桜闇夜話 ―― (第一夜)

佐保姫とクラヴィス


神鳥の聖地。
常春とはいうものの僅かに移り変わる季節の今は春 ―― 春の宵。
さらにわけ入れば迷いの森となるその少し手前に、今を盛りと咲き誇る、桜の古木が闇に浮かぶ。
朧な月に照らされて淡く浮かぶ白い花影。
その輪郭はぼんやりと、闇と月影とにまじりあい、薄闇の中に花の気配を滲ませる。
飄と吹くぬるい風に舞い上がる花弁は狂わんばかり。

そこに佇む男がひとり。
衣も濡羽珠の髪も、闇をまとったの如くのその姿。
そして。

「 ―― 久しいの 」

何処からともなくかけられた女の声に、男は動じず答える。
「 …… 佐保姫 …… か」
呼ばれた名に応じるように、舞う花びらの向う、ぼんやりと着物姿の女が浮かびあがる。
まとう衣の柄は今乱満に咲く花をそのまま映し込んだような桜文様。
吹く風に今にも散りそうな。
否。

―― 散っているのかもしれぬ。

佐保姫と呼ばれた女が言った。
「幾年の時が人の世に過ぎたかは知らぬが ―― 流石に其方(そち)も少々老いたか」
老いたという表現に男は微かに笑う。
「 …… 確かに、少しは歳を重ねたようだ …… 」
「ほう?それに ―― 何ぞ心の変化でもあったかえ」
紅い唇が弧を描いて女が嗤う。


(和晴さん画)


男はふたたび僅かに笑んだだけで舞う花弁に視線を動かした。
そして言う。
「…… 今度は何を企んでいる」
女はほほ、と袖に手をあてて、企むとは人聞きが悪い、などと呟いてから。

「こちらにもちぃと飽いた。新しゅうできたと聞く向うの聖地の様子でも覗いてみようかえ」
「…………」
無言で目をやる男に女は悪びれず更に言う。
「そのように睨むでない。悪戯もほどほどにしように。ほどほどに、な」

僅かなため息を零し男は踵を返す。
そのとき女が手にした扇で軽く空を切る。
一陣の風が騒騒(ざざ)と鳴り花弁を一層舞い上げた。
そして男の掌中に一枝の花がはたりとお落ちる。
「これは」
問うた男に佐保姫は扇をぱちりと閉じて短く応じる。

「口止めの賂」
「人にはあらぬ身で俗な真似をする」
「其方(そち)こそ木石(ぼくせき)にあらずんば ―― 花簪のひとつも差したき娘もあろう?」
佐保姫は、ほほ、と笑んでふわり。
姿を消した。

◇◆◇◆◇


「クラヴィス様、探したんですよ?一緒に夜桜を見ようって約束を ―― 」
佐保姫が姿を消してすぐに。
向うから姿を見せたのは桜色の補佐官の衣をまとった娘。
彼女の言葉が終わらぬうちに、クラヴィスはアンジェリークを抱き寄せた。
そして、手にしていた桜の花を彼女の髪に飾り囁いた。
「約束を違えてはいない …… 花はここにある」
「それは。確かにそうですけれど」
今目前にある桜のことを言っているのであろうと思い彼女は呟きクラヴィスの腕の中で桜の古木を見上げた。
そして思わず感嘆の溜息とともに漏らす。
「 ―― すごい、圧倒されそうな桜ですね」
クラヴィスは、くつくつと笑んで。
「その花のことではない」
怪訝な顔で彼を見やる彼女の額にくちづける。

「今宵愛でる花は …… 今この腕の中に咲いている」



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