水底の貝

「潮騒」の続編です。


たったったっ、と。
執務室の廊下を早足でかける音がする。
この足音で、私は彼女の来訪を知る。
かつて似たような、けれどどこか不器用な風情の漂う足音をぱたぱたと響かせて走った女王候補は、今は元気な笑顔の女王補佐官。
だから、この足音は。

開かれた扉の向うの姿に私は挨拶する。
「いらっしゃい、エンジュ。今日のご用件はなんでしょう?」
いつもなら朗らかな笑顔を見せるところを、彼女は真剣な面持ちのまま答える。

「今日のお願いは、サクリアの拝受ではなく、新しい守護聖候補の説得についてなんです」

ああ、と私は得心する。
先だって補佐官からも連絡があったばかりだ。
そのことについては心を覆う陰りがあった。彼女にいつもの笑みがないのも同じ理由からかもしれない。
「今から白亜に出かけるのですか?」
聞いた私に、彼女は黙ってうなずいた。
それなら同行しましょう、と立ち上がりながら。
私は。
私には、果たしてどれだけのことができるのだろうか、果たして私が訪れることで何かを変える事ができるのだろうか、いや。

―― 変える権利があるというのだろうか。

そんな迷いを打ち消せずにいた。

◇◆◇◆◇

星の小道を抜けてたどり着いた常夏の星。
気候は違うが風に混じる潮の香りが、遠い故郷を思い出させる。

昔。
この星の風景を、わたくしは、まだ幼さを残す少年から聞いたことがある。
国を愛し、家族を愛し、友人を愛し。
この星のすべてと共にあることをなによりも幸せのように語っていた少年を ―― 今は青年というのが相応しいか ―― 彼を、この場所から引き離す手伝いを、私はしようとしている。
こんなふうに、考えてはいけないと、わかってはいたが、考えずにはいられない。
そんな私の前を、まっすぐに背を伸ばし凛と正面をみつめたまま、いつもの早足で歩くこの少女は、己に課せられたこの残酷な任務を、いったいどのように考え、どのように自己の中で昇華しているのだろうか。
それがひどく知りたかった。

宮殿へ到着し、しばし待たされた後。
憂いをおびた表情で私達の前に現れた彼に、結局、ひとりでは苦しまないで欲しいと、ただそれだけを伝えるのがやっとだった。
それ以上のことも、それ以下のことも私には言えない。
悩んだところで定められたこと、逃れられぬことだから守護聖になれ、とも。
いつか女王になることを躊躇っていた少女へ言ったのと同じように、あなたの望むようになさい、とも。
私には、言えないのだ。
ただ、ともすれば、すべてを抱え込みひとりで苦しんでしまうであろう彼に。
あなたには支えてくれる家族や友人がいるのであり、私もその友人のひとりとしてできる限りのことはすると。
それが、精一杯。
私の言葉に、それでも僅かに憂いの表情を解いて、丁寧に一礼してくれた彼に、逆に救われた気さえする。
彼だってわかっているはずなのだ。
ひとりで苦しむなと言われたところで。
結局乗り越えなければいけない痛みは、誰あろう、彼自身のものなのだと。
かつて家族から離れ遠い聖地で生きることを強いられたという私の経験は、今の彼の置かれた状況に似ているだけであって、決して同じではないのだ。

良く『人は誰でも』という言葉を耳にする。

もちろん誰しも生きていく上で苦しみや哀しみを抱えるわけだから、その言葉は頻繁に使われて然るべきなのかも知れない。けれど、私はあまりその言葉が好きではなかった。
何故なら、苦しみや哀しみにおいて。
その痛みやもどかしさは、悩み、迷いながらそれぞれの人が抱えるものなのだ。そしてその末に導き出したそれぞれの答えは、仮にありふれたものであっても『誰でも』などという言葉にかえることにできない尊いものだと、そう信じている。
同じように運命や宿命という言葉も、その苦しみや迷いの経過をすべて無視して、答えだけを押し付けるようで好きになれない。
もっとも、言葉にこだわったところで。
私のやっていることがその『宿命』とやらの押し付けであるのなら、これらの考えは私の、罪悪感から来る感傷に過ぎないのかもしれないのだが。

