草原の風

(弐)―――野分〜のわき〜


風が強く吹いた。木々を掻き分けて激しく通しぬける風―― 野分(のわき)
穏やかなはずの飛空都市に、その強い風が重苦しい暗雲を運んできた。
終に、長い間宇宙を支えてきた女王の力が滅び行く宇宙に耐え切れず、費えたのである。
そして、その時まだ、次代の女王は決定していなかった。

「アンジェリークが次元の狭間に置き去りに?」
王立研究員からの報告に守護聖全員が息を呑んだ。
エリューシオン視察の途中であったのだろう。彼女の乗っていた遊星板は突然次元の歪みに襲われ、姿を消したのである。
原因は勿論、女王のサクリアの消失であった。
彼女を救うには、女王の力が必要だ。しかし、それが無い。ないからこそ、この事件である。
事件を巡る解決の策はなかなか浮ばず、ただ堂々廻りを繰り返すばかりであった。

「エリューシオンはあとひとつの建物で中央の島に到達します。 今、大陸に力を送り、アンジェリークが女王の力に目覚めれば、或いは……」
自らの力で、次元の狭間より脱出することができるのではないか、と、ディアが言った。
確かに、どちらにしろ急遽次期女王の決定が必要である。
フェリシアは発展しているとはいえまだエリューシオンに及ばず、サクリアを過分に注ぎ急いで中央の島に到達させるには『安定した大陸の発展』という面でどうしても不安が拭い切れなかった。
「今、エリューシオンで一番必要とされている力は何だ?」
ジュリアスがパスハに問う。
その答えが返る前に、オスカーが言った。
「俺の力を。……エリューシオンに。そうすれば、彼女は女王となるはずです」
心なしか苦しげな言葉に、クラヴィスが幽かに眉をひそめ、
「……それで、……おまえは本当に良いのか?」
と、小さく呟くように云う。
確かに聞こえたであろうが返事の無いオスカーに、 愚かな、と再び呟くと彼は衣擦れの音だけを残してその場を去っていった。
その姿をジュリアスは咎める事をしなかったが、普段なら考えられないその出来事に気づき、不信に思うものはこの火急の時には誰ひとりとしていなかった。

そのまま、炎のサクリアが大陸に与えられることに決定した。
そして、オスカーたっての希望で、その後、エリューシオンに現われるであろうアンジェリークの救出も彼に一任されたのである。
「オスカー」
ジュリアスが、静かに、けれど有無を言わさぬ威厳をこめて、研究院に向かおうとしていた炎の守護聖の名を呼ぶ。
「わかっておろうな。彼女は女王候補、いや、すでに次期女王陛下であらせられる」
その蒼穹の瞳の奥にすべてを察しながら、だからこそあえて厳しくあろうとする彼の心が見えた。
それ故に、母国の始祖と同じ名を持つ光の守護聖に対して彼は答える術をもたない。
下を向き黙っているオスカーにジュリアスは重ねて言う。けれどその言葉ほど、オスカーにとって意外なものはなかった。

「残酷だと思うか」

はっとしてオスカーは(おもて)を上げ光の守護聖をみつめた。
だが、彼の彫刻のような顔には、感情の揺らめきは見えない。
けれどもオスカーは知っていた。
それが彼自身の在り方であり、誇り高さであるのだと。
外からは決して計り切れぬ彼の内側にある幾つもの葛藤や矛盾、そして痛みと悲しみ。
それをすべて圧し留め、己の正しいと信ずる道をたとえ傷ついたとしてもゆくことのできる
―― 心の強さ ――
今、この時に在って、だからこそ女王陛下と共にこの光の守護聖に対しても惜しみない忠誠を捧げる事ができるのだろう、と思う自分がいる。
そして更に思う。強さを司る自分に、その強さはあるのだろうか、と。
そんな事を考えながら、オスカーはただ、言葉も無く一礼するのが精一杯だった。

