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静夜思君不見
梨花歌〜(壱)静夜思 P>
ひとりの少年が聖地の門をくぐった静かなその夜、月光は地上の霜の如く辺りを照らしていた。 少年は年の頃なら十五、六。整った顔立ちにまだ若いながらも知性を宿した黒曜の瞳、つややかな黒髪。 その前髪の一房が何故か白い。 主星ではついぞ見かけぬ、異文化の香りを漂わす衣類を身につけ典雅に歩むその姿は、実際の年齢より少年を大人びてみせていた。 彼の名前は 新しくこの地に召された夢の守護聖である。 前任の夢の守護聖の姿はもうこの地に無く、とりあえずその館で今夜は過ごすように、と伝えられていた。 明日からこなさねばならぬであろう雑事を思い、メイファンは広い見知らぬ館でとりあえず眠りに就こうとする。 そのとき、中庭に繋がる窓からさし込む月明かりが冷え冷えと、寝台を照らし、ふいに少年の心に すでに断ち切ったはずの郷愁の想いを浮かび上がらせた。 遠き故郷に別れた父母、恩師、朋友。 彼らは、今何をしており、何を想うているのだろう。 守護聖になることは前から知っていた。その教育も覚悟も十分であったはずである。 土地の官吏の子として生まれた彼は、ゆくゆくは自分も試験を受け、故郷のために尽くすつもりでいた。 しかし、聖地からの使者により、次期夢の守護聖となることを知らされた時、その忠誠を宇宙を司る尊き人に誓うもまた、 自分の生涯のあり方と、その運命を穏やかに受け入れたのである。 胸に迫る郷愁の想いをかかえ、少年はそのまま月明かりに導かれたように庭へと出る。 どうやら月は、満月のようであった。 牀前看月光―――牀前月光を看る ![]() 挙頭望山月―――頭を挙げて山月を望み 低頭思故郷―――頭を低れて故郷を思う (「静夜思」李白) 寝台の前を照らす月明かりは 「な〜んじゃ、もう故郷が恋しゅうなったのか?漢(おとこ)のくせに、情けないのう」 その声に振り向いた時、突然強い風が吹いた。 春の嵐の如くその風は草を分け、木々を音を立てて渡り、中庭に花を咲かせていた白い梨花の花弁を舞い上げる。 月に朧と照らされてその幽幻たるや筆舌に尽くし難い。 こんなところに、梨木が花を咲かせていたのか。 少年はまずその幻想さに驚き、さらにその下に佇む自分と同じ年頃、あるいは少し下の少女に心を奪われる。 濡場玉の黒髪、星の如く煌く光を宿した黒曜の瞳。肌は梨花の花弁の如く白く滑らかに、頬は桃花の紅、唇は紅椿の赤。 ―― 天より降りた梨花の精かと思うてしまった。 その背に、一瞬白く輝く後輪を見たように思い、そんなことを考えたが、おそらく群れる花びらとみ間違えたのだろう。 そう思い直す。 それに。 (清楚で弱々しい美しさの代名詞の)梨花の精にしては、いかにも気が強そうな顔をしている。 と、考えて、つい笑みが零れる。 「なにを笑っておる?さっきまで今にも泣きそうな顔をしておったと言うに」 確かに彼女の耀く瞳も、きりりと結ばれた口元も、そして発せられる言葉も、いかにも凛として気が強そうである。 「泣きそうな顔などしてはおらぬ。そなたの見間違いぞ」 『漢のくせに情けない』などと、同じ年頃の少女に言われては彼もつい、意地をはってしまう。 その返答に少女は、にや。と笑って言った。 「嘘を申せ、先程詠じていた詩はどう考えても郷愁を思わすもの。違うか?」 少年の目が、驚きにみひらかれる。 今話している言葉は主星の言葉であるが、先程の詩は故郷の言葉で詠じたのだ。 その意味を解したということは、彼女は。 それに、あまりに馴染みすぎて気付かなかったが彼女の服装は、主星ではまず見られないであろう筈の、 メイファンの故郷のそれである。 「久しゅうに、故郷の言葉を聞いた。済まなかったな。『漢のくせに』などと申して。故郷を想うは悪いことではない。 親しい者たちにもう逢えぬとなれば尚のこと…実はわらわもな、そなたが同郷と聞き知ってどのような者か興味を持ったのじゃ」 そこまで話して、にっこりと笑う。大人びた物言いをしていた少女が、漸く年相応に見えた瞬間であった。 つられて 「そうであったか。私も同郷の者がこの聖地にいるとわかれば心強い。今後とも、よしなに」 そうして、手を前で組み、軽い会釈をするという、独特の礼をとる。 少女もそれに応じた。 「ところで、そなた、名はメイファンと聞き知っていたが、どのような字を書くのじゃ?」 主星語では、発音しか伝わらない。 少年は微笑み、地に落ちていた枝を取って大地に文字を刻む。 『美幻』 と。 「美しい名じゃな。夢の守護聖に相応しい」 そう誉められて少し照れたか、彼ははにかんで言った。 「女の様だとよう、からかわれもした。しかし、そなたがそう申すのなら、良い名なのであろう。礼を言う」 その言葉に、今度は少女の方がほんのり頬を染める。 「べ、べつに名を誉めただけじゃ。そなたを誉めたわけではない」 「そなたの名は?」 気付かぬの内に、息がかかる程に顔を寄せ合っていたふたりは、重なった視線にすこし鼓動を早くする。 「 少女は小さく答えたかと思うと、ふわり。 風に舞うように身をひるがえすと少し離れた所からメイファンをみた。 まるで、舞い落ちる花びらをこの手につかもうとしても、あまりの軽さにすり抜けてしまうかのような軽やかさである。 「もう、夜も更けた。わらわは、行く」 それだけ言うと、彼女は闇に溶け込むように、去ってゆく。 その後を、つい追おうとしたが、ふたたび強く吹いた風で舞う、噎せるほどの花吹雪に視界を奪われ、 気付いた時はそこに、月明かりに長く影を引いた自分がひとり在るだけであった。 「 あまりに示し合わせたような名に、偽名かもしれないと思いつつ、そんな必要もないだろうに、と考え直す。 それとも本当に、梨花の精だったのやもしれぬな。 夢のような出来事に、そういや自分は夢の守護聖だったな、と思い、つい可笑しくなる。 すくなくとももう、郷愁に眠れないこともなさそうだ、と少年は館に入り、床に就いた。 目覚めたらやはり、夢だと思うのだろうか、 そう考えながら。 ![]() これは、いつもと変わらない、穏やかな聖地の1日の、1頁の出来事である。 ◇「その【3】 ◇「静夜思君不見(目次)へ ◇ ◇ 「彩雲の本棚」へ ◇ |