蒼穹の空を見上げて

(前編)この草原に似た海へ ―― エドゥーン



「やはり、ここにいたのか。エドゥーン」
いつもの草原の丘で、いつものとおり彼は仰向けに転がり空を見ていた。

「ああ、この草原の丘も、空も見納めだかんな」

そう言った彼の声は拍子抜けするほど明るく陽気だった。
「ランディには伝えられることは伝えた」
「そうか」
私は頷く。その表情は、少し硬かったかもしれない。
彼はそれに気付いているのか、気付いていないのか。変わらぬ口調で続ける。
「ああ、すこしホームシック気味だったけど心配ねえよ。あいつは。
別れってのはいつだって新しい出会いと対になってるとおもわねーか?
だから、そう伝えた」

次代の風の守護聖への引き継ぎは既にほぼ終了した今。
時を待たずして、彼はこの地を去るだろう。
正直、彼の退任がこれほど早いと私は想像だにしていなかった。
任期期間を考えれば確かに早すぎる退任ではない。しかし、身体的年齢で言えば、彼はまだ十代なのだ。
この地を去るのなら、私のほうが早いに違いないと、そう思い込んでいた。

「しめっぽいの嫌だぞ。泣いたり、すんなよな」
おどけて言う彼に私は言い返す。
「くだらぬことを。私が泣くと思うか」
そう、それはありえないことだと自負している。それが私のあり方なのだと。そんな私にエドゥーンが笑った。
「素直じゃねーなぁ、あいかわらず。ま、いっか。そのほうがおめえらしい。
別れを惜しむより、これからある出会いを楽しんだ方がずっと前向きだよな。
会えなくなったって、オレと、おめえら ―― 既にいねえ奴等も含めて友人であるこたあ、かわんねーから。
だから、オレも泣かねぇ。これから見る新しい世界を、楽しみにする」

別れを惜しむより出会いを大切にしろという、それは彼の持論だ。
理屈ではわかっていた。ただ、今私の心を満たす想いが哀しみであるというのなら、その理屈に感情がついていっていないのかもしれない。
もっとも、私はその感情を表に出す術を知らず、別れに涙することもあるまいと思う。
見上げた空に聖地の日は高くあって燦々と照っていた。
「太陽が、まぶしいや」
彼はそう言ってその琥珀のような金色の目を細める。
さきから仰向けになっているのに、何を今更太陽を眩しいというのか。
そう不思議に思ったが、特に尋ねたりはしなかった。
その答えに、私はずいぶんと後になってから気付くことになる。

「あー、空に抱きしめられてる気がする。
でもって、世界を抱きしめてる気がすんな。
世界は、無限だっ!こうして太陽の光を浴びてるとなんか勇気が湧くぜ。
何処までも遠く、飛んでいけそうな気がする。おまえの光の力のおかげかもな」

彼は仰向けのまま盛大な伸びをし、そしてじっとしていられないといった風情でじたばたと手足を動かした。
勇気は、光ではなくそなたの風だと、言いそうになったが彼のいいたいことも何処となくわかる気もした。
前へ向って歩き出すための力を。
この見上げた空から体一杯に受け止めて、彼はいま新たな旅立ちに備えているのだろう。
迷うことを知らぬ奔放な風のような彼であっても、不安でないはずが、ない。
友人の性格からしてさして思い悩むことはなかったとしても、五歳から過ごし、すでに故郷とさえ呼べるこの地を去るにあたり胸に飛来する想いとはどのようなものなのか。

「聖地を、去ったら何処へゆくのだ?」

そのとき私は、未来の自分を重ねでもしたのだろうか。不安になり、彼に聞いていた。
彼の返答はあいも変わらずあっけらかんとしている。
「んー、あんまり考えてねえ。でもいろんな所行って、いろんなもの見てまわりたい。
オレ、ほとんど聖地しかしらねえから、もっと広い世界を見てみたい。守護聖としてじゃなく、ひとりの人間としてさ。星に生きる人たちに出会って、その世界を感じてみてえって思ってる」
「そういえば、いつかも、そう言っていたな」

