雪譜

(弐)―― 雪明〜ゆきあかり〜


雪はいつのまにかやんでいた。
到底積もるように見えなかった細やかな雪は、見事にあたりを一点の曇り無き純白に変えた。
顔を出した月の影がその雪を蒼く浮かび上がらせている。
恐れをいだくほどに神々しく、そして冷ややかな厳しさを備え、それでもどこか優しさを感じさせる風景。

「……今宵の沈黙は破られた、か」

窓の外。
嫌になるほど神々しいこの雪景色にも似て。
純白がこれ以上ないくらいに似合う古い同僚が雪明かりに照らされながら颯爽と馬を駆り、こちらへ向かってくる姿が見えた。
クラヴィスは軽くためいきをつく。
―― 屋敷まできて説教とはあれもよくよく諦めが悪い。
ジュリアスの用事がなんであるか聞いたわけでもないのに、説教と決め付ける当たり。
彼にも多少の罪悪感があったものかどうか。
それは謎である。

◇◆◇◆◇

「……今日はめずらしい客が多い」
長椅子に気だるく腰掛けたまま、入り口も見ずにそう呟く。
「元気そうだな」
部屋に通されて、ジュリアスは言った。
サボりなのはまあ、察しがついていたがいちおうこの寒さで風邪でもひいたか、とも思ってみていたらしい。
「……おまえがくるまではな」
元気そう、との言葉にクラヴィスは皮肉を返すと、喉の奥をならしてこばかにしたように笑った。
―― これをみていると、つい、こういう態度をとってみたくなる。
ある意味、昼間の少年達よりも単純きわまりなく、次の反応が手に取るようにわかるのだが、おそらくそれに当人は気付いていない。
光の守護聖の額にうっすらうかんだ青筋をちらりとみやって、彼はわざとらしく尋ねた。
「……で、何の用だ……?」
いつもならここで「だいたいそなたは……」と説教開始なのだがジュリアスは書類一揃いクラヴィスに渡し、月の曜日までに目を通すように、とだけ告げた。
そして次いでワインの瓶を差し出す。
それは。
聖地では知らぬもののいないカティスのワインである。

「マルセルから預かった。昼間の礼だそうだ。ふたりで飲んでくれ、と」

実はあのあとマルセルは例の小鳥をジュリアスの許可を得て聖地のへと放った。
聖地ならまだ、雪が降る確率は低く、小鳥も無事すごせるだろうという推測の元に。
しかし礼のワインを二人で一瓶、というのは。
『たまにはあの二人に、酒でも飲みながら話す機会をつくってやってくれ』
というカティスの入れ知恵を忠実に守ってのことだ。
もちろん、そんなことはこのふたりの預かり知らぬところではあるが。
せっかくのワインをなんでこいつと、といまいち憮然としながらも忠実にふたりで飲もうとするところがいかにもジュリアスらしいといえば、らしい。
「……たまには……こういうこともあろうな。……肴はないぞ……」
とクラヴィスはくつくつと笑うとグラスを二つ用意し、その芳醇な液体を注ぎ込む。
蝋燭と暖炉に燃える炎のわずかなオレンジの光と。
窓からさしこむ月光を孕んだ雪明かり。
それをあつめてグラスの中で紅のワインが静かに煌いた。
クラヴィスの向かいの椅子に腰掛けて。
それをみつめるジュリアスも心なし穏やかな表情をみせ、応える。

「―― そうだな、肴はこの雪としよう」

酒を酌み交わしつつ、交わされる会話はなかった。
時に庭の雪をめで、時に互いの杓をする。
険悪なのではない、ただ穏やかに時間は過ぎていった。

「不思議なものだな」
程好く酔いがまわりはじめたころ、ジュリアスが口を開く。
「そなたとは気の遠くなるような付き合いだが……思い出話のひとつも無いとは。いや、違うか」
「そう、……話す必要も無いだけだ……」
クラヴィスがジュリアスのいわんとするところを察してそう言った。
話さずとも、考えていることくらいはたいてい解る。
世間一般では『親友』とでもいう表現があてはまりそうなものだが。
―― 我らには相応しくなかろうな……。
目の前の古い同僚も、今同じようなことを思っているに違いない。
再び沈黙が訪れたが、またしてもジュリアスによって破られる。

「しかし、これは言わねばならぬ」

いつもは相手の目を見据えて話す光の守護聖が珍しく雪景色を眺める格好のまま話し出す。
「……すまなかったな」
静かに口からこぼれた言葉。
たったそれだけだがクラヴィスには何の事かすぐに解った。
先の女王試験の折りの、森の湖でのことをいっているのだろう。
ふ、と。
笑みをもらしクラヴィスは言う。
「……昔のことだ、もう、忘れろ。……すでに決まっていた運命だ。おまえに咎はない……」
だが、と今度はくつくつと笑い、言葉を続ける。
「よもやおまえからそのような言葉をきくとはな。……雪も降るわけだ……」
ジュリアスも笑みをもらしそれに応じる。
「過ちて、改むるに恥じることなし、とあの女王候補に教わった気がしてな」
失敗しながらもあきらめず、努力する少女の姿に、である。
「そう、か。……だが、おまえは変わる必要はあるまい」
「?」
クラヴィスの言葉にジュリアスはいぶかしげな視線をむける。
「すべてが瞬く間に過ぎ去り、変わるこの宇宙の中で。一人くらい変わらない石頭がいた方が……安心する……」
石頭。
そう評されて。
「―― それは誉め言葉か?」
すでに青筋にリーチがかかっている状態でジュリアスが問う。
その様子を見て、わずかに楽しそうににやり、と笑うと
「さあ……そのままの意味だ……」
とだけ言って、クラヴィスは窓の外を見たまま黙った。
一呼吸おいて、青筋リーチを解除するとジュリアスは唐突に言う。
「アンジェリークがそなたを心配していたぞ」
それは昼間、ランディからも聞いた台詞である。
黙ったままのクラヴィスに、ジュリアスは続けた。
「あの時は、そなたの言う通りなら、運命は決まっていたのだろう。だが、今はまだ、運命は決まってはいまい?」
クラヴィスが眉をひそめて腐れ縁の同僚を見る。
その視線を蒼穹の瞳で受け止めて。
「アンジェリークの笑顔を見たい者は、存外大勢いる、ということだ」
そう言って彼は立ち上がった。
「長居をしたな。書類は目を通しておくように」
部屋を出ようとする彼を目で追いながらクラヴィスは呟く。
「……やはり、雪が降るわけだな」
その言葉に、光の守護聖は笑みを零す。
「いや、どちらかと言えば、雪のせい、ということにしておこう。さっき、そなたも申したろう。『たまにはこういうこともあろう』と。幻想的な雪明かりにさしものわたしも多少は血迷う」
「……自分で、言うか……」
「どうやら、明日も雪のようだ。ではな」

◇◆◇◆◇

窓から同僚を見送り、ひとりのこったクラヴィスはためいきをつく。
―― 明日も雪、か。
脳裏には昼間のゼフェルの言葉や、さきほどのジュリアスの言葉が浮かんだ。
明日は土の曜日である。
そして、彼は。
アンジェリークがエリューシオンから戻った頃に、彼女を尋ねてみる決心をする。
我ながら、めずらしいことだと、彼自身そう思った。

―― 明日の雪は、私が降らすのかもしれぬな。

窓の外の雪明りはただ、蒼い。

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