また(・・)、大切なものを失うのだろうか。

アンジェリークを救うべく王立研究院へと向かい馬を走らせながらながら彼はそう思った。
何時の間にか風は更に強くなり、降り出した雨が彼の体に激しく叩きつける。
アンジェリークが無事であっても、その時はすでに彼女は女王である。
どちらに転んでも、自分は彼女を失うことになるのだ。
心が、激しく痛んだ。

―― また?
あの時のように?
心を過ぎるのは、苦い、遠い記憶だった。
守るべきものは何であるのか。大切なものは何であるのか。
俺は再びその選択をさせられるのか。
―― だとしたら、尚更、彼女は死なせはしない。決して。
たとえ、手の届かない人となったとしても、彼女は俺が守る。今度こそ。
彼の脳裏に、花に囲まれ、草原の風に吹かれる愛しい少女の姿が浮んだ。
そしてもう一度、彼は思った。
―― 死なせはしない。決して。

◆◇◆◇◆

王立研究院奥の間で、目を閉じ、彼はサクリアをエリューシオンへと注ぎ込む。
濡れた紅の髪から幾つもの雨の雫が滴り落ち、大理石の床に小さな水溜まりをつくっていた。

炎のサクリアよ、願わくは、エリューシオンとそして俺の最愛の人になにものにも負けぬ強さを!

体が熱く(たぎ)るのを感じる。
紅の炎の光の渦を吸い込んでエリューシオンには最後の建物が建ち、島へと到達する。 そして、アンジェリークが女王として目覚める ――

ほとばしるサクリアを己の身に感じながら、彼は幻を見ていた。
アンジェリークが微笑んでいた。
彼女の背に煌く純白の翼。
それは世界を抱いていた。
彼女の微笑みは慈愛に満ちて、すべてを許すように宇宙に眼差しはそそがれる。
その姿を見た時彼は感じた。
―― 俺の咎も彼女によって許されるのかもしれない ――
その時、彼女の姿はふいに風のように消えてしまい、その次の瞬間、目前に遠い風景が甦った。

遥かなる草原、懐かしい故郷。
寥々(りょうりょう)と渡る風
(ひるがえ)る緑の草は見渡す限り続く
馬は穏やかに草を食み
人々は喜びを、悲しみを、それぞれに抱き、祈り、生きている。
あの惑星は確かに今も有る。
けれど彼の愛した祖国は、もう存在などしなかった。
遠い昔。
大きな戦いがあった。
家族も、友も、……かつて愛し、忠誠を誓った女も、皆、風に散って草原の大地に還っていった。
唯、自分だけが、この異郷の地に連れられて、血塗られた剣と共にここに在る。
祖国が滅んだのは時代の流れであった。
そして、彼らはその時代に殉じて逝ったのだ。
新しい時代の礎となるために。

本当ならあの時、自分も彼らと共に戦いぬいて、今ごろはあの草原の土になっているというのに。

聖地からの呼び出しが彼の命を救ったのだった。
―― 逃げた。
そう感じずにはいられなかった。
自責の念が、いつも彼の心を満たしていた。
その咎を、いつも背負って生きているように感じていた。
あの時、自分はどうすべきだったのだろう。どうすれば良かったのだろう。
どうすれば、後悔せずに済んだのだろう。
己の行くべき道を見据えて選んだ結果であったろうか。
己の選んだ結果に、たとえ傷ついても正しかったのだと思えるだけの強さが自分にあったろうか。
幾つもの問いを、幾度と無く繰り返しこれまで生きてきた。
けれど、今ようやっと思う事ができる。
俺は見守っていくのだ、あの草原のゆく末を。
正しかったのか、過ちであったのか、決して目をそらさずそれを見極めるために。
女王となったアンジェリークと共に、これからも。

