静夜思君不見

梨花歌~(最終話)華燭夢



何故、自分はここに立っているのだろう。
そう思った。
いつもの梨木の下であった。
その花は何故か、いつもに増して艶やかに美しく見えた。

―――?

なにかが違う。
そう思い、辺りを見回してみる。
そこにはただ、透明な蒼い闇に白い梨の花びらが 潸々と舞っている。
そして気付く。
これは現実では無いと言うことに。
夢を見ているのか。
そう思う。
そして

愛しい人を想う心がこの夢を見せているのだ

とも。

逢いたいと思った。
逢ってそのひとにふれたい。
その黒髪に指を絡めて。
その唇にふたたび自分の唇を重ね、いだき、いだかれたい

ひとりの人間として
そのひとを愛したい

女は強く心に思った。
その愛しいひとの名前を。
美幻……!
    男は強く心に思った。
その愛しいひとの名前を。
梨華……!
と、その時
自分の愛するひとを目の前に確認し、信じられぬ想いでふたりは言う。
「「何故、そなた、こんなところに?」」
同時に同じ言葉を話してから
「「そうか、これは幻か」」
と、また同時に納得する。

あまりの緊張感の無さについ、ふたりは声をだして笑ってしまう。

美幻が言う。
「遠い古に、強い想いは夢を渡る……と言うが、これはそれか……?」
梨華が言う。
「われらは……おそらく同じ夢の中におる」

そして、ふたりはそっと、いだき合う。

夢ではない、現実の温もりが互いの体に伝わった。

「ここにいるのだな、美幻……」
「ああ、ここにいる。私は、ずっとあなたの傍にあるだろう、ずっと、ずっと……」

これは、確かに幻である。
美しい幻。
けれど、ふたりにとってこれは、幻などではなかった。

美幻の司る夢の力がなせる業か
それとも梨華の力か
はたまた
―――かれらの知らぬ天の成せる業か―――

「夢ならば……言おう。そなたをみたときから、私は囚われていた。
この気まぐれな梨花の精に……花にさそわれ辺りをさまよう胡蝶の如く……な」

「そなたは胡蝶などではない。そなたは東風(はるかぜ)
花をいざないそして散らす……やさしい風ぞ……」

もう、言葉はいらないようであった。
しずかに唇が重なった。

ふいに、木の枝に紅の雪洞が燈る。
華燭

彼らの故郷で、恋人たちが結ばれるそのときに灯される、やさしい光。

灯火はただ静かに、今にも消えそうに、儚く、幽かにゆらめいていた。

ともしびの
消ぬがに見えて
なかなかに
帯び解く(ひま)は燃えまさりつヽ
 
残灯猶未滅
将尽更揚輝
唯余一両炎
纔得解羅衣
(沈満願・上記訳は佐藤春夫)
       ほのかに色づくこの肌に     
愛しきひとのなぞる指      
露にじむとき     
むらさきの     
実れる一房     
果実となりぬ     
 
     浴罷壇郎捫弄処
     露華凉沁紫葡萄
     (趙鸞鸞)
 
 

―――これは遠い遠い昔の…ある幸せな恋物語のひとつと思し召せ。

梨花歌―――終

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