桜闇夜話 ―― (第三夜)

佐保姫とレオナード



聖獣の聖地、未だ春。
眠るにもなにやら目が冴えて。
ぶらりとあたりを散歩する男がひとり。
ふと吹いた風に運ばれた桜の花びらに誘われて目を上げれば、それまでは気付かなかった桜の古木。
妖しいまでに咲くその花を見てから男は僅かに眉をひそめ鋭く言った。

「誰だ」

厳しい誰何(すいか)の声にも動じぬままに、くつくつと笑う女の姿が浮かび上がる。
「ほう、気付きよったか」
あきらかに人ではないと気付いて警戒は強めたものの、男もまたさほど動じた様子もなく女に言う。

「匂いがした」
「花が咲けばその香もしようぞえ」
「ふざけんじゃねェよ。桜は葉が香るんだ。花ににおいはねぇんだよ」

にや、と弧を描く口元を扇で隠して女は嗤う。
「ほう、存外 ―― ものを知っておる」
「はっ、バカにしやがる。で、てめェは誰よ?」

佐保姫、とだけ。応えた女に男は言う。
「バケモンが何の用だ」
「昨夜の童(わっぱ)と違ぅて礼儀を知らぬ。 ―― 恐るるものも無いか」
「ああ、ねぇよ」

男の返答を聞いて佐保姫は目を細める。
「礼儀も知らぬが、己のことも知らぬようじゃ。やはりものを知っておると思うたは気のせいか」
禍々しいような笑みをたたえて自分を見据える女に、男は何を言いやがる、と吐き捨てた。
そして。

「恐いモノなんざぁ……ねぇよ」

不敵に言って、目の前にあった一枝の桜花を荒々しく毟り取る。
そのとき、月が、隠れた。
佐保姫が、ゆらり、とゆれる。
姿が浮かび、消え、浮かび。
ゆらゆらと男の周りを漂ったかと思うと、その耳にうわんうわんと女の声が木霊する。

―― ああ、可笑し。可笑しやのう。
―― 恐るるものも無いと言いやるか。
―― されど其方が知らぬだけ。
―― ほうれ。足元をみてみやれ。

促されて男が思わず見た足元に。
そこには。
―― 暗い暗い淵

己の影の形にぱくりと口をあけて。
吸い込まれるような錯覚に陥って思わず男はよろめいた。
よろめいた拍子に零れ落ちた、先ほど手折った桜花。
足元の暗い淵にねっとりと囚われ、飲まれて溶けた。

「ばかな」

冷やりと背中を流れる汗。
あたりの闇が、一層濃くなり男を囲う。
ばかな。
と、ふたたび呟いて膝をついた男の耳に。

―― その淵の名を知っておるか?
―― 其は。
―― 孤独。

高く嗤う女の声が木霊して ―― 消えた。

◇◆◇◆◇


「大丈夫ですか?レオナード様?!」

女の声が消えたのと同時に、元気であるが心配そうな声で娘が問う。
その声と同時に、月が雲から顔を出す。
片膝をついたまま、彼は娘を見て応じる。
「大丈夫だ ―― エンジュ」

「そうですか?レオナード様もお散歩ですか。私も夜桜が綺麗なのでつい ――」
と。
元気に言った言葉を止めて彼女はかがんで足元の桜の枝をひろう。
「この枝 …… 無理やり千切ったみたいに。まさか、レオナード様じゃないでしょうね?桜の木は切っちゃいけないんですよ?」
仕方ないなぁ、と呟きながら彼女は枝を拾い、それでも、はい、と笑んでレオナードに桜花を手渡そうとした。
その手を引き寄せて、彼は彼女を抱きしめる。

「 ―― しばらくこうしていてくれねぇか」

僅かな戸惑いのあとに、彼女は彼を抱きしめ返し、微笑んで応える。
「はい、側にいますよ?ずっと ―― 」



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