆらと朧な印象だけを残して傍らを通り過ぎて。
日々同じ時間にこの道を通るのだから、この中の幾人かとは、そのたびにすれ違っているのかもしれないけれど。
顔を覚えることも、きっと無い。

◇◆◇◆◇

いつも通る、宿の一階の喫茶室の前で、一瞬目の端に移った金色の長い髪の男性が心の奥の記憶に引っかかって。
しばらく歩いてから、私は足を止めて振り向いた。
けれど、硝子窓の内側に、その姿は既に無い。

―― 気のせい、でしたのね。

私はそのまま歩調を速め、図書館へと向った。
煉瓦造りの図書館の中に満ちる、この古い本の香りが好き。
はじめは、その香りに包まれてただ想い出に浸りたかっただけなのかもしれない。
けれど、今は。
こうして書物の中で沢山の物語や遠い惑星の歴史に触れる日々を、いとおしいと感じている。
かさかさとした、紙の感触とすこし埃っぽい革のかおり。
そして頁をめくるごとにあふれだす沢山の言葉。
一冊の本の中には、それぞれの人生が詰まっている。
それは登場人物のものであったり、書いた人の本人のものであったり、滅び去った星に生きた人たちのものであったり。
感動や悲しみや苦しみや恋の切なさ。
私が遠い場所に置き去りにしてきてしまった想いの欠片。
それらを時折その中で見つけ出すその瞬間が好きだった。

返却された本を元の棚に戻すため、台を押して書架へと向う途中。
行き交う利用者の合間、入り口の扉の向うで、中をうかがっている男性が見えた。
彼は雨宿りをしたいけれども、濡れた姿で入っていいものかどうかと、悩んでいる風情だった。
ひとつにまとめた、金色の長い髪。
前髪から雫を滴らせて。
見覚えのある、面影。
今日、道の途中で目の端に映ったひと。

「―― まあ。まさか、カティス?」

思わずかけた声に、琥珀色の懐かしい瞳が驚いたように私を捕らえた。

◇◆◇◆◇

閉館後、喫茶室で私たちは向いあっていた。
聖地を去ってからのお互いの話を少しづつ話す。
彼はずっと、旅を続けているのだと、そう言った。
ひとつ処にとどまらず、気の向くままに、自由で気楽な旅の日々。
その生き方はとても、彼らしいと、そう思った。
ただ少しだけ、言葉の奥に自由と隣り合わせの彼の孤独を感じた。
でもそれは。
きっと、あの地を去った人間の共通の想い。
私だって、ひとつ処に留まっていても。
結局深く人と付き合うのを避けている。

「あれからの ―― あの場所はどうだった?」

そう聞かれた。個性的な九人の中で、いつも気配りをしてくれた人だったから。
彼にとってそれは当然気になっている事柄だったろう。
あの場所の彼らのことを思い出して、あいかわらずでした、と答えると彼はとても複雑な顔をした。
「それは、喜んでいいのかだろうか、それともしょうもない奴らだと、言うべきだろうか」
「その判断は、お任せします」
私たちは思わず笑ってしまう。
変わらない彼らを、全く仕方のない人たちだと呆れながらも、その彼らがどうしようもなく懐かしく、いとおしい。
きっと今でもあいも変わらずなのだろうと思う。
―― いいえ。変わったかもしれない。新しい、女王と補佐官の下で。
だから、苦労しているかもしれないと友人を忍ぶ彼にそう伝えた。
そう、きっとあの人は大丈夫。
苦労することはあっても、あの陽だまりの似合うおっとりとした笑みを浮かべて、あのひとは日々を過ごしているのだろう。
そして傍らには、きっと彼を支えてくれる人がいる。
それで、いい。
ようやく口をつけた珈琲は、ちょっとだけ苦く感じた。

「―― あの方は、今?」
彼にとって、私の友人である彼女の名を口にするのは、やはり抵抗があるのかもしれない。
すこし、戸惑って結局名でなく『あの方』と言った彼が少し微笑ましい。
「元気にしていますわ。彼女がいるのは主星ですけれど、時折手紙のやり取りをしていますの」
「そうか、それは、良かった」
そう言った彼の様子が、少しだけ愁いを含んでいた。
彼女の、報われなかった想いを彼はきっと知っているのだろう。
そして彼は、あの場所に置いてきた私の気持ちをも、知っているのかもしれないと。
そう感じた。
結局伝えられなかった私の想いを。
古い本の香りに満ちた、日のあたる執務室に置き去りにしてきた想いを。
昔から、鋭い人だった。
穏やかな眼差しでいつのまにか、心の奥を見透かすような、そんなひと。
言い訳のように、口から零れる言葉。

「何もかも、昔のことですのね。こんなふうに、思うときが来るなんてあの頃は想像もしませんでした。いまはただ、すべてが懐かしいと、そう思います。もっとも今日あなたに偶然会わなければ、日々にまぎれてこうして思い出すことも無かったのかも」

ああ、でもこれは本心でもある。
「懐かしいな。本当に ―― 」
そう言ったひとの琥珀色の瞳があまりに深くて。
私は目をそらして窓の外を見た。
秋霖が音もなく、紅に色づいた街路樹を濡らしていた。


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