雪譜

(参)―― 雪華〜せっか〜


◇◆◇◆◇

翌日の夕刻。
やんでいた雪が解けるのを待たずにふたたびひらひらと舞いはじめた。
ひとり、クラヴィスは庭に出る。
潸々と降る雪。
その姿に昨日のジュリアスではないが、どこか己を失いそうになると彼は思った。
それは華のごと、いや。
―― 白い、天使の羽根のようだ。

アンジェリークに想いを告げようと思ってはみたものの、躊躇するうちに夕方になってしまった。
―― もう、エリューシオンからは、戻っていような……。
これ以上遅くなっては寮を訪ねるにも非常識な時間だ。
雪華舞う空を見上げて彼は思う。
あの、西風の名を持つ少年のように、不器用ながらも想ったことを口にだせたならどんなに楽か、と。
しかし、そのためにはあまりに長い間、心の奥に雪は積もり、根雪となってかたくなに凍りつきすぎてしまったのかもしれない。
―― いや、私はただ、臆病なだけ……か? 傷つくことをおそれてただ、外界との関わりを避けているに過ぎない。
それならそれで、何も求めずにいればよかった。
それなのに。
彼女を。
―― 私は見つけてしまった。
心の疼きに痛みをこらえるような表情で目を、閉じる。

「クラヴィス様、大丈夫ですか?お加減でも悪いのですか?」

ききなれた、少女の声にはっと、目を開き、言葉を失う。
ひらひらと舞い落ちる雪華の中、一輪の紅の山茶花を手にしてたたずむ少女。
その背には、純白の羽根さえみえる。
もちろん、それは、雪の見せた幻であったのだが。

アンジェリークは心配そうに瞳を覗き込んだ。
「なんでもない、大丈夫だ……」
その返事に彼女は安心したのだろう。元気にしゃべり出す。
走ってきたのか、息を切らし、頬が紅潮している。
「今日は、エリューシオンも雪でした。華にそれが積もった景色があんまり奇麗で……つい、こっそり持ってきてしまったんです。……クラヴィス様にも、おみせしたくて」
うっすらと雪をかむった紅の山茶花はどこか艶めかしい。
乱暴にあつかえば、その花弁はすぐに散ってしまうだろう。
「…………」
言葉が見つからずに。
アンジェリークをみつめたまま黙っているクラヴィスの様子を勘違いしてかしゅんとなって少女は言う。
「……やっぱり、勝手に持ってきてはいけませんでしたね。しかもお屋敷にまでおしかけて……女王候補失格ですね……私」
その言葉に、クラヴィスは観念したように天を仰ぐ。

―― もう、迷うまい。失ったとて……なにもせずにまた、後悔の日々を送るよりは……

そう決心した瞬間。
自分でも驚くほどに穏やかな微笑みが浮かんだ。
そして硝子細工を扱うようにそっと少女の頬に手をあてる。
ずっと外を走ってきたのだ、その頬はひんやりとして冷たい。
驚いてこちらを見つめているアンジェリークの耳元に彼は囁いた。

「ならば……女王候補など、やめてしまえ。……おまえは、私のそばに……ずっと……」

ため息ともつかぬ、幽かなささやき。
音無く降る雪にさえかきけされそうな。
しかしその声は確実に彼女の耳へ、心へ届いていた。
驚きから、喜びに少女の表情が変わる。
頬にあてられた長い指を自分の手で包み込み、零れんばかりの微笑みを浮かべる。
そして、一言。
「……はい」
とだけ言って、恥ずかしそうに目を伏せた。

あまりの愛おしさにクラヴィスはアンジェリークをそっと抱き寄せる。
これから花開こうとする少女をけして、散らさぬよう、そのかいなで守るかのように。
「いつからだろうな……私はずっと……おまえを……おまえだけをみていた……」
そういってつややかな金の髪をやさしくなぜる。
腕の中の確かな体温。
さっきまでの自分が嘘のように感じられた。
「私も、ずっと、クラヴィス様をみていました……」
腕の中、消え入りそうな声で言う少女。
その言葉を紡いだ紅い唇にやさしく自分の唇をおしあてる。
すべてが氷解していくような、甘い、くちずけ。
―― そう、私の心に凍り付いたものを、この少女は一瞬にして溶かしてしまったのだ……。

アンジェリークの手から、山茶花が零れ落ちて紅の花弁が雪の上に潸と散った。
ちいさな白い手がクラヴィスの背にまわされる。

恋人達の上に、雪は、華のように、羽根のように。
潸々と、潸々と降りつづけていた。


―― 終

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