強い太陽に眩しく輝く白亜。
その名の通りの宮殿を辞して、私たちはふたり、帰途につく。
少女は私に、ありがとうございましたと一礼して、見慣れたいつもの快活な笑みを浮かべた。
今日この笑顔を見るのは、もしかしたら今がはじめてかもしれない。
まっすぐな瞳で凛と前を向いていた彼女の、迷いの一部を垣間見た気もしたが、確証は無かった。
彼女は続けた。

「もし、お時間があるなら、海岸に、寄ってみませんか? 少しだけ、息抜き」

その屈託の無さに、心が軽くなった、ような気がした。それでいて、彼女の自身の、使命に対する考えへの疑問と興味がいっそう深まる。 そんな心持ちで、私は頷き、促されるまま海岸へと足を運んだ。

◇◆◇◆◇

浪打ぎわを歩くと残されるふたりの足跡。
そしてそれを消し去っていく透明な水。
繰り返す波を見ていると、私はいつも海は生き物のようだと感じる。
その同じようでいて決して同じ姿をとどめぬ様は、いくら眺めても飽くことがない。

しばらくはそうして黙って歩き、潮風に吹かれていたが、私は彼女に訊ねている。
「今日ここへ来たことで、わたくしは果たしてあなたの役に立ったのでしょうか。彼は返ってあなたの説得に応じる機会を、逸してしまったかもしれない」
後ろで手を組んで、私の少し前を歩いていた彼女が振り向いた。
私の疑問がひどく不思議だというように首を傾げてから微笑んで。
「私の役に立ったかどうかなんて、気にしないでください。候補の方の気持ちが少しでも軽くなったなら、それでいいんです。その結果、説得に応じることから気持ちが遠ざかったとしても」
その返答に、私は重ねて訊ねてしまう。

「あなたは、ご自分の使命について …… どのように、ご自分の中で答えを出しているのですか?」

意地悪な、質問だとわかっていた。
私はこの質問をして、いったいどんな答えが返ってきたら満足するというのだろう。
己の中で出せぬ答えを、彼女に投げかけておいて、それでもしも『使命だから』などという返答を得たとして、私は勝手に彼女に失望するのだろうか。
いや逆に、その答えを得ていることで彼女が苦しんでいないのであれば、それはある意味私が望む答えなのかもしれない。

「私に課せられた使命ですから。それが正しいと、信じるだけです」
「そう、ですか」

まさに予想していた答えだった。
私の心中に浮かんだこの気持ちは果たして失望なのか安堵なのか。
その時、彼女がくすりと笑った。

「…… と、答えると思いましたか?」

息を飲んで、私は彼女をみつめた。
笑顔から、彼女は一転真剣な眼差しで私をみている。

「どうか怒らないでください。人が人に何かを問う時、たいてい、その人は望む答えを無意識に持っているんです。
その答えを選んで、返答することが時にその人にとってプラスになることもある。
今ももしかしたらリュミエール様が望む答えを、私は返すべきかも知れないって思ったんです。
でもやっぱり、どうか本音を言わせてください」

驚いていた。
確かにそうだ。
人は人に何かを問う時、たいてい望む答えを持っている。
後押しして欲しくて、望む答えを欲しくて、問いを投げかけるのだ。
いつか。
やはりこんな波打ち際で。
私に問いを投げかけた少女のことを思い出していた。
そして、彼女の望む答えを与えた私自身を。

僅かな追憶から戻り、私は目の前の少女をもう一度、みつめる。
彼女はもしかしたら、私の予想を遥かに越える結論を、導き出しているのかもしれない。
頷き、言った。
「どうか、本音を聞かせてください」
彼女も真摯な表情で頷きかえす。

「私がしていることが、残酷なことだと承知しています。
そして、これが正しいことだなんて自信、はっきりいって全くありません。
無責任なって、思われるかもしれないけれどもそれが正直な気持ちです。
でも、無責任って思われても、責められても。
その痛みに目を背けないことこそが、彼らに残酷な未来を突きつけるかわりの私の覚悟なんです。
ここで私が迷ったりしてはいけないと思うし、私のすべきことは、少なくとも彼らに同情したりすることじゃない」

彼女はひとつ、深呼吸をする。

「なにが『正しい』かなんて私にはわかりません。苦しみ、傷つく人がいるのであれば、それはとうてい『正し』くなんかないのかもしれない。それでも、もしも、過去へもどり、やり直すチャンスを与えられたとしても、私はきっと、再び同じ道を選択します。
もう一度言います。それが、私の、使命に対する覚悟なんです」

