少年時(しょうねんのとき)



机の上にひらりと古ぼけた封筒が落ちたのは、次なる光の守護聖に己の部屋を明け渡すべく整理をしていた時であった。
差出人の名は私である。宛名を見て、なんとも言いようのない苦笑にも似た笑みが浮ぶのを感じた。
遠く幼い少年の時、出せぬままに机の奥に仕舞い込んだ、それは懐かしいたった一行の手紙である。


   すまなかった。


我ながらぶっきらぼうな手紙だとは思う。
()し、今の若い者たちがこの様な手紙を出したのであったら、即刻礼儀と言うものを諭さなければならぬと考えるであろう程の内容だ。
まあ、私としたことが若さ故に、ということだろう。
宛先は、そう。私より先んずることわずか半年前、この聖地を去ったあの(・・)闇の守護聖である。
今ごろどうしているのやら、この地を去った者の宿命であるかのごとく、その消息はわからない。
いや、調べようとすれば簡単なことではある。
ただ、それをしないのはこれからもここで人々と違う時を生きなければならない私達の、 逆説的なただの感傷なのだろう。
もっとも、近いうちにここを出ようとしている私にはこの理屈は通らないのであるが。
あやつのことだ、どこででもひょうひょうと、あいも変わらずやる気なさそうにしているに違いない。
だいたいにして、あの男は……(作者註:長いので略)
まったくの根拠も無しに、けれど明らかな確信を持って私は思った。
まあ、よいだろう。ここでぼやいたところで何が変わると言う訳でもないのだから。
私はずれてしまった思考をもとに戻すかのように、手紙に目をやった。
片付けの手を休め、うららかな陽射しのあたる椅子に腰掛けると、私は昔のことを思い出しはじめていた。


私が聖地に訪れてしばしの時が流れ、守護聖としての任にも慣れ、最年少ながら他の諸先輩方にも、 認めてもらえはじめたと思っていた頃の事である。私にとって悲しい、ある出来事が起こった。
それは五歳と言う年でこの地に訪れた私を、 時に父のように、時に兄のように優しく導いてくれた当時の闇の守護聖殿との別れである。
いつかは来ると解っていたことではあった。
しかしあまりに突然な別れに動揺し、 私は彼の代わりに訪れた新しい闇の守護聖に八つ当たり以外のなにものでもない言葉を浴びせてしまったのである。

―― おまえが闇の守護聖などと、絶対に認めない!

後悔はすぐにやってきた。
どだい誇りを司る光の守護聖たるこの私が一時期の感情に任せて、 人にあらぬ言葉を投げかけて不快な想いをさせてしまったなど誰が許しても自分自身が許しはしない。
一瞬の怒りは落ち着いてくるとすぐに深い後悔と謝罪の意志へと変わったのである。

―― 先程は済まなかった。お互い未だ幼年の身、共に助け合って女王陛下にお仕えしよう

こんな言葉を用意して、私は隣の闇の守護聖の執務室の扉を叩こうとした時、 部屋から話声が聞こえてきたのである。
ぼそぼそと小さな声は新しい、黒髪に深い紫水晶の瞳をした闇の守護聖の声であろう。
もう一つ聞こえてくる声は、私の次にこの聖地で若く(といっても随分年の差はあったが)、 この地を去った前任の闇の守護聖と同じくいつも私を気にかけていてくれた、 兄とも慕う当時の夢の守護聖であった。
青年守護聖の声が言った。

《この水晶球は、まるで月のように美しいな》
応じる幼い、こころなしか嬉しそうな声。
《前任の闇の守護聖さまも、同じことを言ったよ……『月のように美しいね』って、言ってくれたの》

