蒼穹の空を見上げて

(後編)海に似たこの草原を ―― ユーイ



聖地でさえ、それなりの時が流れた。
私にとっての三度目の女王試験も終わり、幾度かの危機や試練はあったものの、この神鳥の宇宙の星々はつつがなく廻り、新たな聖獣の宇宙も安定し、新たな守護聖も無事九人そろった。

ある日を境に ―― 五白の墓前の出来事を境に ―― 時折、ひとりこの草原で仰向けになる時がある。

彼は、結局青く広がる本物の海を見ることなく逝ったのだろうと思う。
故郷に立ち寄り、メイファン殿を訪ねた先で桃花(タオホア)殿に出会い。
そして、彼は再び故郷の草原へ ―― そう、草原へ還ったのだ。
風のように自由に、誇り高く自らの意思を貫いて。
草の、海へと還っていったのだ。

―― 海を見れないままくたばるようなことがあったら、未練だなぁ。

冗談で言った言葉だったとしても。
彼の魂が光りに導かれ再び蒼い空を見上げることができるのであったなら。
どうか、その魂には美しい海で存分に泳いでみてほしいものだと思った。
漸くそう思える自分が、ここにいる。

そして、その魂は、風に靡く草を見て、わけもなく懐かしいと思ったりするのだろうか?

―― いいさ、わかんなくたって

そうか、わからなくても、いいか。
ふと涙が零れそうになる。
長い間泣くことを知らずにいた私の涙腺はやはりあの日を境にこうしてときおり緩む時がある。
だが、それがいけないことだとはもう思わぬ私がいる。
懐かしいと思い、悲しいと思い、亡き者を悼む気持ちは人として。
決して間違ったことではあるまい。
少しだけ滲んだ涙に反射して、太陽がまぶしかった。

―― 太陽が、まぶしいや

そして知った。
あの日、琥珀のような金色の瞳を細めて、唐突に太陽がまぶしいといったエドゥーン。
彼は、涙を、こらえていたのか。
今ごろ、気づくとは。
それが微かに切なく、そして滑稽で。
私は、思わず声をあげて笑ってしまったらしい。
おそらくはその笑い声を聞いたのだろう、唐突に驚いたような声で話し掛けられる。

「うわっ。びっくりした。ジュリアス様も草原にねっころがったりするんだな!
意外だがなんだか嬉しい気がするぞ」

その声に、私が逆に驚いた。
快活そうな服装、意志の強さと飽くことのない探究心を秘めた、琥珀のような瞳が太陽を背に私を覗き込んでいた。
ユーイと言ったか。
聖獣の宇宙の新しい。

―― 風の、守護聖。

驚きながらも、彼はひどく嬉しそうな表情をしていた。
このような姿をみられて、既に威厳を保つわけにもいかず、身を起こしてからとりあえず私は尋ねる。

「そなたは、何故、ここに」
「えっと、用事があってきた。でも、その用事はもう終わった。
あとは、向うの聖地とどう違うのか知りたくていろいろ歩き回ってたら、ここまできてしまったんだ」
「歩いて、ここまで来たというのか」
正殿からは、ずいぶんの距離があるはずだ。

「いや、歩いては嘘になるな。嘘はいけないとじいちゃんが言ってた。走っての方が正しい ―― です」

とってつけたような最後の一言に、苦笑する。
それに、歩いても、走ってもさしてかわりがない。いや、走っては、驚きに値するか。
「無理して、敬語を使わずともよい。もちろん、自然に使えるようになればそれに越したことはないが」
そう、ぞんざいな言葉遣いのものなど、こちらの聖地にとて山ほどいる。
そして、向うの聖地にも。
そこまで考えて、首座の守護聖というもののあり方に思い至り、軽い眩暈を感じた。
そんな私をよそにその少年は丘を見回している。
そして、言った。

「この風景、なんだかちょっと懐かしいぞ」

嬉しそうな少年の瞳、その金色の。私には、その色が。
その色こそが、無性に懐かしく感じた。だが、それが何故なのかはわからなかった。
「―― 故郷に、似ているのか」
「そうか、似てるかもしれない」
「広い草原、が、か」
「いや、こんなに広くない。でも町のはずれの岬の上の丘に似てる。
この風に吹かれてると、何処までも飛んでいけそうな気がするところが同じだ。
でもダメダな、丘の向うに海がない」

―― 海

風が、草と光をはらんで舞った。
そして風にゆれる草がまるで波のように。
その姿に、ある言葉を思い出す。
『草海(ツァオハイ)』

「何処までも続く草原を『草海(ツァオハイ)』―― 草の海というらしい。この丘の草原の広さでは足りぬかもしれぬが、だが、海に見えぬこともないと思わぬか」

言葉を確認するように彼はあたりをしばし眺めたあと満面の笑みを浮かべた。
「ジュリアス様、すごいな!そういわれるとそんな気もしてきたぞ」
素直な少年につられて、私も思ったことをそのまま口にしている。
「そこまで感動されるといささか反応に困る。だが、まあ、よかろう」
少年は笑んで、真似してみよう、と草原に仰向けに転がった。
『真似』といわれては、守護聖らしくない振る舞いと、注意するわけにも行かない。
傍らには、大の字に転がって、空を仰ぐ金色の瞳の少年。
なびく草に、遠い喉歌(ホーミー)が聞こえた気がした。
それは、ただの風の音か。

