桜闇夜話 ―― (昔日夜)

夢守の夢



寂寂春将晩 ―― 寂々として 春は(まさ)()れんとして
欣欣物自私 ―― 欣々として 物 自ら(わたくし)とす

静かに迎える晩春に
生きとし生ける万物の
喜ばしきかな、美しきかな ―― 哀しきかな


花むせかえる春の宵、ひとり歩いて詩を詠じる青年が一人。
「何を哀しいと言いやるか」
かけられた声に振り向けば、明月に浮かぶ桜木の傍ら、古拙な笑みをたたえた女。
男は僅かに驚いたふうに眉を動かしたが、すぐに穏やかなほほえみを浮かべて言った。
「これはまた稀なること。御主(おんし)は桜花(おうか)の花精か。否、春の」
すぐに見抜かれたことを不満に思ったか、女は心持ち憮然として応じる。

「是では有らぬが、否とも言わぬ」
「では、名でもお聞かせ願えるかの。私は ―― 」
「名乗らずとも存じておる、夢守(ゆめもり)よ。我が名は ―― 佐保、とでも」
「承知致した」

佐保姫、と、青年は呼んで。
ゆったりとした動作で、胸の前で軽く握った左手に右手を添える独特の礼をした。
漂漂とした男の態度にいささか苛々した様子で女は言う。
「まだ問いに答えてもろうておらぬが」
男は無邪気に笑んで、さてさて、と考えを廻らせている。
「無粋な問いに如何に応えるべきか」
「無粋、と言いやるか」
「応えを知っていながら問うのであれば、無粋としか」
それを聞いて、女はからからと声をたてて笑った。
「降参じゃ。珍しゅう、骨のある」
「先にも、いささか気の強い花精と話した事があります故に。梨、であり申したが」
「成る程」
得心いった、とばかりに女は頷き、続けた。
「未だ、其方の中で花は散ったわけではなさそうよの」
その言葉に、今度は男が是とも否とも言わず。
ただ、はらりと散って目前に漂う花弁を、優雅に扇で掬い取る。

「 ―― 春心 花と共に発(ひら)くを争うこと莫れ 一寸の相思一寸の灰。先ほどの応えはこれでよろしいか」

意地悪く、女が言う。
「争うを望まずとも、既にひらいた花であれば。片などひらって遊んでおらずに、枝ごと手折って我が物としてみよ」
そして、男の前にある、一枝の桜花を手にした扇で指し示す。
だが男は黙って首を振った。

「何故(なにゆえ)に」
「私が望む花は桜花(おうか)に非ず。 ―― 梨花の季節にはまだしばし間がある故に」
「時を置く間に散っても知らぬぞ」

彼は何故か憂いを含まぬ様子で応じる。
「ならば、それがさだめかと」
「夢守の言葉に相応しいとも思えぬが ―― まあ、よかろう」
佐保姫は少々残念そうに息をつく。そこに男が言った。
「ひとつ。よろしいか」
「申してみやれ」
「いずれの日かに、同じ憂い持つものが在ったなら。同じ問いをしてはくださらぬか。時と応える者が異なれば ―― 違う解も或いは有りましょう」
女の眉がくいと上がる。
「花と競ってまで咲かすものではないと。言うたばかりで」
男は月夜に浮かぶ花をいとおしそうに眺めやり、僅かな哀しみをたたえた表情で言う。

「…… 一寸の灰とても残る故。咲かせて悪いものでもありますまい」
「―― 面白い。覚えておくとするかの」

飄と風が吹いて、女の姿が消える。
青年は春の宵を楽しむようにそこに佇んで、月を見上げた。

◇◆◇◆◇


「メイファンさま …… ?」
不意に訪れた黒髪の幼子に名を呼ばれ、彼は慌ててそちらを見る。
「これは。このような夜更けに出歩いて。闇の館の者に知れれば心配しように」
叱りながらも、その表情は笑っている。結局彼はこの幼子に甘い。
「 …… ごめんなさい。つい …… 」
「まあ、よい。帰るとしよう。そなたも、送ってゆくぞ」
幼子は表情に乏しいなかで、一番感情を表すその紫水晶のひとみで僅かに嬉しそうに笑ってこくん、と頷いた。
月の明るい宵の道を。
手を引かれて歩きながら幼子が躊躇いがちに言う。
「さっきの人はだれ?」
美幻は驚いて幼子をみやる。
「そうか、そなたにも見えたか」
「…… うん」
「そうよの、佐保姫、と言っておった」
「さほひめ?」
「そう、佐保姫ぞ」
美幻は笑って頷いてみせる。
「また …… あえるかな?」
そう問うた幼子に、彼は月を見上げる。
「そうよの。またいつか。そなたが花を咲かせるときがあれば、会うこともあるかも知れぬ」
「花 ……」
「だが、それが良きか悪しかは、私にはわからぬこと」
呟いた彼の言葉に、不安そうな表情をする幼子。美幻は笑顔に戻り言った。

「たとい闇の中でも。咲く花が美しゅうこと、覚えておくがよい。されば、何も案ずることはなかろう」

花冷えの風の中。
歩く二人は闇と花とに紛れて去った。
遠い、遠い、昔日の、ある夜の話 ―― 。



◇◆◇◆◇


◇ 「還春来」へ ◇
◇ 「彩雲の本棚」へ ◇