聖地の中しか知らぬ故に、彼はいつも外の世界に憧れていた。
とはいえ、私の、知る限りでは守護聖という立場を疎むことは無かったように思う。
そのことをとある機会に尋ねたら、なろうと思ってなれるものでないからトクをした、とあっさり言い放った。
いつか外の世界を見てまわるのは、この地を去ってからでも遅くない、とも。
そうであるなら、この別れは彼にとって望んでいた未来への第一歩なのかもしれぬ。
別れの寂しさが消えたといえば嘘になる。
けれども、この地を去ったあとも風のように自由である彼を想像し、思わず笑みが零れた。

「そうだなぁ、でもまずは故郷の星に戻ってみようかって。あとは美幻の奴を訪ねてみよう」
「メイファン殿を?」
「まだくたばっちゃいえねえだろ、きっと。あいつのことだ、ぜってー聖地がどんな様子か今でも気にしてる」

くたばっていない、などと悪態を吐きながら結局彼はこの地を去ったかつての友等を心配しているのだ。
それ以前に去ったもの達に関しては、言及しないところを見ると行方をつかめなかったのか、あるいは。
―― 間に合わなかったのか。
私の考えをよそに、彼は続ける。

「もっとはっきり言やあ、あいつが気にすんのはおめえとクラヴィスが上手くやってるか、だけどな」
「そなたはあいかわらず、歯に衣着せぬ物言いだ」

だが、それを聞くこともなくなるのか。
「おめえ、もっと感情や心情を表に出せ。オレはおめえが何も言わなくてもわかるけど、もう、傍にはいれないかんな」
その言葉が、私に突き刺さった。
何も言わなくても伝わる友人など、人は、得ようとして得られるものではない。
この先、私は。
少し弱気になったところに、意外な名が挙がる。

「クラヴィスのこと、本当は頼りにしてんだろ?」

ありえぬという思いで、むきになって否定した。
「そのようなことはないっ!」
「あー、そんなに必死に否定しても無駄。オレ、言っちゃったもん」
「何をだっ」
いかにも悪餓鬼といった風情の笑みを浮かべる彼に、嫌な、予感がした。

「…… ナイショ」

「言わぬかっ」
つい、大きな声が出た。彼は聞こえてる、という風情で行儀悪く耳のなかを指で掻く仕草をする。
「へいへい。クラヴィスに、あいつはおまえのこと頼りにしてるんだからって」
「!!」
「あいつ、『知っている』っていってたぜ」
「!!!」
「結局、素直じゃねえだけなんだよなー。ぜってー損してるよ、おめえら」

当人に言った、だと?しかも、知っているだと?あの男は!
頭を抱える私をよそに彼は声をあげて笑った後、ふと真剣な顔になった。

「オレ、おめえの親友のつもりでいるけど、でも時たまおめえとクラヴィスとの絆にはかなわねえって、そう思うときがある」

「そのような ―― 」
ことがあるはずがない、言いかけた私を無視して、彼は唐突に、起き上がり叫んだ。

「そうだ、海!」

「?」
「オレ、海が見たい!」
「何の話だ。いきなり」
「いきなりじゃねえよ、さっき聖地を去ったら、何処へ行くのかって聞いたじゃねえか」
たしかに、そうであったが、話の展開が急すぎる。
彼らしい、とも言う。

「『草海(ツァオハイ)』っていう言葉があるんだ。草の海。
風にゆれる草を波に喩えて、故郷の草原のようなところをそう呼ぶんだけど、オレ逆に本物の海ってきちんとみたことねえよ」
「視察で訪れた街にはなかったか?」
「あるときもあったけど、じっくり見たことねぇ。オレ、泳いだこともない。ジュリアスは、泳げるか?」
「―― 経験がない」
「んじゃ、泳げないんだな」
「泳げぬ、とは限らぬ」
むっとして答えた私に、泳いだ経験がないのと泳げないのは同義語だと彼はけらけらと笑った。

「よっしゃ、決めたっ。故郷に行って、美幻とこ行って、んで、そのあとは海の綺麗な惑星を探してそこで泳ぎの練習をする!」

仁王立ちし、腰に手を当て、もう片方の手は空に向って突き上げる。
彼の退任後のとりあえずの予定は、無事決定したようであった。
「美しい、海が見つかるとよいな」
「ああ、海を見れないままくたばるようなことがあったら、未練だなぁ。故郷に行く前に海優先にしようかなぁ」
「―― 縁起の悪いことを」
私はつい、眉の根を寄せた。