部屋の中のやりとりを聞きながら、自分の心を細い棘がけれど深くちくりと刺したような気がした。
ふたりの会話は執務室の中で続いている。

《そなた、もしこの聖地で慣れぬようなことがあれば、いつでも私の所に相談にくるのだぞ》
《……ありがとう》
《では、手始めにこの聖地を案内(あない)するとしよう》

どうやら、私は部屋にはいる機会を逸してしまったようだった。
いや、この時部屋に入り、用意していた言葉を言ったなら、 なんの問題もなくその後三人で聖地を巡り、テラスで楽しくお茶でも飲んだかもしれない。
問題は中にいるふたりではなく私の心にあったのだ。
如何に幼いと言えどもそれに甘えず、独り自らの足で立つべきと思い身を律してきた。
だからこそ幼いながらこの聖地で守護聖として務めているこの私を、誰もが立派だと言い目をかけてくれたのだ。
なのに何故今、あのなにもできそうもない少年がこうして皆に甘やかされ面倒をみられているのか。
胸を満たす不快な感情。
それから逃れるかの如く、私は自分の執務室に駆け戻った。
しばらくして、隣の部屋の扉が閉まる音がして、ふたつの足音が廊下を遠ざかってゆくのを聞いた。
この後の自分の行動は、思い出すと今でも心が痛むほど深い後悔を私に与える。
だが、あの時の私は、そうせずにはいられなかったのだ。
主のいない執務室はひっそりと静かだった。窓は厚いカーテンに覆われ闇が辺りを包んでいる。
その中に、ひとつ淡く光りを放つものがあった。
私にはすぐにこれが(くだん)の「月のような」水晶球であることが解った。
水晶球に手を伸ばす。ふれたそれは、ひやりと冷たかった。

ぽちゃん。
静かな森に悲しい水音をたてて。
美しい水晶球はきらめきゆらめき、蒼く透通る湖の水のなかへととけるように沈んでいった。
その光景は、私の罪の意識さえもとかすほどに美しく、だからこそ逆に心がきりきりと痛むのを感じた。
なぜ、私はこんなことをしてしまったのだろう?
初めて会った時の、彼の不安げな紫水晶の瞳が思い浮かぶ。
母から引き離されて、遠くひとりこの地に赴き不安でいるであろうあの新しい闇の守護聖の気持ちは、 誰よりも一番自分が知っているはずなのに。
なのに何故だろう?
「正しいこと」でないことが解っていながら、そうしてしまった屈折したその時の感情を
『嫉妬』
と呼ぶことを知っているほどには、私はまだ大人ではなかった。

その後、私は眠ることができないまま一夜を明かした。
執務にもいつものように身が入らない。
今朝、執務室に入って水晶のないことに気づいた彼はどうしたであろうか?
ひとり、執務室で黙って泣いているだろうか?
あるいは夢の守護聖殿にでも紛失した旨を伝え、なぐさめてもらっているのだろうか?

堂々巡りの思いを廻らしながら耳を澄ましても隣の部屋からは、物音ひとつしなかった。
苛々の原因はわかり過ぎるほどわかっている。
幾度かの逡巡の後、私は執務の書類をしまいこむと、終に彼に宛てた一通の、しかしこれ以上にないほどに短い手紙を書いたのである。

すまなかった。

と。
こんな手紙を彼に渡したところで私の罪が消える訳でもないし、彼が許してくれると思った訳でもない。
ただ、この泣きたいまでにもどかしい気持ちから、開放されたいとそう思っていた。
犯した過ちはやり直せない。だからとにかくこの先で償わなければいけない。
そのためにはまず彼に謝ることだ、思ったのである。
素っ気無いほどに短い文章は、素直になれなかったというよりも、 どう書けば良いかがわからなかったと言った方が良い。
だいいち自分の起こした行動の理由さえわかっていなかったのだから。
手紙をつかんで立ち上がった時、静かに部屋の扉を叩く音がした。
入ってきたのは ―― まさに今、自分が訪ねようとしていた闇の守護聖だったのである。
このとき、私は何故か(今でも不可解な行動だ)慌てて手にしていた手紙を机の中にしまった。
そして、心持ち厳しい口調で彼に問う。
《何の用だ?》
戸惑い気味に彼は言う。
《……執務室に置いてあった……水晶球が今朝から見当たらないの……どこにあるか、君は知らない?》
戦慄が身を走った。
今、彼に真実を告げて、すまなかったと詫びなけれないけない。
さあ、言うのだ。すまなかった、と。
幾度も幾度もそう言う声が心の中に聞こえた。
永遠にも想える一瞬の戸惑いの後、私が口にした言葉は意志とは全く逆のものであった。
《何故、私がそなたの水晶球など知らねばならないのだ》
こう告げた私に彼はしばし何か言いたげにこちらを見ていたが
《……そう、だよね……お仕事の邪魔をしてごめん……》
そう呟くと部屋を出ていった。
彼の後ろ姿を見送りながら、私は、 今夜も後悔で眠れそうにない。そんなことを考えていた。

