草原の風

(壱)―――飛風〜はやて〜


彼はこの風景が好きであった。
そこは、聖地の中心からすこし外れた丘。
どこまでも草原が続き、渡る風が紅の髪を燃え盛る炎の如くなびかせてから、草を分けて遠くへ去ってゆく。
それはどこか彼の故郷に似た風景であった。
郷愁に駆られる、などと言うことは強さを司る彼にとって認めたくもない事実であったが、度々遠乗りと称してここを独りで――ここに来る時はいつも独りだ――訪れる理由はやはり『郷愁』なのであろう。

草原の風は、野に立つ(ほむら)から生まれる。
それは時に野焼きの野火であり、時に狼煙(のろし)の炎であり、また時に、生活の営みの(ほむら)でもあった。
その炎で熱くたぎった大気が冷たい大気へと流れ込み風となるのだ。
いつも彼は想う。

この焔より生まれた風はいったい何処に行き着くのだろう?
人々の祈りをのせ、想いを運び、そしていつか辿りついた、その先は。
その先は……?

彼はその答えを知らない。
少し冷たくなってきた風が彼の蒼い外衣を音をたてて(なび)かせる。
しばしそのまま佇んでいたが、ふいに踵を返し、ひらり栗毛の愛馬にまたがると彼はそれを駆ってその場を去って行った。

◆◇◆◇◆

その少女は金の髪をなびかせて嬉しそうに花を摘んでいた。
いつもひとりで来る草原。
何故、彼女をここへ連れてきたのか。
連れてきたいと思ったのか。
オスカーはわからずにいる。
いや、わかっているのかもしれないがそれを彼の理性が拒否していた。

―― ただ、この風景を彼女に見せたかっただけなのだ。
自分の故郷にもにた、この草原を。
それとも、この草原にいる彼女を見てみたかったのかもしれない。

少女を守るように見つめ、彼は嬉しそうに目を細める。そして思った。
とどめておきたい時ほど、早く過ぎ去るものなんだな。
と。
少しづつ、でも確実に日は傾き、草の上に、一刻、一刻長くなる影が落ちる。黄昏の暫し手前、大気は淡い黄金に色づきはじめている。
彼女と出逢ったばかりの頃、こんなことは思いもしなかった。
なのに、どうだろう。
目の前にいるこのひとの、目を奪われずにいられないこの彩やかさは。
まいったな、この俺が、こんな、お嬢ちゃんに。
しかも。
心の奥に響いた声は、その他の事とは比にならない程、重くのしかかる。

しかも、彼女は、女王候補だ。

突然、風が巻き起こり、少女が摘み、手にしていた花を散らしその花びらを天高く舞い上げる。
「あ……」
アンジェリークは飛風に舞い散る花をみあげて、感嘆のため息をついた。
ひらひらと降りてくる花弁にみとれている彼女自身、華になってしまいそうな。
何故か、その時、少女が消えてしまいそうな錯覚にとらわれて
オスカーは、少女を強く後ろから抱きしめそうになる。
その細い身に伸ばしかけた腕。
だが、寸前のところで思いとどまり気付かれぬように強く拳を握った。
そして口にはいつもの笑みをうかべて、いつもの台詞を言う。
それは、自分自身をとどめ置くための、彼なりの方法なのかもしれない。
「そうやって、華に囲まれたお嬢ちゃんは一段と魅力的だな。
お嬢ちゃん自身が、まるでこれから零れおちるほどに咲き誇ろうとする、大輪の華のようだ」
軽口の中に込められた青年の真の想いに、少女は気いているのだろうか、屈託なく微笑む。
そして次の瞬間、凛とした様子で応じた。

「華、ですか。でも、私は、華よりもそれを散らしたこの風になりたい。
なにものにもとらわれず、自由に草原を駆ける、華よりも彩やかな、この風に」
寥々(りょうりょう)とふたりのわきを通りすぎ、草原の草を分けてゆく風を目で追う。

「ちいさい頃から、私、いろんな所をみてみたいって、思っていたんです。この広い宇宙には、いったいどれだけ私の知らない風景があるのかしら、って」
時に華のような儚さを見せるかと思えば
時に翔けぬける風の如く清々しく、凛々とした少女の横顔。
「なかなか、好奇心旺盛だな。お嬢ちゃん」
その少女の目の輝きを眩しく感じ、彼はつい茶々をいれる。
アンジェリークは素直に頷くと悪戯っぽく微笑んだ。
「そうなんです。どうせなら、男の子に生まれて、星と星の間を旅するような、そんな仕事についてみたかった」
本来、男女の差別はないのだが、宇宙空間の長期飛行は体に良いとは言えない。
特に女性は不妊を引き起こす等の症例がみられ、その手の仕事は基本的に男性のものであった。
「でも、お譲ちゃん、君は女王候補だ。女王になれば、そのすべての星々を導く事になるんだぜ?」
自分の言葉に痛みを感じながらもオスカーはおくびにも出さずウィンクしてみせる。
「……そう、ですね」
そう応えるアンジェリークはどこ悲しげだったが、オスカーはそれに気付かないふりをした。

女王になれば、知らなかった宇宙のすべてを知ることになる。
生まれくる星
滅びゆく星
遥か何億光年先の星の風景
そしてそこを通り過ぎる飛風の色さえも。
そうしたら彼女は知ることになるのだろうか。
草原で生まれた風の行きつくところを。

「知っているかお嬢ちゃん、草原の風は炎から生れて旅をするんだ。だが俺はそのゆく先を知らない……」

遠くを見つめふと呟いた青年の言葉の奥、普段決して表に出ない彼の悲しみを垣間見たように思い、少女は微かに心が痛むのを感じた。
常に自信に満ちたように見えるこの青年の中の、時折揺らめくこの迷いのようなものはなんなのだろう。
少女はそれを知りたいと思った訳ではない。
ただ、できることならばその迷いをいつか断ち切るために、この人と共に風の行く先を見守る事ができたなら。そうしたら、どんなに幸せだろうか。
そんな思いをいだいていた。

「どっちにしろ、せっかくこんなに可愛いお嬢ちゃんが、『男だったら』なんてもったいないこと言うものじゃないぜ?」
あっという間にいつもの調子にもどっている彼の言葉にアンジェリークは
零れる華のように笑う。そして沈みゆく夕日を真っ直ぐにみつめ言った。
「そうですね。在りのままに、私は私でいたいと思います。……どんな時も」

帰り道、栗毛の馬の上、青年の腕の中で少女がその温もりにどれほど切なく心をときめかせていたかを、彼は知っていたのだろうか。
腕に触れる少女の温もりに青年が切ない痛みを感じていた事に、彼女は気づいていただろうか。

少なくともその時吹いていた、常春とは言え冷ややかな宵の風が
ふたりにとっていささかも冷たく感じられなかったのは、事実である。



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