「そうでもねぇだろ。人間いつどうなるかわかんねぇよ。
それに、この地を去ったら、お前たちにとってはあっという間の時間でそういう日はくる」
それは知っている。けれど去りゆく彼の口からそれを聞くのは切なかった。
彼は再び仰向けに寝転がる。そしていつものように私を促したので、かるくため息をついてから、彼に付き合い仰向けに転がる。
―― これも、最後だ
そう思った。

「人は、いつしか闇に抱かれて、そういう日がくんだな。
けれど、またいつか光りに導かれて再びオレは蒼穹の空を見れんだよな。
そして、青い澄んだ海を見るチャンスも。
んで、
―― 縁がありゃまた逢えるかもしれねぇ。遠い未来に」

言った彼の言葉の答えを、私は知らぬ。
しかし仮に未来にその魂と出あったところで。

「それではそなただとはわかるまい」
「いいさ、わかんなくたって」
「そういうものか」
「そういうもん」

草原に、風が舞い翔けてゆく。
何処までも自由に。

「―― おめえのように誇り高くありたいと思う。何処までも。
前を見て進んでいきたい。
おめえの友人である自分自身に、恥ずかしくないように。
だから、迷った時があったら、オレ、空を見上げる。
この草原の光をこうして受けとめた今日を思い出す。
そうだよな、下向いてても、答えは落ちてねえもんな」

何処までも風のように自由な友人。
私は、彼のあり方を羨ましいとさえ思っていた。
だから。
その彼が『おまえのようにありたい』と言ったことが意外だった。

「そなたは、そなたらしくあれば十分だ。そう、そなたは風のように自由で、そして十分に誇り高い」

私の言葉に、そっか、と彼は嬉しそうに言った。
「でも、おめえ、誇り高いのはいいけど、あまりひとりで悩みすぎんなよ。
おめえには理解してくれる奴が、いるんだから ―― オレ意外にも」

そなた意外、誰がいるというのか。
言葉にできぬまま眺める蒼い空。
それがわかったかのように彼は呟く。

「ああ、聖地の空は今日も青いな ―― おまえの目の色みたいに」

雲が流れて、太陽が隠れ、また姿を現す。
ただふたり、仰向けに寝転んで蒼穹の空を見上げていた。
エドゥーンの喉歌(ホーミー)が響く。
その独特な歌声は、そもそもは岩山を吹き抜ける風の音を真似たものだという。
高く、低く、懐かしいような、もの悲しいような、それでいてほっとするその旋律。
懐かしいのは私の魂が、私という個として生まれいずる遥か以前にこの歌を聴いたことがあるからなのかもしれない。
歌声と風と空と草原と太陽につつまれて、私は目を閉じた。

―― ひとりで悩むな

彼の忠告を反芻する。
そう、だな。多くの仲間がいる。彼らをもっと頼ってもいいのかもしれない。
淡い別れの哀しみが心を満たしたが、反対に凝っていた頑なな感情は溶けていく気がした。
いつも、そうだ。
この友人は、いつもこうして傍にいるだけでほっとする。
そして、これからも。
遠くにあっても。
どこかで風のように自由である彼を思えば、いまのこの気持ちを思い出せるのだろう。
馬の嘶きが聞こえた。


ずいぶん、長い間そうやっていた。
「あっ」
唐突に彼が起き上がり、あたりを見回す。
「しまった、ウグルがいない」
ウグルとは、彼の愛馬の名だ。
「手分けをして探すか?」
「いや、いい。ほっときゃ館に帰るよ。あいつは」
「しかし、そなたはどうする。私の、馬に乗るか」
だが、それでは少し、重量オーバーか。
「馬に悪いから、二人乗りはしたくない。それに、鞍は好きじゃねぇ」
彼は、乗馬の名手で鞍のない裸馬をやすやすと乗りこなす。
「では、歩いて帰るとでもいうのか」
「いや、走って帰る。おまえも付き合え」
呆れた私をよそに、彼の表情は本気のようだった。
「冗談を申すな。私は馬で帰る」
「つめてーなぁ。いいじゃねえか。最後っくらい付き合えよ」

最後。その言葉に、私は逆らえず、結局、私たちはその丘から徒歩で帰った。
私は自らの愛馬を手で引いて。流石に走る気にはならなかったので、歩きだったのだが。
それも今となっては、懐かしい ―― そう、ようやく懐かしいと思えるようになった、想い出である。


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