夜、想像通り寝台に入っても目の冴える私が仕方なく起きだし居間で本を読んでいると、ひとりの客人が館を訪れた。
それは、闇の守護聖のに仕える者であった。
彼は闇の守護聖様がこの時間になっても館に戻らない、そう私に言う。
同じ年頃の私の所に遊びに来てそのまま泊まり込んでいるのでは、そう思い訪ねてきたそうだ。
残念ながらここには彼はいない、そう伝えると彼は他の場所も探してみると言って慌ただしく館を後にした。

闇の守護聖は、まだ水晶球を探しているのではないか。
私は即座にそう思った。
そして私はそのまま急いで森の湖へと向かったのである。
彼がその場所を知っているはずがないと思いつつも何故か、彼はあそこにいる。
私は確信していた。
十六夜のその日、月は未だ姿を見せず森の中は闇に覆われていた。
時折吹く風が気味悪い音をたてて樹の枝を揺らしている。
幼い私は流石に恐怖を禁じ得なかったがそれでも私はその奥へと向かった。
―― 果たして到着した森の湖に彼はいた。
膝まで水に浸けながら、彼は水底を探っている。
私が言った。
《何故、そこに水晶球があると思うのだ?》
突然かけた声に驚く風でもなく、彼はゆっくりとこちらを向き静かに言った。
《占ったら、ここにあるって》
《水晶がなければ占いはできないのではないか?》
《水晶がなくても、カードで占えるから……》
《では、そうまでして探す必要などないではないか》
《……でも、あれは、母さんにもらったものだから》
この言葉を聞いた瞬間、いままでにも増して後悔とも自責ともつかぬ想いが身を貫いた。
そして、次の瞬間には、私はこう言って湖の中に足を踏み入れていたのである。

《……私も共に探そう》

この時の、彼の不思議そうな顔が忘れられない。
なぜ?と、見開かれた紫水晶の瞳がそう言っていた。
もしかしたら彼は、その占いとやらで水晶が行方知れずになった本当の理由を知っていたのかも知れない。
私は何故かそう思った。
知っていて、彼は私を責めることをせず、黙っているのだと、そう思ったのだ。
向けられた彼の視線にさえ、責めるような色はなかった。ただ、不思議そうに私を見ている。
彼の視線を避けるかのように一心に私は湖底を探った。
そして、彼も何も言わぬまま再び水底を探りはじめた。

どのくらい探していただろう
彼が小さな溜息の後、もう、いいよ、と呟いた。
《きっともうみつからない。占いだって間違っていたかもしれない……だから、もう探さなくていいよ……。 手伝ってくれて、ありが……》
『ありがとう』と彼は言おうとしたのだろうと思う。
けれどこの時の私ほどその言葉に相応しくない人間はいるだろうか?
だが、理屈よりも思考よりも先に、私は彼の言葉を塞いで言った。
《母君から貰った大切なもの、そう簡単に諦められるものではなかろう。心にもないことを言うな。 ……みつかるまで、私はひとりでも探す》
でも、と更に何かを言いかけた彼に堪えられず、私はくるりと向きを変え少し深い方へと足を向ける。
《……危ない……!》
彼の声が聞こえた時は、すでに遅かった。
水底の硬い石を踏んだ拍子に均衡を崩し、私は湖の中へと転倒してしまったのである。
慌てて駆けよってきた彼が手を貸してくれ、どうにか起き上がったものの再び今度は彼さえも巻き添えにして、 我々はは転倒してしまった。
《だ、だいじょうぶ……?》
濡れてびしょびしょになりながら彼は聞いてきた。
《大丈夫だ。大事無い。あそこにあった石で滑って……》
言いかけたまま黙った私を不審に思ったのだろう。
彼も視線を私と同じ方向へと向けた。
十六夜の月がようやく西の空に昇り湖面を幻想的に映し出している。
ほの明かりの中、我々は目を凝らす。
私が踏んづけてひっくり返った石のあった辺りの水の底、微かに光を放つものは、そう。
―― 水晶球

