
梨の花は美しく咲いていた。
しかし、その花の下、いつも共に語ったひとは、もういない。
「已去何処愛花人(花愛でる人は何処へ去りぬ)只留残影如春夢(ただ留むる残影春の夢の如し)」
そうつぶやく美幻。
「私は、ここにいる。美幻」
少女の声がした。
梨華が、初めて出逢った梨木のふもとにひとり立ち尽くしていた
美幻に語り掛けたのだ。
梨華。
この名も、もう、呼ぶこともかなわぬのか。
美幻の心が痛んだ。
「貴女は宇宙を導く尊きお方、どうぞ、にどと此処へはおいでくださいますな」
けして視線をあわせようとしない夢の守護聖に梨華は、きっと、視線を向けて言う。
「ここに居る時は女王ではない。ただの梨華じゃ!美幻。そのような言葉づかいをするな」
「同じことにございます。―― 戯れの時はもう、終わり申した」
あくまでも冷静を装う彼に、梨華の黒曜石の瞳が蒼い焔を宿す。
少女が叫んだ。
「戯れなどではない!美幻!わらわはそなたを」
そのとき、美幻は辛そうに目を閉じたかと思うと、今度は怒ったかのような表情で風の如く、梨華の方へ向き直るとその腕をつかみ、自分の胸に引き寄せた。
そして顎を乱暴につかみ上を向かせると自分の唇を押し当てて、その紅の唇を塞ぐ。

結わずにいたふたりの黒髪が絡み合い、馨る終春の風になびいた。
魂さえも吸い取られそうな、激しい接吻ののち、梨華の耳元に、幽かな囁きが聞こえる。
「どうかその先は、おっしゃいますな」
壊れるほどに、いだく腕に力がこもる。
「その先の言葉を耳にすれば、私は」
自分を抑えることはできない。たとえ、この宇宙を滅ぼすことになろうとも。
かつて、この宇宙の女王と自分の故郷の皇が堕ちた道をゆくことになろうとも。
そして腕の中にいるひとが、そのようなことを望んでいないことも、十分わかっていた。
彼女は、確かに生まれながらにしてこの宇宙を統べるべく女王なのだ。
その魂は、どこまでも高潔で、美しい。
一時の恋の情熱で何かを犠牲にしてしまった時、彼女の心はその自責の念に耐えられまい。
梨華を抱いている美幻腕が、幽かに震えている。
彼の拒否さえも、自分を思えばこそ、それとわかっている梨華は力なく言う。
「美幻、すまなかった。私の、我侭につきあわせて。もう、迷惑はかけない」
彼女はとん、と美幻の胸を突き、体を離すと俯きつぶやく。
「『一寸の相思、一寸の灰』さもあろう。だがわらわは、そうは思わぬ。けして」
(恋は燃え尽きて一寸の灰となるから、むやみに燃え上がらせても辛いのみ、の意)
そして、くるり、と踵を返して数歩歩むと美幻に背を向けたまま天を仰ぐ。
その腕を、まるで大空を抱きしめるが如く高々と掲げて。
「とくと御覧あれ。この宇宙、かつてのどの女王より美しゅう導いてみせる。そなたの司る、夢の力と共に。それは」
―― この恋の証ぞ。
最後の言葉は、彼女の心中でつぶやかれた。
そうして、長いつややかな黒髪を風になびかせ肩越しに振り向く。
その笑顔は、
まるで、春の日にあでやかに咲き誇る梨花の如く、美しく、凛として。
その姿に美幻は想う。
―― この世に麗美なるもの数多にあれど、この梨花に勝るものなし。その類希なる潔さと、高貴さよ。

一瞬の笑顔の後、梨華はもう、振り向かずその場を後にした。
華のような、愛しいひとはもうこの腕を去った。
これで、よかったのだと。そう思っているつもりであった。
けれど、もうひとりの自分が激しく自分を責め立てる。
なぜ、あの時、私は彼女を抱き締めたまま、永遠に自分のものにしなかったのだろう?
たとえ全てを犠牲にしたとしても……!
切なさに胸が塞がれる想いがした。
心に残るこの痛みは、命ある限り私を苦しめるようにさえ思える……。
いや、そうではない。この後悔の念は。
最後に自分に会いに来てくれたあの尊き人に、己の弱さ故、この身に溢れる想いひとつ、告げられなかったこと、
たとえ、彼女が手の届かぬ人になろうとも、この想い、変わること無しと、告げられなかったこと。
あのひとは、ああも真っ直ぐに己の想いをぶつけてきてくれたというのに。
「春心莫共花争発 一寸相思一寸灰(春心 花と共に発くを争うこと莫れ 一寸の相思一寸の灰)
梨華、私もそなたと同じ想いだ。一寸の灰となろうとも、咲かせてならぬ恋など、天地の間に在りはせぬ」
この先、ひとり孤高に天を導くひとを、支えてゆこう。
この恋の、一寸の証として。
そう思うメイファンの傍らを、
傾きはじめた太陽に少し冷えた風が静かに通り過ぎ、梨華の移香を消し去ってゆく。
空には早くも細い月がかかり白々とその冷たいながらも清い光を放っていた。
そして、その夜、ふたりは不思議な夢を見る。
それは美しく儚い夢であった。

これは、いつもと変わらない、穏やかな聖地の1日の、1頁の出来事である。
辛苦最憐天上月―――辛苦 最も哀れむ天上の月
一昔如環――――――一昔環の如し

昔々長如夬―――――昔々つねに夬の如し
但似月輪終皎潔―――但月輪に似て終に皎潔ならば
不辞氷雪為卿熱―――氷雪も辞せず卿の為に熱からん
(「蝶恋歌」部分抜粋・納蘭性徳)
辛くもあり、愛しくもあり、天上の月を眺める
昔ふたりで見た月は環玉のように丸かったというのに
いまこの月は夬玉のように欠けてしまった
―― 同じように私達もまた以前と同じようにはいられない。
けれどあなたの心がこの冴える月輪にも似て、冷たいうちにも高貴である限り
私の心もあなたのために、いつまでも熱いだろう
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華燭→結婚式の意味