◆◇◆◇◆

次元の狭間で女王のサクリアに目覚めたアンジェリークはその類希なる強大な力で滅び行く宇宙を新しき宇宙へと導き、宇宙は救われた。
そしてオスカーがエリューシオンの中央の島で彼女を見つけたその時
彼女は既に、今迄の少女ではなかったのである。

「陛下、お迎えに上がりました」
人払いをした大陸の神殿の一室。
オスカーは膝を付き、礼をする。その肩が、幽かに震えていた。
「オスカー様……私……」
「エリューシオンは中央の島に到達致しました。既に貴女は、女王陛下に在らせられます。もう、私に敬称などおつけになりませんよう……」
止めて!
小さな悲鳴のような声が部屋に響く。
アンジェリークは膝を付き、頭を下げたままのオスカーに寄り添いその氷のように鋭い色の瞳をみつめた。
何時も気丈な彼女の瞳が微かに潤んでいる。
愛する人のその目に滲む涙が、己の選んだ道の結果なのだ。
そんな想いが心を過ぎり、乾いた喉のさらの奥に焼け付くような痛みと何かに塞がれるような、言いようの無い圧迫感を感じている。

『残酷だと思うか』

ジュリアスの言葉が甦る。
それは今、彼が目の前の少女に対して言う言葉に相応しいのかもしれなかった。

何故、彼女なのだろう?
何故、女王なのだろう?
何故、守護聖なのだろう?
――何故、愛したりしたんだろう?
そうでなければ、こんなに心は、痛みはしなかった。
目の前にいる愛しい少女
寄り添った体から伝わる温もり
手を伸ばせばすぐに、この(かいな)(いだ)くことができるというのに……

「――もう、運命は変えられないのですね」
何も言えずにいるオスカーの耳に届いたのは、そんな静かな、声だった。
「でも、この想いも変えることは私にはできません」
凛として、声は室内に響く。
「だから、教えて下さい。オスカー様の気持ち、私に教えて下さい。
私は、――貴方を愛しています」

次の瞬間
何かを言おうとした自分自身の言葉より先に彼はアンジェリークの腕をつかみ乱暴に引き寄せると、その唇に自分の唇を押し当てていた。
ただ、感情のままに舌で唇を割り、少女の舌に自らの舌を絡めてどこまでも、どこまでも深く接吻する。
こんなにも近くにふれあって、(いだ)き合い、切ないまでに愛しい人の体温を体に感じている。
なのにふたりの距離は、もう永遠に等しいほど別たれているのだと、 そのことを彼等は痛いほどに感じていた。

長く、切なく、激しい接吻の後、ふいに、オスカーがアンジェリークの体を引き離した。

「すまない……」
アンジェリークの肩をつかんだまま、オスカーは顔を背けている。
「何故、謝るのですか」
すでにその返答を知っている彼女の問いに
「……君は……いや、あなたはもう……」
絞るような声が続いた。
「女王だから、謝ると?謝る理由が在るとしたら、ひとつだけです。
―― あなたが、私を愛していないのにくちづけをしたのなら、謝って下さい」
その瞳は、涙に濡れながらも、何処までも凛としていた。
その時彼は感じた。
彼女のこの瞳を自分は愛したのだと。そして、宇宙も彼女のこの瞳を愛したに違いない、と。
「アンジェリーク……!」
オスカーは強く、強く、アンジェリーク抱き締める。そして、囁いた。

「愛している」

「それなら、謝ったりなんかしないで。……お願いです」
彼女のその囁きは、彼の心に言いようの無い痛みと、切なさと、甘やかな想いを同時に与えた。
そして、再びふたりは、切ない恋人のくちづけを交わし、二度と得ることの出来ないであろうその温もりを心に刻みつけた。

◆◇◆◇◆

その後聖地に戻ったふたりには、正式な即位は明後日であると伝えられる。
ただ、本来明日であったそれを延期するように計らったのがジュリアスであることまでは、彼等の知るところでは無い ――

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