《見つけた!》
《……みつけた……!》

同時に叫び、拾い上げる。
と、その時岸から我らを呼ぶ声が聞こえた。
振り向けばそれは夢の守護聖であった。
おそらく、彼の所にも連絡が行き、この幼い守護聖達を探していたのだろう。
《そなたら、びしょぬれでないか》
迷いもせず湖に足を踏み入れ、我らふたりの手をそれぞれに引いて岸へ向かいながら彼が呆れたように言った。
《そなたら、この夜中に水泳の練習か?しかも服を着たまま》
随分と心配したであろう彼の声は、 けれど少しも怒ってはいなかった。それどころか、笑みさえも含んでいる。
改めて自分たちの姿を確認すると、 確かにふたり、ぬれねずみのように全身水をしたたらせ、彼の黒い衣装は兎も角も、私の白い衣装などは 目も当てられぬほど泥まみれになっていた。
しかし、なぜであろうか。いつもなら『誇りを司るべき私がこんな姿を』と嘆くところであったはずなのに、 隣の少年と顔を見合せたとたんふたりして笑い出してしまったのである。
《そなた、すごいかっこだな》
《きみだっておなじだよ》
《宝捜しのようで楽しかった》
《うん。たのしかったよ》
笑い出した私達。
彼の手の中では水晶球が十六夜の月の影に照らされてぼんやりと不思議な光を放っている。
夢の守護聖殿は何も聞かず微笑むと、仲良うなってなにより、なにより。と嬉しそうに頷くと 自分の上着を我らにかけてくれた。
そして我々を自らの館に招いて、温かい部屋で、温かい料理をご馳走してくれたのである。

館の主が奏でる胡弓(こきゅう)の音が静かに流れる中、聖地の夜はやさしく更けてゆく。
天にかかる月は、ふたりで探した水晶球のように美しかったのを覚えている。


あれからどれだけの時が過ぎたのか。結局、詫びを書いたこの手紙を彼に出す機会を私は逸してしまったのである。
その後の少年時代を私達はそれなりに仲良く過ごしたが、更に時が立つと相反する力を司る者たちの宿命かの如く 私達は疎遠になった。
何も知らず、ただ共に遊んだ幼い日は遠い記憶のうちに淡くぼやけ、いつしか忘れ去った。
兄のような人はこの地を去り、あの時の少年もすでにこの地にいない。
そして、今、私自身がここを去ろうとしているのだ。だというのに。
―― そう、あの時のことを私はまだ謝っていないのだ。

《…… でも、一緒に探してくれたでしょう?》

突然、かけられた声。私は我にかえる。
自分の部屋の椅子に腰掛けていた筈の私は、その光景に驚いた。そこは森の湖であった。
おそらくは、あの時の。
夢を見ているのであろうことは解っていた。
それでも、私は少年に問い掛けた。

「やはりそなたは、私がしたことを知っていたのか?」

そして私は言う。今度こそ。
すまなかった、と。
少年はにっこりと微笑み言った。
その笑みは、私に謝罪の必要などないのだよと、そう伝えているかのような笑みだった。

《ありがとう。一緒に探してくれて、ありがとう。 ねえ、聖地の月は今日も水晶みたいに綺麗だね……》

そして、彼の姿は不意に掻き消えた。
私が彼の名を呼ぼうと思った瞬間、とっぷりと暮れた聖地の自分の部屋の椅子のうえで
うたた寝から私は目を覚ましたのである。

温かい陽射しはいつしか月影に変わり、私の足元を霜の如く白々と照らしている。
それは光であるというのに、夜の闇にやさしく交じり合い滲んでいた。
―― 長い間、我々を隔てていた光と闇の相反する力。
既にそれはない。
今、この時になって私達はまたあの幼い日のように、あの者と話すことができるのではないか、
そんなことを思っている。
まあ、根本的に性格は違うにせよ、だ。
私は(こうべ)を上げて窓の外の月を仰いだ。
月の光は不思議な色合いを呈している。

聖地を出たらまずはあの懐かしい友人に会いに行くとしよう。

私はそう想いながら、遠い少年の日から届いた古い手紙を大切にしまった。
窓の外の月は、まるでふたりで探した水晶球のように、今日も美しかった。


勧君莫惜金縷衣 ―――君に勧む 惜しむ莫れ金縷の衣

勧君須惜少年時 ――― 君に勧む 須らく惜しむべし少年の時
(「金縷曲」部分・杜秋)

綾も錦も惜しむに足らず
ただ惜しむべし 少年の時を

〜終

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