彼が、唐突に呟く。

「あれ、太陽がまぶしい」

その理由に思い当たるところのある私は、つい、言っていた。
「涙が、でたからか」
言い当てられて彼は少しだけ動揺しているようだった。
「な、なんでわかったんだ?ジュリアス様、やっぱりすごいぞ」
経験があるからだとは、流石に言えなかったのだが。
「そっか、わかった。経験があるんだな」
いとも簡単に見透かされた。
だが、その口調はわずかなりともからかうような含みを持たず、ただ正直に彼の認識を述べたに過ぎないようであった。

「なんだか懐かしくて、涙が出た。
ああ、なんだかすごく懐かしいぞ。海はないけれど、この草と空と風が凄く懐かしい。
そうだ、じいちゃんが言ってた。みたことないのに懐かしいのは、魂が昔その風景を知ってたからだって」

魂が、昔?

引っかかった言葉をおしのけて、聞いていた。
「故郷が、懐かしいか」
「懐かしくないといったら、嘘になる。でも新しい世界を見たくて決心して聖地に来た。後悔は、してないな」
迷いなく言い切る少年が微笑ましかった。
それに、と少年が続ける。

「ランディ様に言われた。
別れを惜しむより、これからある出会いを楽しんだ方がずっと前向きだって。
オレもそう思う」

ランディが。
その言葉は、かつて彼が去りゆくものから伝えられた言葉であったはずだ。
彼もまた、去ったものの意思を継いで自らを高めようと日々成長している。それを頼もしく思った。
人の想いとは。
こうやって受け継がれていくものなのだろう。
同時に気付いた。
ああ、そうか。あの瞳の色は、彼と。
そう考えた私の傍らを、草の香りを乗せて風が駆け抜けてゆく。

もうしばらくそうしていたい気もしたが、そうもいかぬので私は立ち上がる。

「私は馬でここまで来たが、そなたはどうする。徒歩(かち)が辛ければ、馬に乗せてもよいが」
彼は眉の根を寄せた。話す言葉もさることながら、その表情も実に素直だ。
「野郎をふたりのせたら馬に悪いから歩く」
「馬車を嫌うと聞いたが」
聖地入り初日、馬車から逃げ出してひと騒動起こしたと、耳にしていた。

「ああ、狭いのは嫌いだ」
憮然として少年は肯定する。ここで、立場とそれに相応しい所作というものに説いてもよいのだが、私は別の方法を提案する。
「ならば、せめて乗馬を覚えてはどうだ」
瞬時に、彼の表情が明るくなった。
「馬か!それは面白そうだな。オレにできるかな」
「そのつもりで練習すればおのずと乗れるようになろう。そなたが望むのであれば教えてもよい」
「わかった。あ、でもいまはダメダ。もっと守護聖としてきちんとできるようになってから、余裕ができたら教わる。それでいいか」

正直、守護聖として云々できるようになるに、膨大な時間がかかるのではないかという懸念がある上に、それ以前に馬車も使わず徒歩(かち)で移動することが、守護聖としてそもそも相応しくない。だが、この少年の向上心に免じて、いまは言わずにおこうと思った。

「馬を教わるお礼に、俺にできることだった教えるぞ。泳ぎは、得意だぞ。ジュリアス様は、泳げるか?」
今度は私が憮然となる番だった。
「―― 経験がない」
「そうか、泳げないのか。ちょうどいい」
「泳げぬ、とは限らぬ」
「経験がないのに、いきなりできるわけがない」

それは、いつか交わした会話に似ていた。
魂が、昔。
思わず、呟いた。

「似てるな」
「似てる?誰かにか。オレが?」

―― エドゥーンに
「…… ゼフェルに」

彼の知らぬ名を出すことにためらい ―― それだけの理由かはわからぬが ―― 思わず、彼と同じ年頃の少年の名を挙げた。
「なっ、どこが?ぜんぜん似てないと思うけどなあ。
ゼフェル様ってなんだか、いっつも怒ってて、オレきちんと話ができたことないぞ」
「そうだな。だが、乱暴な言葉遣いの奥をみたなら、存外素直で真っ直ぐな少年の姿が見え隠れする。
その部分が、そなたに似ているように思う」
それは、でまかせでは無く、真実私が思ったことでもあった。

「でもオレ、誰にも似てなんかないぞ。オレはオレだ。草の海は海に似てても海にはなれない」

その言葉に、自然と笑みが零れた。
「そうだな。それで、よいのだろう。そなたはそなたらしくあればいい」

エドゥーン。
風の中の友人に、私は語りかける。

―― 縁がありゃまた逢えるかもしれねぇ。遠い未来に

もしかしたら、そうかもしれぬ。
だが、そうかどうかはわからぬ。永遠に。

―― いいさ、わかんなくたって
―― そういうものか
―― そういうもん

そうか、そういうものか。
私は蒼穹の空を見上げた。
太陽がそこに、燦々と煌めいてて、舞う風に草は波のようにゆれる。
馬の嘶きが、遠く響いた。


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