人に痛みを与えていることを自覚した上で、その痛みから目を背けずにいようとするその強さ、そして ―― 優しさ。
その想いに、私は圧倒されそうになった。
彼女の心とて痛まないわけではないのだ。
けれど、それを表に出さないことこそを、彼女は己の決心の証としている。
同情や憐憫など、確かに、今彼等が必要とするものではないのだろう。
迷いなき強い瞳こそが、彼らを導く、北天の星となる。

ただ、彼女のこの覚悟は、ともすれば、冷酷とも受け取られてしまうだろう。
さきほどどうか本音を言わせてくださいといった言葉に、その不安が垣間見れた。

「何故、わたくしに本音を?」
「リュミエール様には、本当の私を知って欲しかったから」
「…… 何故 ?」

先ほどから、何故、とばかりくりかえす自分に内心苦笑した。
彼女もそれは同じだったらしく、ようやく笑顔になりくすくすと、
「何故とおききになってばかり」
そう楽しそうに笑う。
それからくるりと背を向け、

「おわかりにならないのなら、ナイショです」

言って、肩越しに振り向き屈託の無い笑顔を見せた。
そのとき、いたずらな風が、彼女の髪を結わえていたリボンを攫って逃げた。
ふわりとリボンは寄せる波の上に落ち、海の上をゆらゆらと漂う。

「仕方ないなあ」

と、彼女はさして困った風もなく呟くと躊躇いもせず靴を脱ぎ、水の中に足を踏み入れた。
冷たくて気持ちいい、と微笑みながら、リボンをてのひらですくいあげる。
濡れたリボン。
それを眺めやって、ふたたび彼女は、しかたないなあ、と笑顔で言う。
そして、残ったもう片方のリボンをほどいて、ふたつまとめてポケットに仕舞い込む。
ほどかれた髪が潮風になびいて。
おさげ姿しか見たことのなかった少女が、その時ひどく大人びて見えた。

ふいに、水の中に何か見つけたのだろう、彼女がかがんで何かを拾い上げる。
私に向かいひらかれたその掌を覗き込めば、ハートの形をした淡紅の貝殻。
彼女は可愛い形ですね、と嬉しそうに微笑んだ。
てっきり持ち帰るのだろうと、私はそれを包むためのハンカチを手渡そうとしたが、その次の彼女の行動は想像の範疇外だった。

彼女は波を追いかけるように数歩走ると、思いっきり腕を振りかぶり、貝を石のように鋭く水面に向って投げた。
投げられた貝は、水面を幾度か跳ねて、六回目でぽちゃんと水底へと沈んでいく。

「うーん、七回まではいかなかったか。新記録達成ならず!」

さして残念そうでも無く言う彼女に、きっと私は驚きで目を丸くした表情で言ってしまったに違いない。
「綺麗な貝殻でしたから、てっきり持ってかえるのだと」
彼女はああ、と言ってにっこりと笑った。
「お気づきになりませんでしたか?あの貝、貝殻でなくまだ生きていたんです。海のそこで、ハートが大きく育つって考えたら面白くないですか?」
思わず、私からもほほえみが零れる。
「そうですね、とても素敵ですね」
でしょう!と元気にこちらへ向いかけてくる途中、彼女は裸足の足を砂に囚われて身体のバランスを崩す。
慌ててその身をささえた私に、彼女はちいさくありがとうございます、と言って真っ赤になって、落ち着きなく身を離した。
その姿がとても ―― 愛らしいと。
私は、そう感じていた。

「そろそろ、帰りましょうか」
「…… はい。今日はありがとうございました、リュミエール様」

まだ少し赤らめたままの頬で、彼女は言う。それから気分を一転させたように。

「よし、明日からもがんばるぞ!」

夕日を背に、元気よく拳を天に突き出し歩く彼女の後ろ姿。
それをを追いながら。
青い水底で少しずつ育ちゆく桜色の貝の姿を、私は想像していた。


―― 終


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焦点ばらばらの作品になっちゃいましたが、個人的にはお気に入り。

まだこの話のふたりは恋愛未満ですね。でも、いずれはくっつく未来を期待。
(書く予定はいまのところありません)

ティムカの説得ネタに関しは、エンジュの台詞は「赤い花、白い花」、リュミエールの台詞は「祈り遥か」と内容かぶっちゃいました。
説得する時の、説得する側の覚悟、ってのはエトワールを舞台に書く上での永遠のテーマな気がしてます。


2005.08.01 佳月拝