桜闇夜話 ―― (第二夜)

佐保姫とティムカ



聖獣の聖地、やはり春。
宵闇の中をそぞろに歩く青年がひとり。
僅かに憂いを帯びた表情のまま、吹いた風を追って目をやれば。
そこには霞みの如く朧に浮かぶ花影。

―― このようなところに桜の古木があったでしょうか?

陽のあるうちには気付かなかったその花に彼は寄って足を止める。
そして一陣の風に舞い上がる花びら。
むせ返るような花におされて思わず背けた面(おもて)をふたたび上げたとき。
桜の傍に浮かび上がる女の姿。
さも楽しげに女が言った。

「 ―― 忍ぶれど色にでにけり、よの」
(註:秘めているつもりでも恋心が表に現れて見て取れる、の意)

青年は僅かに眉をひそめてその女の姿をみやる。
人ではない、と。
彼は直感するが何故か恐ろしいとは思わぬままに問うている。

「貴女が何者かを ―― 伺ってもいいでしょうか」
「佐保姫と。呼ぶものもおるな、あちらの聖地では」

さほひめ、と。
意味を確認するように青年は口の中で呟く。
その様子を、くく、と笑って見やってから女は言った。
「邪とは思わぬか」
「女王陛下のお力を信じています。この地に入ることができたのなら ―― 人ではなくとも邪(よこしま)なるものではないと」
「ほう、健気なことよの。それは忠誠心か、或いは」
閉じた扇を口元に充てて、楽しげでありながらいささか揶揄するような女の口調。
彼は僅かに不快の色を見せてから言った。

「如何なる用で、ここへ」
「花を見に」
佐保姫は、わざわざあちらの聖地から来やった、と、飄々と応える。
青年も表情を変えずに重ねて問う。
「花ならばあちらの聖地にも咲いておりましょう」
「花は花でも ―― 恋の。あちらは昔とちごうて今は円満故につまらぬ」

青年の表情にあきらかな反応を見て取って、佐保姫の紅い唇はにや、と弧を描く。
しかし、しばしの間の後、静かに彼が言った。

「 ―― 春心 花と共に発(ひら)くを争うこと莫れ 一寸の相思一寸の灰。と、申しますが」
(註:春心莫共花争発 一寸相思一寸灰→恋は花と競ってまで咲かすものではない。一寸の恋の焔はいつか燃え尽き一寸の灰となるのだから、の意)

佐保姫はさも愉快と言った風情でからからと笑う。
「おお、小賢しい、小賢しい。あちらでも古(いにしえ)に、同じことを言うた童(わっぱ)がおったが。
サテ、小賢しいついでに考えてみやれ。一寸の灰とても ―― 残るということを」

青年は目を見開いて佐保姫を見、そしてその視線を桜に向ける。
さらに静かに手を伸ばし、目前に下がる花の一枝に触れた。
その様子に女は嬉しそうに尋ねる。
「手折るか」
「いえ」
「強情な」
彼は花から手を離し俯いた。

「花盗人に罪はないと聞きますが ―― 罪は罪」

女は妖艶に笑んで、手にした扇を青年の顎にあてて、その面を上向かせる。
「なれど ―― 罪を犯しても手折りたき花もあるやもしれぬのう」
ふわり。
佐保姫が扇をひらくと風が立ち花弁が舞う。
そして気付けば青年の掌中に一枝の桜花。

「花は自ら其方(そち)の手の中に。されど真に手折りたき花はサテ何処(いずこ)」

くつくつという笑い声を残して、女はけぶる花吹雪の中に消えた。

◇◆◇◆◇


佐保姫の気配が消えると当時に、ティムカは背後に別の気配を感じ取る。
彼は振り向かずともそれが誰だかわかっている。
背を向けたままの彼に問い掛ける声。

「―― こちらを、みてはくれないの?」

動かぬまま、彼は応じる。
「そのように出歩かれては心配する者もいるでしょう。どうか ―― お戻りください」
陛下、と。
最後につけくわえようとしながらも、僅かに洩れる彼の私情がそれを妨げた。
彼の言葉を無視してアンジェリークが言う。

「花を手折るのは罪だったとして。自ら掌中に花が落ちたのなら、どうなのかしら?」

「それは」
と。
振り向いた彼の胸に彼女が身を投げだした。
僅かな躊躇いの後に、彼はその華奢な体を掻き抱いている。
手にしていた桜花の枝が地に落ちて潸と散った。
腕の中で彼女が囁く。

「花ではなく人である身なら。罪咎も痛みも ―― 共に」



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